第75話:薪の値が、倍になった
霜は、あの朝から三日おきに降りるようになった。
降りるたびに、畑の白と黒の境目は同じ場所に引かれた。湯が届いている範囲と、届いていない範囲。それだけの違いが、毎朝はっきりと地面に描かれる。
ベルナ・カルドは、あの日、畑を四半刻ほど見ていた。
俺に何かを訊くでもなく、村の者に声をかけるでもなく、ただ畦を端から端まで歩いた。それから馬に戻って、「考えます」とだけ言って帰った。
「怒って帰ったんじゃない?」
ステラが見送りながら言った。
「怒ってはいないだろう。あれは、勘定してる顔だ」
「何を」
「自分が三年やってきたことと、俺が二十日でやったことを、並べてる」
それは、決して気分のいい勘定ではない。
***
次にやることは決まっていた。
湯路を、村の下まで延ばす。
いま湯が届いているのは、炉ノ村と、その先の畑一枚だけだ。霜ノ辻までは千歩、下ノ瀬まではさらに千五百歩ある。
途中に詰まりが四か所。崩れが二か所。そのうち一か所は、樋そのものが谷の崩落で失われている。
石を割って、運んで、据える。粘土で目張りをする。人手はある。冬に向けて畑の仕事が終わりつつあるから、男たちは手が空いている。
足りないのは道具だった。
鶴嘴の刃が三本欠けた。鏝が二本折れた。縄はいくらあっても足りない。
俺とステラは、ハーレンへ買い出しに下りた。
市に着いて、最初に見たのは薪の山だった。
値札の数字が変わっていた。
「二十枚」
ステラが低い声で言った。
「十日前は十枚だったよ」
薪の山の前に、人が固まっていた。買っている者はほとんどいない。値札を見て、しばらく立って、離れていく。
その脇を、荷車が通っていった。積んであるのは麦の袋だ。青地に白い天秤の旗が、車の側面に立っている。
「麦は」
俺は麦の値を見に行った。
こちらも上がっていた。一石で銀貨十二枚。相場が十枚前後だから、二割増しだ。薪ほど露骨ではないが、上がっている。
「冬前だから、って言い訳が立つ上げ方だね」
ステラが顎で示した。
「薪のほうは言い訳が立たない。二倍は、事故か、意思のどっちかだよ」
薪の山の前で、一人の女が銅貨を数えていた。
三度数えて、二束を一束に減らした。一束を抱えて、荷紐で背に括って、歩いていった。背中が小さくなるまで、俺は見ていた。
ここで薪を二倍にするというのは、あの女の家の火を、この冬のあいだ半分にするということだ。
値というのは数字だが、数字は最後には誰かの体温になる。
「谷の話は、もう町まで来てるかもね」
ステラが低い声で言った。
「湯路の話が」
「畑が一枚黒かったなんて、隠しようがないでしょ。町の連中は面白がってるだけだろうけど、面白がらない人間が一人はいる」
***
道具屋で鶴嘴を買おうとして、断られた。
「品が無い」
店主は目を合わせずに言った。棚には並んでいる。
「そこにありますが」
「あれは、注文が入っとる」
「三本とも」
「三本ともだ」
俺は引き下がった。店主が悪いのではない。この町の道具は、外から入ってくる。入れる者が一軒しかない土地で、その一軒に睨まれたら、店は畳むしかない。
市を出たところで、声をかけられた。
「フェーンさん」
振り返ると、恰幅のいい男が立っていた。
五十を少し過ぎたくらいだろう。外套の裏地が上等で、手には何も持っていない。荷を自分で持たない人間の立ち方をしていた。
「ドルガ商会の、グレイド・ドルガと申します」
俺は名乗り返した。
「お顔は存じておりました」
ドルガは丁寧に頭を下げた。
「東で、ずいぶんな仕事をなさった。セルヴァ盆地。二十年前に王国が地図から消した土地から、麦が出た。あれで、わたくしの商いは半分になりました」
「あなたが損をしたのは、俺のせいではない」
「ええ、まったく」
彼はにこやかに頷いた。
「土地が直っただけです。誰も悪くない。悪くないから、こちらは文句の持って行き先が無い。ああいうのが、いちばん腹が立ちますな」
言葉つきは終始やわらかい。目だけが笑っていなかった。
「北へ移られたと聞きました」
「移りましたとも。冷えた土地は、商人にとってはありがたい土地です」
彼はあっさりと言った。
「作れないものを運んで売る。それがわたくしの商いです。この谷は麦も薪も自前では足りない。二十年、そうでした」
「薪は」
俺は市の方を振り返った。
「山に木は生えている」
「生えております。切り出す者と、割る者と、運ぶ者が要るだけで」
ドルガは指を三本立てた。
「その三つを、わたくしが全部押さえているだけの話です。悪事ではない。誰にでもできた。誰もやらなかったので、わたくしがやりました」
そのとおりだった。
彼のやっていることは、どこも法に触れていない。二十年かけて、この土地の「外から入るもの」を一本の管に集めただけだ。
その管の栓を、いま彼は握っている。
「補填金の荷も、あなたが」
「運ばせていただいております」
「額は決まっていて、中身は決まっていない」
ドルガの笑みが、少しだけ薄くなった。
「よくご存じで」
「行政官でしたので」
「なるほど」
彼は外套の襟を直した。
「では、行政官らしくお考えください、フェーンさん。この谷が温まったら、わたくしの薪は売れなくなる。麦も要らなくなる。補填の荷も止まる」
「そうなりますね」
「わたくしは、それを止めはしません」
彼は本当に、止める素振りを見せなかった。
「止める必要が無いからです。冬は勝手に来る。あなたは道具が買えない。石は重い。人は寒がりです」
ドルガは一歩下がって、丁寧に礼をした。
「凍えたければ、勝手に掘っていらっしゃい」
彼は市の人混みへ戻っていった。
誰も道を空けなかったし、誰も避けもしなかった。町の人間にとって、彼は嫌われ者ですらないのだと分かった。麦を持ってくる人。薪を持ってくる人。それ以上でも以下でもない。
俺は、盆地でカセルという男に会ったときのことを思い出していた。
あの男は制度で語った。二十年その裁定を執行してきた誇りがあって、だから折れたときに崩れた。
ドルガは違う。彼には守るべき裁定が無い。あるのは帳簿だけだ。帳簿は、負けても崩れない。数字を書き直して、次の土地へ行くだけだ。
厄介な相手だと思った。憎めるところが、ひとつも無い。
***
帰り道、荷車は空に近かった。
縄だけは買えた。粘土は川で採れる。鶴嘴の代わりに、村の鍛冶が古い斧を打ち直してくれるという。
「値で殴り返すのは無理だよ」
ステラが歩きながら言った。
「あたしが東から品を回すにしても、この時期に山道を越える隊商は組めない。組めても、向こうが値を下げたら終わり。あっちのほうが荷を持ってるんだから」
「殴り返さない」
「じゃあどうすんの」
「要らなくする」
俺は前を見たまま言った。
「あの人が売っているのは薪だ。薪は熱を作るために買う。熱がよそから来るなら、薪は要らない」
ステラが数歩、黙って歩いた。
「湯路が下ノ瀬まで届いたら」
「三つの村の家に、湯が入る。囲炉裏に入れる薪の量が減る」
「減るだけ?」
「減るだけだ。ゼロにはならない。飯は炊かなきゃいけないからな」
それでも十分だ、と俺は思っていた。
商いというのは、売れ残りに弱い。冬の薪は、冬にしか売れない。
「間に合う?」
ステラが訊いた。
「二千五百歩を、二十五日で」
「間に合わせる」
言いながら、頭の中で日数を割っていた。
一日に百歩。詰まりを抜きながらで百歩は、正直に言えば無理な数字だ。人を増やすか、掘る場所を減らすか、どちらかを選ぶことになる。
減らせるとしたら、下ノ瀬だ。いちばん遠くて、いちばん人が少ない。
そこまで考えて、俺は自分の勘定を止めた。
二十年、この谷の人間は、足りない湯を石にして分け合ってきた。その決まりの中で、いちばん端の村を後回しにするのは、たぶん、この土地でいちばんやってはいけないことだ。
「全部やる」
「ほら来た」
ステラが笑った。呆れた笑い方ではなかった。
お読みいただきありがとうございます。
グレイド・ドルガは第2部で名前だけ出ていた人で、ここで初めて顔を出しました。彼は法に触れることを何ひとつしていません。悪人を書くとき、いちばん厄介なのはこの型だと思っています。
次回は、視点が変わります。三年間、館の中で何を見ていたのか。若い領主の側の話です。




