第72話:「役立たずが、また一人来た」
谷へ入る道は、思っていたよりも整っていた。
人が通わなくなった道は、二年で草に埋まる。ここは埋まっていない。轍も残っている。誰かが荷車を通している道だ。
二日かけて、俺たちは谷を三つ抜けた。
いちばん下が下ノ瀬。川瀬に沿って家が並んでいる。次が霜ノ辻。道が交わるところに石の祠がある。そのさらに上が炉ノ村だった。
「三十軒だったな」
ガルドが数えながら言った。
「下ノ瀬が七十人、霜ノ辻が八十人、炉ノ村が九十人だってさ」
ステラが道々で聞いてきた数を並べた。合わせて二百四十人。ハーレンの町を入れた領全体で千八百人だから、七人に一人がこの谷にいる勘定になる。
下ノ瀬では、子どもが三人、川で網を上げていた。獲れているのは指ほどの魚だ。
霜ノ辻では、女たちが祠の前で干し草を束ねていた。手が止まらない。冬の前の谷は、どこも手が足りていない。
どの村でも、人は俺たちをじろじろ見た。追い返しはしないが、話しかけてもこない。よそ者に慣れていて、よそ者に期待していない目だ。
ミリアが、霜ノ辻で一人の老婆に呼び止められた。膝が痛むという。彼女が掌をかざすと、老婆は驚いて手を引っ込め、それからおそるおそる膝を差し出した。
「巫女さまかね」
「違います。少し温めるだけです」
ミリアはそう言うようになった。盆地でも同じ言い方をしていた。名乗り方を覚えた分だけ、彼女は強くなっている。
炉ノ村に入って、俺は足を止めた。
村の真ん中に、石の樋が通っている。
地面に半分埋まった、幅一尺ほどの石組みだ。それが村を貫いて、上の斜面へ延びている。
樋の上に、湯気が立っていた。
ただし、立っているのは村の中ほどまでだった。そこから下は、ただの冷たい石だ。境目のあたりで、湯気が急に細くなって消えている。
俺は樋の脇にしゃがんだ。石に掌を当てる。
温かい。人肌より少し上くらいだ。それが、三尺先では冷えている。
「詰まってるな」
「触るんじゃないよ」
声は、背中から来た。
振り返ると、女が立っていた。三十を過ぎたくらいだろうか。袖を肘まで捲って、腰に工具の袋を提げている。腕に古い火傷の跡があった。
目つきが、はっきりと迷惑そうだった。
「旅の者だ」
「見りゃ分かる」
「この樋は」
「湯路だ」
女はそれだけ言って、俺の脇をすり抜けた。しゃがんで樋の縁を覗き込み、指で内側をなぞって、また立ち上がる。
俺が触った場所を、確かめ直したのだと分かった。
「壊れるようなものじゃないだろう」
「あんたが壊さなくても、勝手に壊れる。二十年、そうやって短くなってる」
彼女は工具の袋から鏝を出して、樋の継ぎ目に詰まった泥をかき出した。手つきに無駄が無い。何千回とやってきた手つきだ。
「あんた、炉守の家の人か」
手が止まった。
「誰に聞いた」
「聞いてない。その手つきだと、この石を毎日触ってる人間だ」
女は俺を見た。値踏みではなく、面倒事の匂いを嗅ぐ目だった。
「リタだ」
「アルト・フェーンといいます」
「用件は」
「霜野を直しに来た」
リタは鏝を袋に戻した。
そして、盛大に鼻を鳴らした。
「役立たずが、また一人来た」
言い方に、飾りが無かった。罵ったのではなく、事実を並べた口調だった。
「三年で四人ですか」
「四人。学者と、鉱山師と、祈祷師と、水を当てる爺い。全員、湯路を見て、すごいすごいと言って、図面を写して帰った」
「戻ってきたのは」
「一人も」
リタは村の上を顎で示した。
「あんたも見たいだろ。見せてやる。見て、帰れ」
***
古炉は、村から半里ほど登ったところにあった。
最初、それが建物だとは思わなかった。斜面から石の面が突き出していて、その中央に、人の背丈ほどの口が開いている。
口の奥から、温い風が出ていた。
中は思ったよりも広い。俺の背丈の倍はある天井が、崩れずに残っている。真ん中に大きな石の椀のようなものが据えられていて、その底から細い管が何本も出て、壁の中へ吸い込まれていた。
「これが炉か」
「そう呼んでる。火を焚くわけじゃない」
リタが壁の管を叩いた。乾いた、詰まった音がした。
「山の中の熱を、ここに集めて、湯にして流す。それだけの仕組みだ。動いてたときは、この管が全部鳴ってた」
「今は」
「三本だけ。あとは死んでる」
俺は生きている三本を順に触った。どれも壁の同じ高さから出ている。死んでいる管はその上と下だ。
「上と下が死んで、真ん中だけが生きてるのか」
「そうだ」
「水の高さだな」
リタが振り返った。
「熱を運んでるのは、たぶん湯だ。山の中に湯の溜まりがあって、そこから汲み上げてる。溜まりの水位が下がれば、上の管から順に空になる。下の管が死んでるのは、たぶん詰まりだ」
「……あんた、何を見て言ってる」
「管の内側の汚れの高さだ。生きてる管は縁まで濡れた跡があるのに、上の管は縁の下二寸で乾いてる」
リタは黙って、上の管を覗き込んだ。しばらくしてから、乱暴に舌打ちをした。
「二十年、誰もそんな話をしなかった」
「見れば分かることだ。見に来た人間が居なかっただけだろう」
「見に来たのは四人いたと言った」
「見に来たんじゃない。写しに来たんだ。違いは、帰ったあとに何が残るかだ」
俺は石の椀の縁に手を置いた。
温かい。石そのものが温かい。
それから、継ぎ目を見た。
しばらく、動けなかった。
石と石の合わせ目に、鑿の跡が無い。
石を切って積むなら、必ず刃の痕が残る。合わせ目を削って調整するからだ。ところがこの石は、最初から隣の石の形に合わせて生まれてきたように見える。
俺は同じものを、三か月前に触っている。セルヴァ盆地の北古水路。二十年、ヨナという老人が守り続けていた石組みだ。
(レムナント)
俺は内側へ問いかけた。
(同じだと思うか)
(同じでしょう)
声は普通に返ってきた。
(水と熱で、通すものは違いますが、通し方の癖が同じです。あなたの引いた線とも似ています)
(作った奴を知ってるか)
(知りません)
少し間があった。
(本当に知りません。伏せているのではなく、私の中にその頁がありません)
嘘をついているようには聞こえなかった。この声は、都合が悪いときは伏せると言う。分からないときは分からないと言う。今日は後者だった。
「何を睨んでる」
リタが訝しげに言った。
「石を」
「石は睨んでも動かない」
「動かない。でも、誰が積んだかは喋る」
リタの眉が動いた。何か言いかけて、飲み込んだのが分かった。
***
村へ下りて、俺は湯気の切れ目まで戻った。
境目の石を一枚、ガルドと二人で持ち上げる。相当な重さだったが、ガルドは片手で支えていた。
樋の底を覗く。
泥ではなかった。
拳ほどの石が、隙間なく詰められている。上から落ちて溜まったのなら、大きさも向きもばらばらになるはずだ。これは違う。
大きいものを下に、小さいものを上に。角を噛ませて、抜けないように積んである。
人の手だ。誰かが、意図してここを塞いだ。
「リタさん」
彼女は少し離れたところから、腕を組んでこちらを見ていた。
「これを詰めたのは誰だ」
返事は、すぐには来なかった。
「二十年前だ」
リタの声は低かった。
「王都から役人が来た。山の口に杭を打って、湯路の何か所かに石を詰めて、帰った。父が止めようとして、殴られた」
俺は石を一つ、拾い上げた。掌に収まる大きさで、角が丸い。川の石だ。この谷の底で拾ってきたものだろう。
わざわざ川から運んで、一つずつ噛ませて積んである。丁寧な仕事だ。壊すためではなく、二度と抜けないように塞ぐための仕事だった。
「役人は、理由を言ったか」
「危ないから、と」
「何が」
「言わなかった。書付は置いていった。父が死ぬまで持ってたけど、字が読める人間がこの谷にいない」
俺は顔を上げた。
「まだあるのか」
リタが答えるまでに、少し時間がかかった。
「……ある」
彼女は工具の袋の紐を、意味もなく結び直した。
「読めるのか、あんた」
「読めます」
「王都の書付だぞ。役人の言葉で書いてある」
「王都の役人だったので」
リタが、初めて俺の顔をまともに見た。
お読みいただきありがとうございます。
リタは第2部のヨナと同じ「土地を守り続けた人」の役ですが、性格は正反対に置きました。ヨナは初対面から領主さまと呼んでくれた人で、リタは開口一番に役立たずと言う人です。歓迎されない場所から始めたかったので。
次回、五十日で何ができるかを決めます。全部は無理なので、一枚だけです。




