第71話:この土地には、もう領主がいる
霜は、まだ降りていなかった。夜のうちに一度冷えて、朝日で戻る。その繰り返しが続いているらしい。
カルド領の領都ハーレンは、半日歩いた先にあった。
城と呼ぶには小さい石造りの館があって、その前に市が立っている。羊毛と、干し肉と、薪。人はそれなりに出ていて、声も出ている。死んだ町ではない。
ただ、薪の山の前にだけ、人が固まっていた。
「一束、十枚だってさ」
値を見てきたステラが戻ってきて、指を二本立てた。
「去年の同じ時期で六枚。あたしが東で見てきた相場だと、この時期の北で十枚は取らない」
「高いのか」
「高い。それも、これから上がる高さの上がり方をしてる」
商人が言うと、その一言には重さがある。値というのは、売る側が先を読んで動かすものだ。
ミリアが薪の山を見上げて、小さく息を吐いた。
「冬に、要るものですよね」
「要る。この土地では、たぶん食い物より先に要る」
薪の山の脇に、旗が立っていた。青地に、天秤の形を白く抜いた旗だ。
俺はそれを知っている。東でさんざん見た。
「ドルガ商会か」
「いるね」
ステラが旗を見上げて、面白くもなさそうに笑った。
「盆地に商いを潰されて、まさか北へ移ってるとは思わなかった。逃げ足の速い会頭だこと」
「潰したのは俺たちじゃない。麦が穫れただけだ」
「その言い方、向こうには通じないと思うよ」
たしかにそうだろう。
俺たちが盆地を直したせいで、王都の輸入差配は前提から崩れた。差配で儲けていた商会は干上がった。土地を直しただけだと言い張っても、干上がった側の帳簿は帳簿だ。
市を一周して分かったのは、この町の物の値が二つに割れているということだった。
地元の者が作るもの――羊毛、乳、根菜――は安い。外から入ってくるもの――麦、塩、鉄、そして薪――は高い。
薪が「外から入ってくるもの」の側にあるのが、俺には引っかかった。周りは山だ。木は生えている。
***
館の取次に用件を伝えると、思ったよりあっさり通された。旅の者を追い返す余裕もないくらい、来客が少ないのだろう。
通されたのは謁見の間ではなく、書類の積まれた小部屋だった。
窓際に、若い娘が立っていた。
二十歳そこそこだろう。背が高く、姿勢がいい。喪服ではないが、色を落とした服を着ている。俺たちを見る目は、まっすぐで、少し険しかった。
「カルド領領主、ベルナ・カルドです」
名乗り方が固い。何度も練習した名乗り方だ。
「アルト・フェーンといいます」
俺は帽子を脱いだ。
「東のセルヴァ盆地で、少しのあいだ暫定領主をしていました。その前は辺境ルーナ領の領主で、もっと前は王都の行政官です」
「立派な経歴ですね」
「途中で切れています」
俺は正直に続けた。
「王都の査定で、スキル無しと判じられました。無能と書かれて、領地を追われた男です。ここから先は、その男が何を直せるかという話になります」
ベルナの眉が、わずかに動いた。
こういう名乗り方をすると、たいていの人間は困る。同情するか、笑うか、警戒するかのどれかだ。彼女はどれもしなかった。ただ、俺の顔を見た。
「用件は」
「霜野を直しに来ました」
部屋が静かになった。
積まれた書類の一番上で、羊皮紙の端が風にめくれた。
「……直す、というのは」
「夏の終わりに霜が降りるのを止めます。全部は無理です。まず一枚から始めて、来年の作付を増やします」
「どうやって」
「地面の熱が、どこかで抜けています。抜けている場所を見つけて、塞ぐか、繋ぎ直すか。やることはそれだけです」
「二十年、誰にもできませんでした」
「二十年、誰が測りましたか」
ベルナが黙った。
俺は続けた。
「王都から人が来て、記録を取って帰った年はありますか。冷えてからの二十年で、一度でも」
「……無いと思います」
「なら、まだ誰も試していないだけです」
彼女の指が、机の縁を一度叩いた。苛立ちというより、考えるときの癖に見えた。
「見返りは」
ここが本題だ。
「霜野のうち、直した分の土地を、しばらく私に預けてもらいたい」
「土地を寄越せ、と」
「預けてほしい、と言っています。私の力は、領主でなければ動きません。この土地には、もう領主がいる。だから、預かる形が要る」
言い終わる前に、ベルナは首を横に振っていた。
「お引き取りください」
声が硬くなっていた。
「三年で、四人来ました。学者と、鉱山師と、祈祷師と、水占い。全員、まず土地を寄越せと言いました。二人は前金を持って消えました」
なるほど、と思った。それは俺の負けだ。
「一人目でなくて申し訳ない」
「……何ですか、それは」
「先に来た四人のせいで、五人目が門前払いになる。よくあることです。恨み言ではありません」
ベルナは何か言いかけて、やめた。
「補填金があります」
彼女は書類の山に目を落とした。
「王都から、冷えた土地に出る金です。それで領は食べていけます。危ない橋を渡る理由がありません」
「食べていける、と」
「はい」
「では、二十年後もこの土地は冷えたままですね」
言ってから、少し言い過ぎたと思った。
ベルナは俺を見た。今度は険しさではなく、痛いところを踏まれた人間の顔だった。それを見せまいとして、彼女は背筋をさらに伸ばした。
「取次の者が外まで送ります」
俺は一礼して、部屋を出た。
扉が閉まる直前に、彼女がもう一度書類の山に手を伸ばすのが見えた。積み方が几帳面だった。読んでいないわけではない。読んで、どうにもならないものを、毎日きちんと積み直している手だ。
***
館を出ると、日が傾いていた。
「けんもほろろだったね」
ステラが肩をすくめた。
「まあ、あたしが領主でも追い返すよ。初対面で土地の話をする男は、だいたい詐欺師だし」
「詐欺師だと思われるのは織り込んでた」
「思われて、どうするの」
「どうもしない。条文が無いだけだ」
俺は歩きながら、頭の中で王国法の頁をめくっていた。
盆地で使った暫定領主の条文は、二百年前の大水のあとに作られたものだ。災いで人が逃げた土地を、残った住民が自力で立て直すための決まり。だから成立には、居住者の総意と、その土地に領主が居ないことが要る。
カルド領には領主がいる。座っている椅子は、空かない。
「他に手は」
「領主が自分で預けると言えば、道はある」
「その領主に、いま追い返されたばかりだけど」
「そうだな」
ガルドが後ろで低く笑った。
「なら、先に土を直しちまえばいいんじゃねえのか」
俺は足を止めた。
「順番が逆だ」
「逆でいいだろ。あんた、盆地でも先に畑を作ってから領主になったぜ」
言われてみればそのとおりだった。あのときも、俺は先に一枚を直した。人は言葉では動かない。土が変わるのを見て動く。
宿を取って、ステラは町へ聞き込みに出た。戻ってきたのは、日が落ちきってからだった。
「補填金の話、面白かったよ」
彼女は椀の汁をすすりながら言った。
「王都から出る金は、領の役所じゃなくて、麦を運び込む商会を通して払われてる。金じゃなくて、麦と塩と薪の現物でね」
俺は椀を置いた。
「現物か」
「そう。だから領主さまの手元には、実は金が一枚も入らない。入るのは荷。荷を運ぶのは」
「ドルガ商会」
「ご名答」
ミリアが眉を寄せた。
「それだと、値を決めるのは」
「運ぶ側だね」
ステラは指で椀の縁をなぞった。
「補填の額は決まってる。でも、その額でどれだけの荷を持ってくるかは、向こうの帳面次第。冷えた土地ほど、こういう仕組みは太る」
ガルドが酒の椀を置いて、低く唸った。
「じゃあ、土地が直ったら」
「その荷が要らなくなる。補填金も止まる」
俺は天井の梁を見上げた。
二十年直らなかった理由が、少しだけ見えた気がした。冷えているのは土地だけではない。冷えたままにしておくと得をする側が、この土地の外側についている。
盆地で一度見た形だ。ただし今度は、こちらから殴りに行く相手ではない。
「それと、女将が言ってた」
ステラが椀を置いた。
「冬まで五十日。それを過ぎたら、谷の道は雪で塞がる。春まで、誰も出入りできない」
五十日。
俺は北を見た。黒い山の稜線の下に、あの湯気が立っているはずの谷がある。
行くなら、今しかなかった。
お読みいただきありがとうございます。
この世界の「枚」は畑の数え方で、一枚が五反です。土地によって一枚から穫れる量は違って、東のセルヴァ盆地は二十石、北の霜野は十二石。同じ物差しに見えて中身が違うのは、現実の単位もだいたいそうですね。
次回、四人は谷の奥へ入ります。歓迎はされません。




