第69話:二度目の旅立ち
白は、もう盆地の縁にしか残っていない。
朝、集会小屋の前に立って見渡すと、白原と呼ばれていた場所の大半が黒い土になっていた。掘り返した土は湿っていて、朝日に少しだけ光る。塩の粉を吹かない土は、こんな色をしている。
その上を、人が歩いている。
種蒔きの列だ。腰を折って、また伸ばして、また折る。列の端から端まで数えるのに、しばらくかかった。
「百三十だよ」
後ろからステラが言った。帳面を抱えている。
「昨日また七人来た。ラントから歩いてきたって。元はここの水番の家系だとさ」
「入れたか」
「入れた。家は空きがあるし、手はいくらでも要る」
視界の隅に、光の枠が浮かんだ。
《領民:130》
《領地レベルが3に上昇しました》
誰かが「おお」と声を上げた。畑にいた者たちが一斉に空を見ている。子どもが跳ねながら数字を指さしていた。
「レベル3か」
ステラが横で腕を組んだ。
「ルーナ領と同じとこまで来たね」
「ああ」
「半年とちょっとで」
俺は答えなかった。数えていなかったわけではない。数えるのが少し怖かっただけだ。
***
昼過ぎ、集会小屋に人を集めた。
初めて署名を取った日と同じ小屋だ。あのときは十七人で、床がすかすかしていた。今日は入りきらなくて、戸を開け放してある。
俺は台帳を持ち上げた。ヨナが守り続けた、あの台帳だ。
「今日で、暫定領主の届出を書き換える」
小屋がしんとした。
「暫定領主ってのは、正式な領主が来るまでの繋ぎだ。もう繋ぎは要らない。ここは回復不能地じゃなくなった。王国の帳簿に、名前が戻る」
「――そんで、誰が座るんじゃ」
ヨナが言った。ほとんど無意識に訊いた声だった。
俺は台帳を、老人の膝の上に置いた。
小屋の中で、息を呑む音がいくつも重なった。
「あんただ、ヨナさん」
「わしは」
ヨナの手が震えた。
「わしは、字が書けるだけの用水守じゃ」
「二十年、この土地を手入れしてきた記録の持ち主だ」
俺は言った。
「暫定領主の要件を思い出してくれ。二つ目は『土地が現に手入れされている証拠』だった。あれを満たしてたのは俺じゃない。あんただ。俺は条文を読んだだけだよ」
ヨナは台帳の表紙を撫でた。何度も撫でた。撫でながら、下を向いた。
「……受け取ってくれんかった、あの窓のことをな」
声が掠れていた。
「毎年、思い出しとった。板の向こうから声だけが返ってきてな。無い土地からは取らん、と。あれから二十年」
「開きます」
ミリアが言った。
「今度は、ヨナさんが窓を開ける側です」
老人は、ようやく顔を上げた。泣いてはいなかった。ただ、二十年ぶんの何かを一度に下ろした顔だった。
その脇で、ダンが壁に寄りかかっていた。
「俺は残るからな」
訊く前に言われた。
「北の縁の柵、まだ半分だ。魔物は街道が通ったぶん寄ってくる。ガルドのおっさんに叩き込まれた組み方、まだ誰にも教えてねえし」
「頼む」
「頼まれてやってんじゃねえよ。俺の土地だ」
言い切ってから、こいつは自分の言葉に少し驚いた顔をした。
初めて会った日、この男は「期待してねえからな」と言って十七人目に名前を書いた。学者も坊主も山師も、白原を見て帰った。帰らなかった者は死んだ。そういう歳月を数えてきた男が、いま、自分の土地と言った。
言ってから、ダンは少し照れたように舌打ちをした。
「……行くのかよ、領主さま」
「行く」
「ふうん」
彼はそれ以上訊かなかった。去っていく人間を見送り続けた男の訊き方だった。
***
発つ日の朝、旧セルヴァ街道の入口に人が並んだ。
押しつけられた荷が増えて、ガルドが顔をしかめている。干し肉、塩漬け、包帯の束。ステラが片端から「これは要る」「これは売れる」と仕分けていく。
小さな女の子が、俺の前に紙を突き出した。
あの日、名前を書けないと半泣きになっていた子だ。紙には、大きな字で名前が書いてあった。曲がっているが、全部書けている。
「まちがえてないよ」
「ああ。まちがえてない」
俺が言うと、その子はミリアの後ろに隠れて、それから走って行ってしまった。
ダンは並ばなかった。少し離れた土手の上に立って、こちらを見ている。手には弓を持っていた。見送りに来たのではなく、見張りの持ち場にいるという顔だ。
俺が目を向けると、あいつは顎を上げて、それだけで済ませた。
ヨナが、麻の袋を差し出した。ずしりと重い。
「一の畑の種籾じゃ」
「もらえない」
「持っていけ」
老人は譲らなかった。
「次に行った土地が、どんな土地か知らん。じゃが、蒔く物が要る土地なら、ここのを蒔け。この盆地は、二十年空けても種を返した土地じゃ」
俺は袋を受け取って、背嚢に括りつけた。
「――で、どこ行くの」
ステラが訊いた。
「決めてない」
「うわ出た。あんた前もそれ言ってたよ」
「今度は違う」
「決まってないのに歩き出すの、あんたら本当に好きだね」
「好きでやってるわけじゃない」
俺は白の消えた盆地を、もう一度だけ振り返った。
「前は、行き先が無かったから決まらなかった。今は、選べるから決めてない」
ステラが「同じじゃん」と笑い、ガルドが「違うぜ」と言った。
「全然違う。なあ、領主さま」
「だから領主じゃない」
「じゃあ何だよ」
俺は少し考えた。
「……土のことに、少し詳しい男だ」
「そりゃ前もそうだったろ」
ガルドが豪快に笑って、先に歩き出した。
背中で、大勢の声が上がった。名前を呼ぶ声だった。俺の名前と、ミリアの名前と、ガルドとステラの名前が、順番も揃わずに飛んでくる。
振り返らずに、手だけ上げた。
***
その夜は、街道沿いの丘に野営を張った。
焚き火を囲むのは四人だ。ミリア、ガルド、ステラ、そして俺。
振り返れば、地平の彼方に盆地の灯りが小さく見える。二十年、一つも点いていなかった場所だ。
「アルトさま。冷めないうちに」
ミリアが椀を差し出した。
一口飲む。麦の粥だった。盆地の麦だと、味で分かる。
「なあ」
ガルドが薪をくべた。火の粉が舞い上がる。
「あれ、また同じ形だな」
「何が」
「これだよ。四人で、火囲んで、行き先が決まってねえ」
「……確かに」
あの夜と同じだった。違うのは、俺たちが逃げていないことだ。
あのときは、村に俺がいると村が危ないから出た。今日は、盆地に俺がいなくても盆地が回るから出た。
同じ形の夜が、まるで違う重さで座っている。
(――ちゃんと、渡してきましたね)
レムナントの声が、胸の奥で言った。
(渡した、って言えるほどのもんじゃない)
(では、置いてきた、と)
(……そうだな)
声は、それきり黙った。
ステラとガルドが先に眠ったあと、ミリアが隣に来て座った。
「アルトさま」
「ん」
「これから、どこへ行くんでしょうね」
同じ問いだった。あの夜、この人は同じことを訊いた。
「まだ分からない」
俺は正直に答えた。
「でも、歩いてれば見えてくる。……前に、そう言ったな」
「はい。覚えています」
ミリアは膝を抱えて、火を見ていた。
「あのとき、私、一緒に探しますって言いました」
「言った」
「今も同じです。ただ」
彼女は少しだけ笑った。
「今度は、探すものが少し分かっている気がします。直せる土地は、まだいくらでもありますから」
パチ、と薪が爆ぜる。遠くで夜鳥が鳴く。盆地の灯りは、もう見えない。
俺は焚き火に薪を足した。
ふと、風向きが変わった。
顔を上げると、夜明けの気配が滲み始めた東の空に、雲の切れ目があった。切れ目の白さが一瞬、面のかたちに見えた。
瞬きをする。もう、ただの雲だった。
俺は、それを見上げたまま、しばらく動かなかった。
――北の山に、地面から湯気の上がる村があるという。
その話を馬方から聞いたのは、それから九日後、ラントの馬市でのことだった。
お読みいただきありがとうございます。
セルヴァ盆地編、これで幕です。
二十年前に「無い」ことにされた土地に、四人が入って、麦が実って、名前が帳簿に戻るまでの話でした。アルトは最後まで誰も殴っていません。土地を直して、麦を積んで、置いてきただけです。それでも構造は崩れました。書きたかったのは、その一点でした。
盆地は残ります。ヨナが座って、ダンが柵を組んで、あの子が自分の名前を書いています。四人はまた歩き出しました。今度は逃げるためではなく、次を選ぶために。
向かう先は、王国の北――夏の終わりに霜が降りる土地です。
本日より、第3部「カルド領・北の炉編」がはじまります。
ブックマークと評価は、四人の路銀にさせていただきます。北の谷まで、どうぞご一緒に。




