第67話:請求書 レア視点
冬の終わりの王都は、雪ではなく泥の街になる。
私は東門から入った。門の脇に配給の列があった。列の長さを歩数で測る。三日前より、二十歩ほど伸びている。
麦の値は、去年の秋の三倍。市の粉屋は五軒のうち二軒が戸を閉めた。理由は単純で、買う相手がいないからだ。ドルガ商会が押さえていた南方の麦は、今年、南方自身が食べている。
私は特別尋問官レア・クレイン。命令の当否を決める立場にはない。事実を確かめ、記録し、上へ渡す。仕事はそれだけだ。
鞄の中に、東部から持ち帰った書類がある。
写しではない。東部監督府の受理印が押された副本、土地管理の記録、そして収穫の実測帳。重さにして、片腕が痺れる程度はある。
東部から王都まで、馬で六日かかった。その六日のあいだに、私は数字を三度検算している。誤りは出なかった。誤りが出てほしいと少し思ったのは、たぶん私個人の事情だ。
盆地で見たものは、短い言葉で言える。水が流れていた。畑があった。人が働いていた。
私はそれを書式に落として持ち帰った。見たものを見たまま書くのが、私の仕事の全部だ。
王宮の階段を上がりながら、一度だけ、あの白い大地を思い出した。
それから忘れた。思い出は数字にならない。
***
評定の間は、暖炉を焚いていなかった。薪も配給の対象になっている。
長机の両側に、財務と穀物差配の官が並ぶ。上座に宰相レギウス・ヴァルト。私は末席に座り、書類を膝に置いた。
議題は一つ。ドルガ商会との穀物輸入契約の更改だった。
「値は上がります。三年前の倍を、すでに超えました」
穀物差配の官が読み上げた。
「ですが、他に買える相手がおりません。代替の供給地が無い以上、競争入札は成立しない。随意契約を更改するほかないかと」
「更改の期限は」
レギウスが訊いた。低く、平らな声だった。
「十日後です」
「ならば更改せよ。値は交渉しろ」
書記の筆が走る音がした。それで議題は終わるはずだった。
私は立ち上がった。
「発言を求めます」
顔がいくつか向いた。宰相は動かなかった。
「特別尋問官が、契約の席で何を」
「事実の報告です。職掌の範囲内です」
私は書類の束を長机に置いた。音が思ったより大きく響いた。
「東部セルヴァ盆地の、直近の収穫高の実測です」
二人が同時に息を吸うのが聞こえた。
「……盆地は回復不能地ですが」
「はい。指定は現在も生きています。ですが、作物が出ています」
私は帳面を開いた。
「晩秋の収穫、二千四百石。用水路網は盆地の全域に通っています。旧セルヴァ街道も開通済み。住民は四十二人。暫定領主の届出は東部監督府に受理され、受理印がここにあります」
誰も口を開かなかった。
「そして三日前、東門を通った麦の荷があります」
私は市の帳面の写しを重ねた。
「市場の記録に残っています。積み荷の出所は、セルヴァ盆地」
財務の官が咳払いをした。
「……その麦は、どういう扱いになる」
「指定を維持するなら、あの麦は存在しません。存在しない麦が、いま王都の市で売られています」
私は次の紙をめくった。
「そして、随意契約の根拠はここです」
契約書の前文を指で押さえる。
「『代替の供給地が存在しないため、入札を免ずる』。前提が消えれば、免除の根拠も消えます。更改はできません。契約は入札に戻ります」
「恐れながら、尋問官殿」
末席から声が上がった。ドルガ商会の代理人だ。輸入契約の更改には、商会側の陪席が認められている。
「その帳面は、私設の記録ではありませんか。領主の名乗りも暫定と伺っております」
「受理印は東部監督府のものです。私設の記録に、王国の役所は判を押しません」
「量の裏づけは」
「倉を実測しました。私が、自分の足で」
代理人が黙った。
「石数の勘定が合わない箇所が二つありました」
私は続けた。
「どちらも、住民に配った分を帳簿から落としていない記載漏れでした。実際の残量は帳簿より少ない。もし誰かが数字を膨らませて見せたいなら、逆の間違え方をします」
「――待て」
穀物差配の官が身を乗り出した。
「盆地一つで、南方全体の輸入量に代われるはずがない」
「代われるかどうかは、私の判断することではありません」
私は言った。
「私が報告しているのは、代替の供給地が『存在しない』という前提が、事実として成り立たないことだけです。量の議論は、前提が成り立ってから始まります」
筆の音が止まっていた。
***
「もう一点あります」
私は最後の束を出した。
「回復不能地の指定は、土地の現況調査に基づいて出されます。セルヴァ盆地の調査記録は、二十年前の一度きりでした。以後、更新されていません」
紙の隅を指で叩く。
「二十年、一度も測らずに『無い』と決め続けてきたことになります」
その裁定書の末尾には、署名がある。私は読み上げなかった。誰の名かは、この部屋の全員が知っている。
書記の筆が、途中で止まった。書いていいのかを迷う止まり方だ。私は書記を見て、小さく頷く。彼はまた書き始めた。
記録に残れば、それは事実になる。残らなければ、無かったことになる。この部屋で起きたのも、たぶん同じことだ。
「加えて、ドルガ商会は輸入代金の前渡しを国庫から受けています。三年ぶん。会頭グレイド・ドルガの署名入りです。入札に戻れば、この精算が要ります」
「精算といっても、額が」
財務の官が帳面を繰った。指が途中で止まる。止まったまま、動かなくなった。
「……返せる額ではありません」
「はい」
私は言った。
「返せないなら、担保に取った商会の権利を国が引き取ることになります。引き取るには、前渡しの決裁を誰が下ろしたかを洗う必要があります。決裁は宰相府の押印で通っています。三年ぶん、全部です」
「……なぜ君が、そこまで調べている」
誰かが言った。責める調子ではない。ただ、怖がっている声だ。
「事実確認が私の職掌です」
私は答えた。
「東部へは、宰相府の命で行きました。命令の内容は『盆地の実態を確認せよ』でした。私は確認して、持ち帰りました。それだけです」
「そのアルト・フェーンは」
財務の官が訊いた。
「何を要求している」
「何も」
「何も、とは」
「アルト殿は麦を出しました。それだけです」
私は書類を閉じた。
「要求は、書面にも口頭にもありません。私は探しました。滞在した二日のあいだ、帳簿も倉も全部見せられましたが、条件は一つも付きませんでした。付いていれば、私が最初に記録しています」
部屋の空気が、乾いた紙のように薄くなった。
盆地を発つ前、私はあの人に一つだけ訊いた。これを王宮へ持っていけば、あなたは何を得るのか、と。
答えは「何も」だった。得るものの話をしていないのだと、そのとき分かった。私はその返答を書式に落とせなかったので、報告書には書いていない。ここでも言わない。
言わなくても、机の上の数字が同じことを言う。
あとは連鎖するだけだ。私は頭の中で順番を並べた。指定が誤りなら、輸入差配の根拠が消える。根拠が消えれば随意契約が消える。契約が消えれば前渡金が精算対象になる。精算が始まれば商会の帳簿が開く。帳簿が開けば、そこに判を押した者まで遡る。
私が持ってきたのは告発ではない。請求書だ。
告発は誰かを憎む者が書く。請求書は、貸した側が事実を並べるだけでいい。並べ終えれば、あとは相手が払うか払えないかしかない。
宛名の書かれた紙束が、いま長机の上にある。
上座で、椅子の脚が床を擦った。
二十年、この部屋で誰よりも動かなかった男が、はじめて席を立った。
お読みいただきありがとうございます。
この回のレアは、正義感で動いていません。彼女は第1部で「命を落としてまで敵対する価値はない」と言って撤退した人です。事実のほうが強いと知っているから、事実だけを机に置きました。
ひとつだけ、お聞きしてみたいことがあります。ある土地が「無い」ことになっているとき、それを覆すのに必要なのは、たぶん誰かの怒りではなく、一度でいいから測りに行った人の記録なのだと思います。あなたの手元には、まだ誰も測っていない数字がありませんか。
次回、アルトが王都へ入ります。持っていくのは、麻袋がひとつだけです。




