第74話:霜の降りない畑
杭の頭に打ってあった年号は、二十一年前のものだった。
俺はそれを油布に包んで、荷の底にしまった。
セルヴァ盆地が塩を吹き始めたのは二十年前だ。ヨナがそう言っていたし、東部監督府の台帳にもそう書いてあった。
一年、合わない。
合わないことに意味があるのかどうかは、まだ分からない。役所の杭は、命令が出た年に打つとは限らない。前の年に用意しておいた杭を使うこともある。
証拠にするには、王都側の記録と突き合わせるしかない。ここには無いものだ。
だから、俺は考えるのをやめた。
冬まで、あと二十九日しかない。
***
杭が抜けた翌日から、湯路の温度が変わった。
朝いちばんにリタが測って、それだけを言いに来る。
「村はずれで、人肌」
二日目。
「村はずれの下、三十歩まで人肌」
三日目。
「畑の手前まで来た」
彼女の言い方は変わらなかった。ただ、来る時刻がだんだん早くなった。
石の樋は、霜野の端の畑まであと三十歩というところで途切れている。そこから先は、二十年前より前に、誰も引かなかった区間だ。
俺たちはそこを自分たちで積むことにした。
谷の石を割って、形を合わせて、勾配をつけて並べる。ガルドが割り、村の男たちが運び、俺が据える。
できあがった三十歩は、見るからに下手くそだった。
石の合わせ目に隙間がある。粘土で目張りをしても、湯気が漏れる。上を歩けばぐらつく。
その隣に、百年より前に誰かが積んだ樋が続いている。鑿の跡ひとつ無い、隙間ひとつ無い石組みだ。
「腕の差が出るね」
ステラが並べて眺めて、遠慮なく言った。
「出るな」
「悔しくないの」
「悔しい」
俺は正直に答えた。
「でも、湯は流れる。今日はそれでいい」
勾配だけは、意地でも合わせた。
樋というのは、傾きが全部だ。急すぎれば湯は走って冷めるし、緩すぎれば途中で溜まって冷める。三十歩でどれだけ下げるかを決めて、石を一つ据えるたびに水を流して確かめた。
二日で十歩しか進まなかった。
三日目に、リタが黙って手伝い始めた。彼女が据えた石は、俺が据えたものより明らかに座りがよかった。
「あんた、遅い」
「合わせてるからな」
「合わせるのは悪くない。手が遅い」
容赦が無い。だが、彼女が入ってから進みが倍になった。
目張りの粘土は、ステラが下ノ瀬の川縁で見つけてきた。買えば銀貨の話になるものが、歩けばただで手に入る。商人というのは、そういうことを覚えている職種だ。
ミリアは村の女たちと一緒に、湯路の縁の草を刈っていた。草が伸びていると、そこから熱が逃げる。誰に教わったのかと訊いたら、リタさんに、と答えた。
***
二十一日目の夕方、冷えが来た。
昼のうちは日が差していたのに、日が落ちた途端に空気が乾いて、音が遠くなった。冷える夜は音が変わる。この谷の人間は皆それを知っていて、夕方から家に薪を入れ始めた。
「今夜だな」
畑の畦で、リタが空を見上げた。雲がない。星が痛いくらいに見える。
「降りるか」
「降りる。この空は降りる」
俺は畑を見た。
霜野の端、湯路の末端に接した一枚。五反。この土地の数え方で、一枚。
湯路の水を畦の溝に落として、畑の三方を回してある。土の中を通す暇は無かったので、地表に細く湯を這わせているだけだ。素人の細工だ。
湯気が、畝の上を薄く流れていた。
夜半、俺は何度か外へ出た。
二度目に出たとき、畦に人影があった。リタだった。毛布を肩に掛けて、湯の溝に手を入れている。
「寝ないのか」
「寝られるか」
彼女は手を引き上げた。指先から湯気が上がった。
「うちの父は、これをやろうとして死んだ」
声は平らだった。
「石を抜こうとして、役人に殴られた。次の年に、もう一度やろうとして、湯路の底で倒れてた。冬だった」
俺は何も言わなかった。
「あんたが今日抜いた石はな」
リタは溝の湯を見ていた。
「父が抜こうとして、抜けなかった石だ」
俺は畦に腰を下ろした。
「一人でやったのか」
「一人だ。村は止めた。役人にまた来られたら、みんなが困るからな」
「正しい判断だ」
「正しいさ」
リタは短く笑った。笑いというより、息の吐き方だった。
「正しくて、二十年冷えた」
畑の向こうで、ガルドの咳払いが聞こえた。ミリアと二人で、畦の反対側の溝を見ている。誰かが起きていないと、湯が溢れたときに止められない。三人で交代することにしてあった。
「一つ訊いていいか」
俺は言った。
「湯路を掘った人間の名前を、あなたの家では何と伝えている」
リタはすぐには答えなかった。
「名前は無い」
「無い」
「炉を掘った男、としか。うちの家に伝わってるのは、それだけだ」
彼女は立ち上がって、毛布を巻き直した。
「話は、それだけじゃない。けど、今日はしない」
***
夜が明けた。
空気が白い。息が形になって残る。
俺は小屋を出て、霜野へ歩いた。
一面が、白かった。
草の葉の縁に、細かい氷の粒が並んでいる。踏むと、乾いた音を立てて崩れた。霜野という名前は、比喩ではなかった。二十年、毎年この時期に、この景色が広がっていたのだ。
俺は、白い畑の中を歩いた。
そして、境目に立った。
目の前の一枚だけが、黒かった。
湿った土の色をしていた。畝の上に薄く湯気が流れていて、その湯気が触れている範囲だけ、霜が降りていない。
境目は、驚くほどはっきりしていた。畦を一本挟んで、白と黒が分かれている。
俺はしゃがんで、土に触った。
温かくはない。ただ、凍っていない。
麦の葉が、緑のまま立っていた。
「おい」
後ろで、誰かが息を呑む音がした。
村の男だった。石を運んだ五人のうちの一人だ。彼は畑を見て、白い方を見て、また黒い方を見た。
それから、走って戻っていった。
しばらくして、村じゅうが来た。
二百四十人が全部来たわけではない。だが、炉ノ村の人間はほとんど来た。霜ノ辻からも走ってきた者がいた。
誰も、大きな声を出さなかった。
畦に並んで、黙って畑を見ていた。子どもが一人、白い方の霜を足で崩して、黒い方へ入って、また戻った。それを何度も繰り返して、母親に叱られた。
年寄りが、しゃがんで土を握った。握った土が、指の間で崩れなかった。
「……湿っとる」
それだけ言って、その老人は畦に座り込んだ。
俺は畑の三方を歩いて、湯の溝を確かめた。
溝の湯は、ぬるくなっていた。夜のあいだ、ずっと熱を土に渡し続けていたのだから当然だ。渡した分だけ、湯は冷える。
畑の東の角だけ、うっすらと白かった。溝が回りきっていない場所だ。あと十歩、湯を引き回せば消える。
欠けを見つけるのは気分がいい。次にやることが決まるからだ。
「霜が降りなかったのは、この一枚だけか」
村の男が訊いた。
「隣の三枚も、たぶん少し違う」
俺は白い方の畝を指した。同じ白でも、畑に近い側の霜は粒が細かい。遠い側は厚く積もっている。
「湯気が届いてる範囲だけ、霜が薄い。来年は、その三枚で麦の出来が変わるはずだ」
「一枚が、四枚になるってやつか」
「そういうことです」
男は自分の畑の方角を見た。それから、何も言わずに湯路のほうへ歩いていって、石を運び始めた。誰も指図していない。
リタは、少し離れたところに立っていた。
俺と目が合うと、彼女は湯路の末端まで歩いていって、しゃがみ、俺たちが積んだ下手くそな三十歩の石に手を置いた。
そのまま、しばらく動かなかった。
昼前に、蹄の音が谷を上ってきた。
馬は二頭。前を行く一頭に、若い娘が乗っていた。
供の者が慌てて追いついてくるのを待たずに、彼女は馬を下りて、畦へ歩いてきた。
ベルナ・カルドは、白い霜野と、黒い一枚を見比べた。
それから、俺を見た。
息が上がっていた。ハーレンから、休まずに来たのだろう。
「これは」
彼女の声は、館で聞いたときより高かった。
「畑です」
俺は言った。
「一枚だけの」
お読みいただきありがとうございます。
第2部で、盆地に最初の麦が実る話を書いたとき、いちばん反応をいただいたのが「村人が黙って畑を見ている」場面でした。今回も同じ形にしています。喜びは、大声よりも沈黙のほうが伝わることがあるので。
ブックマークと評価は、湯路の詰まりを抜く駄賃にさせていただきます。三十歩の石は下手ですが、湯は流れました。
次回、薪の値が倍になります。冬の谷で薪の値を握るというのは、それだけで人の首を絞められるということです。




