第70話:地面から湯気の上がる村がある
夏の終わりに霜が降りる土地がある、と聞いたときは、話が半分ほど盛られているのだと思っていた。
峠を越えて、それが盛られていなかったことを知った。
眼下に、麦畑が広がっている。八月の終わりだというのに、穂が黒い。焼けたのではない。凍って、そのまま立ち枯れている。
俺はアルト・フェーン。少し前まで東のセルヴァ盆地で暫定領主をやっていて、その前は辺境ルーナ領の領主で、もっと前は王都の行政官だった。
スキル欄が空白だったせいで「無能」と烙印を押されて、王都から捨てられた男だ。捨てられた先で、俺のスキルは目を覚ました。
【領地創造】。土地を直す力だ。ただしこの力には、ひとつだけ厄介な条件がある。
俺が領主でなければ、指一本動かない。
「盆地を出て八十四日だっけ」
ステラが荷袋を背負い直しながら言った。
「よくもまあ、こんな遠くまで来たもんだね。あんたたち、足が丈夫すぎない」
「お前も歩いてるだろ」
「あたしは商人だからいいの。歩くのが仕事」
ガルドが低く笑って、峠の風に目を細めた。
俺たちは四人だ。俺と、ミリアと、ガルドと、ステラ。フェーン村を出た夜からずっとこの顔ぶれで、盆地に二百日ほど留まって、また歩き出した。
行き先を決めたのは、旅の九日目だった。ラントの馬市で、馬方が世間話をしていた。
北の山に、地面から湯気の上がる村がある。
冬でも凍らない水路があって、それを掘ったのは百年よりも前の人間で、石の合わせ目に鑿の跡がひとつも無い、と。
その最後の一行で、俺は足を止めた。
セルヴァ盆地の北古水路と同じだ。石が、最初から隣の石の形に合わせて生まれてきたように積まれている水路。あれを誰が作ったのか、俺は結局分からないまま盆地を離れた。
馬方に、その村の名を訊いた。名前は知らない、と言われた。ただ、カルド領の北の谷だ、とだけ。
地図を持っていたのはステラだった。彼女は荷袋から油紙の束を引っ張り出して、指で北をなぞった。
「王国北部、カルド領。麦と羊。人は千八百人くらいかな」
「行ったことは」
「無い。商人が行かない土地は、だいたい理由があるよ」
その理由を、俺たちはいま、峠の上から見下ろしている。
***
峠を下りて、麦畑の縁に立った。
黒い穂を一本折って、指で潰す。中身が無い。実が入る前に凍っている。
畑の向こうで、腰の曲がった農夫が畝を見て回っていた。抜いているのではなく、数えている。どれだけ駄目になったかを数える動きだ。
「今年もか」
俺が声をかけると、農夫は顔を上げた。旅人を見ても驚かない。この土地には、通りすがりが珍しくないらしい。
「二十年、毎年こうだ」
「夏の終わりに降りるのか」
「早い年は、実が入る十日前に降りる。遅い年でも、刈り取りの三日前だ」
三日前というのが、いちばんたちが悪い。作った手間が全部乗ったところで持っていかれる。
「昔からか」
「まさか」
農夫は乾いた声で笑った。
「わしが若い頃は、ここらは麦の出来がいいので知られとった。冷えるようになったのは二十年前からだ。ある年の秋に、地の底が一度鳴って、それきり夏が短くなった」
地の底が鳴った。
その言い方を、俺は八十四日前まで毎日のように聞いていた。セルヴァ盆地のヨナが、同じことを言っていた。
「補填の金は出とる」
農夫は続けた。
「冷える土地には、王都から金が出る。それで食えとる。食えとるが」
彼は黒い穂を指ではじいた。
「金は、腹に入っても、土には入らん」
「領主は何と」
「若い娘さんだ。三年前に親父さまが亡くなって、そのまま座っとる」
農夫は言葉を選ぶような間を置いた。悪く言いたくないのだと分かる言い方だった。
「悪い人ではない。ただ、土のことは知らん。館から出てきて、畑を見て、済まないと言って帰る。それを三年」
俺は畝を見た。土は硬いが、手入れは行き届いている。溝が真っ直ぐで、草も抜いてある。
人が匙を投げた畑ではない。毎年きちんと作って、毎年きちんと持っていかれている畑だ。そのほうがずっと重い。
「昔は、どのくらい作れた」
「ここらで八百枚だな。今は二百五十枚がやっとだ」
枚というのはこの国の畑の数え方で、一枚が五反にあたる。盆地でも同じ数え方をしていた。
八百から二百五十。三分の一より少し下だ。
「一枚から、どのくらい穫れる」
「十二石。冷える前から、そんなもんだ」
俺は頭の中でざっと掛けた。盆地の畑は一枚から二十石穫れたが、あそこは水と日当たりが揃っていた。ここは山あいで、日照りが短い。土地が違えば数も違う。
二百五十枚で三千石。昔の八百枚なら九千六百石。六千六百石ぶんの麦が、二十年ぶん消えている計算になる。
***
その晩、俺たちは畑の外れの小屋を借りて泊まった。
ミリアが借り賃の代わりに、小屋の持ち主の膝の痛みを診た。彼女の掌が淡く光ると、老人は目を丸くして、それから何も言わずに薪をもう一束くれた。
「アルトさま。この土地、直せるでしょうか」
火の前で、ミリアが訊いた。
「まだ何も見てない」
「でも、見に来たんですよね」
そのとおりだ。
俺は立ち上がって、小屋の外に出た。畑の土は硬く締まっていて、踏むと乾いた音がする。しゃがんで、掌を土につけた。
やることは分かっている。地面の熱を測って、水の筋を探して、どこで熱が抜けているのかを見つける。それができれば、あとは順番の問題だ。
目を閉じて、意識を土へ落とす。
《領地未保有。権能を行使できません》
視界の隅に、薄い光の枠が浮かんだ。
もう一度やった。同じだった。
《領地未保有。権能を行使できません》
三度目で、俺は手を下ろした。
(……分かってましたよ、と言いたいところですが)
頭の奥で、静かな声がした。レムナントだ。この体に宿っている、もう一人の声。
(言うな)
(言っていません。あなたが自分で三度やったので、待っていただけです)
俺は膝の土を払った。
盆地のときと同じ表示だ。だが、あのときとは意味がひとつ違う。
セルヴァ盆地は放棄地で、領主の席が二十年空いていた。だから住民の総意と古い条文をかき集めて、暫定領主の椅子に座ることができた。
この土地は違う。
畑には人が住んでいて、村には名前があって、領には領主がいる。座っている人間がいる椅子は、どうやっても空かない。
「使えないの」
いつのまにかステラが後ろに立っていた。
「使えない」
「じゃあ、どうすんの」
「手で直す」
ステラが、へえ、という顔をした。
「あんた、それ本気で言ってる」
「本気だ。順番と、人手と、道具があれば、たいていの土地は直る。俺が力でやってたのは、その順番を速く回してただけだ」
言いながら、自分でも半分は強がりだと思っていた。
速く回せるかどうかは、ここでは死活問題になる。土地が冷えるということは、締切があるということだ。
「冬まで、どのくらいだと思う」
「五十日くらいじゃない」
ステラは商人らしく、即答した。
***
夜半に目が覚めた。
小屋の板戸の隙間から、冷たい風が入っていた。夏の終わりの風ではない。俺は毛布を肩に掛けて、外へ出た。
北に山がある。黒い稜線が、星を切り取っていた。
その麓、谷の奥に当たるあたりに、白いものが立ち上っていた。
煙ではない。煙は風に流れて散る。あれは風の中で形を保ったまま、まっすぐ立っている。
湯気だ。
この寒さの中で、地面から湯気が上がっている。
「あそこ、誰か住んでるのか」
俺は、後から出てきた小屋の持ち主に訊いた。老人は目を細めて谷を見た。
「炉ノ村だ。まだ人はおる。三十軒ばかりな」
「湯気が上がってる」
「上がっとる」
老人はそれきり黙った。もう一度訊くと、面倒くさそうに続けた。
「あそこは触らんほうがええ。二十年前に、王都のお役人が来て、山の口を石で塞いでいった。塞いだ理由は知らん。ただ、あれから畑が冷えた」
お読みいただきありがとうございます。第3部「カルド領・北の炉編」がはじまりました。
第2部でアルトは領主でしたが、この土地には既に領主がいます。つまり彼のスキルは、しばらく一度も出てきません。手と、人手と、行政官だった頃の知識だけで冷えた土地に向き合う話になります。書いていていちばん楽しいのはここでした。
次回、領都ハーレンで、二十歳の女領主に会います。用件を三十秒で切られます。




