第68話:あなたが「無い」と決めた土地から、持ってきました
旧セルヴァ街道を出た荷は、六日で王都に着いた。
かつて、この道は麦の道だった。轍の跡が石畳に残っている。二十年ぶりに、その轍を同じ形の車輪がなぞっている。
王都の東門で、俺は荷を降ろした。
かつて、俺はこの街から追い出された。書類を一枚渡されて、名前を消されて、辺境行きの荷馬車に乗せられた。門番の顔は覚えていない。向こうも覚えていないだろう。
「ここで待ってる」
ガルドが荷の脇に立った。
「一人で行くのは反対だぜ。俺は言ったからな」
「言ったな」
「言ったからには、もう言わねえ」
ステラは荷台の上で帳面を広げていた。
「市の値、まだ落ちてないよ。今日出せば高く売れる」
「売らない」
「知ってる。確認しただけ」
ミリアが、麻袋を一つ差し出した。両手で抱えられる程度の、小さな袋だ。
「アルトさま」
「ああ」
「行ってらっしゃいませ」
俺は袋を受け取った。ずしりと重い。中身は、一の畑で穫れた麦だ。
門から宰相府までの道に、配給の列があった。角を二つ曲がって、まだ続いている。
並んでいるのは、俺を「無能」と呼んだことも無い人たちだ。呼んだ人間と、呼ばれた人間と、何も知らない人間が、同じ街で同じ冬を越している。
列の脇を通り抜けるとき、俺は袋を持ち直した。
***
宰相府の廊下は、記憶より暗かった。
案内はレア・クレインだった。彼女は前を歩きながら、事務的に状況を並べた。
「昨日、評定で決まりました。回復不能地指定は、現況調査に基づかない裁定として再審にかかります。宰相職は解かれます。資産と契約は監査に入ります」
「処分は」
「監査の結果次第です。ですが、命に関わる類のものにはなりません。王国は宰相を斬るより、宰相に精算させるほうを選びます」
俺は頷いた。
「ドルガ商会は」
「前渡金の返還請求が出ます。返せる額ではありません」
レアが足を止めた。
「一つだけ、申し上げておきます。あの人は昨日、一度も『誤りだった』と言っていません。席を立ってから今朝まで、ずっと自分の計算を検め直しています」
「……そうですか」
「アルト殿。会って、何を言うのですか」
「決めてない」
「では、何をしに」
「持ってきただけです」
彼女は少し黙って、扉を開けた。
***
執務室の主は、机に向かって書類に判を押していた。
最後の一枚まで押し終えてから、顔を上げた。
宰相レギウス・ヴァルト。セルヴァ盆地を地図から消した男。俺の査定書に「該当能力なし」と書かせた男。
思っていたより、痩せた人だった。
「アルト・フェーン」
俺は麻袋を床に置いた。返事の代わりだった。
「座れとは言わん。すぐ済む」
彼は机の左端の綴りに、指を置いた。
「二十年前、私は東部の復旧に要る額を算出した。堰の再築、水路の掘り直し、塩の抜けるまでの十数年ぶんの食い扶持。国庫は持たなかった。切り捨てれば、その金で別の三つの土地が生きる」
前置きも無く、彼は言った。
「その紙は、いまも手元にある。昨日の夜、上から下まで検め直した。単価も、年数も、桁も動かん」
窓の外で、雪解けの水が樋を鳴らしていた。
「私の計算は、いまも合っている」
俺は、少し考えてから答えた。
「たぶん、合っていると思います」
「そうだ」
「合っている紙の下で、あの土地は二十年ぶん止まりました」
「止めたのだ」
彼は言い直した。訂正するときの、事務的な速さだった。
「止めるために書いた。止まったのなら、書いた通りに動いたということだ」
俺は何も言わなかった。
「一つ、伺っていいですか」
「言え」
「あの土地を、ご覧になったことは」
「無い」
即答だった。
「見に行く必要のある土地ではなかった。必要が生じたときに人を出す。それが順序だ」
彼は机の書類を、角を揃えて重ねた。
「君の査定書のことも聞いているだろう。実技の記録が一行も無い。空白の欄だけで判定してある。手続きとしては欠けている。昨日、それも記録に残った」
「はい」
「言っておくが、あれは手続きの瑕疵だ」
声の温度は変わらなかった。
「実技を測っていたとしても、あの日の君の欄は空白だった。やり直しても結論は同じだ。手続きの話であって、判断の話ではない」
返す言葉が、すぐには出てこなかった。
その通りだったからだ。あの日の俺は本当に何も出せなかった。彼は俺を貶めるために言っていない。ただ、自分の帳簿を読み上げている。
「君のことも訊きたいだろう」
「……はい」
「王宮の書庫に、いつ書かれたとも知れない一文がある」
レギウスは机の抽斗を開けなかった。ただ、その言葉だけを置いた。
「“創造領主の目覚めを許すな。世界は二度、壊れる。”」
部屋の空気が、少しだけ重くなった。
「スキル欄が空白の男が現れたとき、私はあれを思い出した。空白は、無いのではなく、隠されているのかもしれないと」
「……その紙が本当かどうかは、俺には分かりません」
「私にも分からん」
「はい」
「だから両方を計算した。殺せば、文書が本当だった場合に何かが動く。遠くへ流せば、ただの無能として終わる。損の小さいほうを取った」
彼は淡々と言った。
「現に君は、辺境で無能として終わっていた。あの紙を書いてから、ずっとだ」
「……終わっていました。あの村に行くまでは」
「そこだけが計算に無かった」
レギウスは、そこで初めて言葉を切った。切っただけで、折れてはいなかった。
「だが、無かったものを数に入れられる者はいない」
「カセルは」
レギウスの指が止まった。
「東部監督官か。切った」
「あの人は、あなたの裁定を執行してきました」
「執行した者は、判を押した者の代わりにはならん」
彼は筆を取った。
「そう書いておく。私の名で」
紙の上を走る音がした。カセルの去り際の言葉を、俺は思い出していた。あの人は土地を見ていない、数字を見ている――そう言い残して、彼はラントへ帰っていった。
その通りだった。数字で世界を見る男は、最後まで数字で自分を見る。
俺は麻袋の口を開けた。
机の上に、麦をひと掴み置いた。乾いた粒が、判の並んだ書類の上で小さく跳ねた。
「あなたが『無い』と決めた土地から、持ってきました」
それだけ言って、口を閉じた。
言いたいことは、たぶんもっとあった。あの日の門のことも、ダンが待ち続けた学者たちのことも、ヨナが窓を開けてもらえなかった役所のことも。
でも、それは俺が言うことじゃない。
麦はもう机の上にある。この人は、数字を読むことだけは誰よりもうまい。
レギウスは粒を一つ、指でつまんだ。
目を細めて、しばらく見ていた。
「……よく実っている」
「一の畑のぶんです。最初に直した、五反の畑の」
「五反」
「はい」
「五反から始めたのか」
「桁が足りなかったので」
彼は、何かを言いかけて、やめた。
そして麦の粒を、そっと机に戻した。丁寧な置き方だった。壊さないように置いたのだと、しばらくしてから分かった。
「アルト・フェーン」
俺は顔を上げた。
「私が東へ足を運んでいたら、何か変わったと思うか」
俺は答えなかった。
答えは分からないし、分からないことを分かった振りで渡すのは、この人に対して一番失礼な気がした。
レギウスは、それで納得したようだった。頷いて、机の書類を揃え直す。
「もう行け。私はこれから、二十年ぶんの精算をせねばならん」
俺は一礼して、部屋を出た。
扉が閉まる直前、判を押す音が一つ聞こえた。
***
廊下の窓から、王都の空が見えた。
建物の隙間に切り取られていて、盆地の空より、ずいぶん狭かった。
「終わりましたか」
階段の下で、レアが待っていた。
「終わりました」
「監査は長引きます。数年かかるでしょう」
「そうですか」
「あの人は最後まで自分で書類を作るはずです。他人に作らせると、数字が甘くなるので」
いかにも、あの人らしいと思った。
「勝った気分は」
「しません」
俺は正直に言った。
「あの人は、二十年間ずっと計算してた。俺はただ、麦を持ってきただけです」
レアは、はじめて少しだけ笑った。
「それが一番効いたのだと、記録には残ります」
門を出ると、ミリアが立っていた。
俺の顔を見て、何も訊かずに、麻袋を受け取った。空になった袋を、彼女は丁寧に畳んだ。
「アルトさま。盆地から早馬が来ています」
畳む手を止めずに、彼女は言った。
「人が増えて、家と畑が足りないそうです。ヨナさんが、判断を仰ぎたいと」
「……帰ろう」
畳み終わった袋を、ミリアは荷台に載せた。行きより軽い荷で、俺たちは東へ向かった。
お読みいただきありがとうございます。
第2部の主軸だった宰相レギウス・ヴァルトが、ここで退場します。
この人を悪人としてだけは書きたくありませんでした。彼は恐れていたものがあって、その恐れの中では誠実に計算した人です。だから最後まで、言葉では一度も負けを認めません。折れたのは、麦の粒を机に戻したあの一瞬だけです。
アルトには最後まで、断罪させませんでした。彼にできることは、麦を机に置くことだけだったと思います。
次回、盆地に春が来ます。第2部の最後の一話です。




