第73話:五十日で、一枚だけ
書付は、油紙に三重に包んで、木の箱に入れてあった。
リタの家の梁の上から出てきたそれを、俺は炉の火のそばで開いた。紙は端が茶色く焼けている。湿気ではなく、囲炉裏の煙で燻された色だ。二十年、火のそばに置かれていた紙の色だった。
文面は短かった。
――黒峰の熱脈は不安定であり、周辺の地勢に重大な危険を及ぼす恐れがある。よって当該熱脈を封鎖する。以後、湯路への通水を禁ずる。
その下に、印が押してある。
円の中に、交差した二本の直線。測地院の印だ。
「読めるのか」
リタが背中越しに覗き込んでいた。
「読める。ただ、肝心なところが読めない」
俺は紙の下端を指した。日付が入るはずの場所が、褪せて消えている。数字の形すら残っていない。
「ここが日付だ。何年何月に出た命令かが分からない」
「二十年前だ」
「あなたの記憶ではそうだ。役所の記録では違うかもしれない」
リタが顔をしかめた。
「同じだろう」
「同じなら、それでいい。違ったら、それは意味のある違いだ」
俺は書付を畳んだ。
役所というのは、日付でしか物を考えない。命令が出た日と、現場で執行された日と、被害が起きた日。この三つの順番が、役人にとっての事実だ。
そして、順番が入れ替わっている書付というのは、たいてい何かを隠している。
その話は、今はしないことにした。証拠が無い。
「父は」
リタが箱の蓋を閉じながら言った。
「この紙を、死ぬまで読める人間を探してた。ハーレンの神官に見せて、鉱山師に見せて、それから諦めた」
「なぜ諦めた」
「読める人間は、みんな王都の側の人間だからだ。読んでもらったところで、王都が書いたものを王都の人間が覆すもんか」
筋は通っている。
俺は覆せる、とは言わなかった。言えば、五人目の詐欺師になる。
***
翌朝、俺は村の集会小屋の壁に、大きな紙を貼った。
ステラがハーレンで買ってきた包み紙の裏だ。真っ白ではないが、字は書ける。
人はほとんど集まらなかった。リタと、その隣の家の男と、暇そうな年寄りが二人。子どもが四人。
それで十分だった。
「霜野の畑は、全部で八百枚あります」
俺は炭で線を引いた。
「いま作れているのが二百五十枚。一枚から穫れるのが十二石。合わせて三千石です。冷える前は八百枚全部が作れて、九千六百石だった」
「そんなに減ったのか」
年寄りの一人が呟いた。数字を並べられて初めて驚く、という顔だった。毎年少しずつ減るものは、住んでいる人間には見えない。
「これを八百枚に戻す方法は、いまの俺にはありません」
俺ははっきり言った。
「五十日で八百枚を直せると言う人間がいたら、それは嘘つきです」
「じゃあ何しに来た」
隣の家の男が言った。悪意ではなく、素朴な問いだった。
「一枚、直します」
俺は紙の隅に、小さな四角を描いた。
「霜野のいちばん谷寄りの一枚。湯路の終わりに近くて、いちばん条件がいい畑です。冬までに、そこ一枚に霜が降りないようにします」
「一枚だけ」
「一枚だけです」
小屋が静かになった。
「それで、何が変わる」
「二つ変わります」
俺は指を二本立てた。
「一つ。この土地が直せると証明できる。誰かが証明するまで、この土地は誰にとっても直らない土地のままです」
「二つは」
「二つ。冬のあいだ、その一枚から出る湯気で、隣の三枚が凍らなくなる。来年の春、種を蒔ける枚数が増える」
年寄りが、口の中で数字を繰り返した。
「一枚が四枚か」
「四枚が十六枚になるとは言いません。土地の形と水の量で頭打ちになる。ですが、ゼロは何を掛けてもゼロです」
リタが壁にもたれたまま、鼻を鳴らした。
「言うことは立派だ」
「言うのは只ですから」
***
その日から掘った。
湯路は、村の中ほどで湯気が切れている。そこから霜野の端の畑まで、およそ三百歩。石の樋を辿って、詰まりを一つずつ抜いていく作業だ。
ガルドが石を持ち上げ、俺が底をさらう。単純だが、腰に来る。
三日目に、村の男が二人来た。
六日目には五人になった。
誰も、手伝うとは言わなかった。通りかかって、しばらく見て、黙って石を運び始める。そういう手伝われ方だった。
四日目に、リタが試すようなことを言った。
「そこの継ぎ目は、外して積み直したほうが早い」
俺は継ぎ目を見た。石の合わせが、他より一段深く噛んでいる。
「外さない」
「なぜ」
「ここは曲がりだ。曲がりの石を外すと、上の三枚が落ちてくる。落ちたら、積み直すのに三日かかる」
リタは何も言わずに背を向けた。
その日から、彼女は俺の掘る場所に文句をつけなくなった。代わりに、朝いちばんに樋の温度を測って、数字だけを言って帰るようになった。
「今朝は、村はずれで人肌の下」
「昨日より落ちたな」
「落ちた。夜が冷えてきてる」
ステラはハーレンと谷を往復して、鏝と鶴嘴と縄を買ってきた。値を聞いて、俺は眉を寄せた。
「鶴嘴一本で銀貨四枚か」
「四枚。東なら二枚半だね」
「運び賃込みでもか」
「込みでも高い」
ステラは荷を下ろして、指を鳴らした。
「この町、外から来るものは全部あの旗の下を通ってる。値を決めてるのは一軒だけ。競争相手がいない値だよ、これ」
ミリアは村の家を回っていた。冬の前の谷では、年寄りの咳と、子どもの霜焼けが同じくらい多い。彼女の掌が触れると、咳は軽くなる。治りはしない。軽くなるだけだ。
「アルトさま」
十日目の夜、ミリアが火の前で言った。
「この谷の家は、どこも囲炉裏が小さいんです」
「薪が高いからか」
「はい。それで、皆さん湯路の石を抱いて寝ています」
俺は顔を上げた。
「石を」
「湯路の生きているところから、温かい石を外して、布に包んで寝床に入れるんです。朝に戻すのが決まりで、子どもがその係で」
俺は炭の火を見ていた。
この谷では、あの石組みは遺跡ではない。暖房だ。二十年、細くなり続けている暖房を、二百四十人が分け合っている。
そこへ、詰まりを抜く男が来た。
道理で、誰も口を出さずに石を運ぶわけだ。
「石は、何個あるんだ」
「村で二百七十個だそうです。家の数より多いので、余った分は病人のいる家に回すそうで」
「決まりがあるのか」
「はい。何十年も前からの決まりだと、皆さんおっしゃっていました」
ミリアは手を火にかざした。
「あの、アルトさま。決まりがある、ということは」
「昔から足りてなかったってことだな」
湯路が生きていた頃なら、村じゅうの家に湯が回っていたはずだ。石を抱いて寝る必要は無い。
石を配る決まりができたのは、湯が細くなってからだ。二十年で人は、足りないものを公平に分ける作法をつくり上げてしまった。
それは強さでもある。だが、分け合う作法ができた土地は、たいてい増やす話をしなくなる。
***
二十日目。三か所目の詰まりに当たった。
これまでの二つより大きい。樋の幅いっぱいに石が積まれて、上から粘土で目張りまでしてある。手間のかかった仕事だ。
ガルドと二人で、半日かけて崩した。
最後の一つを抜いたとき、指先が石ではないものに触れた。
冷たい。硬い。表面が滑らかすぎる。
引き上げると、それは鉄の杭だった。
長さは腕ほど。先が鋭く、頭が平たい。打ち込むための杭だ。樋の底に、深く垂直に打ち込まれていた。
頭の部分に、刻印がある。
円の中に、交差した二本の直線。
ガルドが泥だらけの手で顎を掻いた。
「役所の焼き印だな。うちの村にも、境の杭にこういうのが打ってあったぜ」
「打った年が入るんだ」
役所の杭には、必ず年が入る。境を争ったときに、どちらが先に立てたかを決めるためだ。俺はそれを何十本と数えて台帳に写した年がある。
俺は泥を拭って、刻印の下に並んだ小さな数字を読んだ。
読んで、もう一度読んだ。
それは、二十年前の数字ではなかった。
お読みいただきありがとうございます。
「一枚だけ直す」は第2部でもアルトがやった判断で、彼はこれを二度目にもう迷わずにやります。全部を直したい気持ちを捨てるのが早い男なので。ただ、今回は権能が無いので、一枚に五十日かかります。
次回、その一枚に霜が降りるかどうかを、村の全員で見に行きます。




