第66話:切り捨てた国へ、麦を
二日たっても、雪はやまなかった。
その二日で、盆地じゅうが同じ話をしていた。倉の前でも、水路の氷を割る場所でも、薪割りの脇でも。
王都が飢えている。うちの倉は満ちている。
それだけの事実が、四十二人の口を通るあいだに、どんどん重くなっていった。
三日目の朝、集会小屋に人を集めた。
ミリア、ガルド、ステラ。ヨナとダン。壁際には手の空いた者が十人ほど立っている。レア・クレインは炉から離れた隅に座って、口を出さない位置にいた。
「決めることは一つだ」
俺は言った。
「盆地の麦を、王都へ出すかどうか」
誰も、すぐには喋らなかった。
最初に口を開いたのはガルドだった。
「反対、とは言わねえ。ただ、条件が悪すぎる」
太い指が、床に置いた地図の上を滑る。
「街道は封じられてる。荷を出すってことは、封鎖を破るってことだ。それだけで咎の理由になる」
「分かってる」
「もう一つある。冬の街道は魔物が戻ってきてる。荷駄を出せば、その分こっちの守りが薄くなる」
彼は顔を上げた。
「俺の仕事は、この土地の中にいる連中を守ることだ。ここには子どもが三人いる。順番としちゃ、守るのが先だろ」
正論だった。反論する気にならない類の正論だ。
「あたしは半分賛成」
ステラが手を挙げた。
「今の王都なら、平年の四倍で売れる。二十年ぶりに“セルヴァの麦”って名前が市場に立つの。これ、値がつくとかいう話じゃなくて、名前が戻るってこと」
「商人らしいな」
「商人だもの。……でも、あと半分は反対」
彼女は指を折った。
「封鎖下で荷を動かせば、こっちが違法者になる。捕まえる口実を、向こうにあげることになるの。あの宰相さまなら、麦を差し押さえたうえで“やはり回復不能地は無法だ”って書くよ。あたしなら、そう書く」
「――待て」
ダンが壁から背を離した。
彼の声は、思ったより静かだった。だから、よく通った。
「なんで、そこから話が始まるんだ」
「ダン」
「俺の親父は、王都に麦を送る荷駄をやってたんだ」
彼は俺を見なかった。炉を見ていた。
「毎年、山ほど送った。送って、送って、それで塩が出たら“回復不能地”だ。地図から消された。親父は最後まで、迎えが来ると思って荷駄の縄を手入れしてた」
薪が爆ぜる。
「その国が今度は腹減らして、うちの麦が要るって? ……ふざけんな」
誰も咎めなかった。
咎められる話ではない。突き返されてきた側の言葉だ。
「ヨナさん」
俺は老人を見た。ヨナは長いこと黙っていた。
「……わしはな、領主さま」
老人は膝の上で手を組んだ。
「あの窓は、夢の中でもまだ開かんのじゃよ」
「ああ」
「じゃから、開けてやる義理は無いと思う。思うんじゃが」
ヨナは、指の関節を撫でた。
「わしが二十年、水路を掃除しとったのはな。いつか誰かが、この水で作った麦を食うと思うとったからじゃ。……誰が食うかまでは、決めとらんかった」
小屋が黙った。
俺は、ミリアを見た。
「ミリアは」
「私は言いません」
彼女はまっすぐ俺を見返した。
「私が決めたら、それは私の答えです。ここで要るのは、この土地の領主の答えですから」
――逃げなかったな、と思った。この人はいつも、いちばん厳しいところで俺を一人にする。
***
昼前に、俺は一人で倉へ行った。
板戸を開けると、麦の匂いがした。乾いて、少し甘い。積んだ袋の列は、俺の背丈より高い。
秋に穫った二千四百石が、冬を越してもほとんど減らずに残っている。この土地が出した数字だ。
俺は縄を解いて、袋の中に手を入れた。
粒が指のあいだを流れる。冷たくはない。麦は、冬でもわずかに温かい。
この麦を作るのに何をやったか、順に思い出す。塩の表土を剥いで、真水脈へ導管を通した。ヨナが掃除し続けた水路を掻き出し、ミリアが土の中の生き物を戻した。ダンは芽が出るまで夜通し番をしていた。
そのどれ一つとして、誰かを飢えさせるためにやったことではない。
背中で板戸が軋んだ。
「アルトさま」
振り向かなくても分かった。ミリアだ。彼女は俺の隣まで来て、同じように袋の列を見上げた。
「一つだけ、聞いてもいいですか」
「ああ」
「アルトさまは、王都が嫌いですか」
俺は少し考えた。
「……好きじゃない」
「はい」
「でも、嫌いだから何かをする、っていうのは、たぶんいちばん高くつく」
王都の役所にいた頃、そういう決裁を何度も見た。誰かを困らせるために作られた仕組みは、必ず作った側の首も締める。この盆地を消した紙が、今まさにそうなっている。
「そう思えるうちは、大丈夫だと思います」
ミリアはそれだけ言って、先に外へ出ていった。
俺は袋の口を縛り直した。
板戸を開けると、雪が少し弱くなっていた。
***
小屋へ戻って、俺は言った。
「出す」
ダンが顔を上げる。ガルドが腕を組み直した。
「越冬に要る分は全部残す。種籾も残す。そのうえで、出せるだけ出す」
「理由を聞かせろよ」
ダンが言った。
「あいつらを許すってことか。それとも、恩を売るってことか」
「どっちでもない」
俺は炉の前に立った。
「俺は、この土地を、麦が穫れるように直した。麦は、食う人間がいて初めて麦だ。倉に積んで見せつけるためなら、俺は最初から土なんか触ってない」
それだけ言って、俺は座った。
言葉を足すつもりはなかった。足せば足すほど、言い訳になる気がした。
ダンはしばらく俺を睨んでいた。
「……納得してねえからな」
「知ってる」
「ちっ」
彼は舌打ちして、それでも出ていかなかった。
「順番の話は残ってるぞ」
ガルドが言った。
「守るのが先ってのは、下げねえ」
「下げなくていい。道はあんたが決めてくれ」
「……そりゃ、そう来るわな」
護衛長は頭を掻いて、地図を引き寄せた。
「なら、荷は昼に出す。夜は動かさねえ。峠の手前で一泊、俺の指図に従う奴だけ連れてく」
「値はあたしが決めるからね」
ステラが割り込んだ。
「安く売るなよ、領主さま。恵んだら、向こうは二度目も恵まれるつもりでいるから。買わせるの。ちゃんと帳面に残る形で」
「頼む」
最後に、レアが立ち上がった。
「私は先に行くわ」
彼女は写しの束を外套の内に入れた。
「荷より、数字のほうが早く着いたほうがいい。差し押さえの口実を潰しておく」
「できるのか」
「できるとは言っていない」
レアは戸口で振り返った。
「けれど、間に合わなければ、あなたの麦は倉ごと没収されるでしょうね。私が急ぐ理由としては十分よ」
***
荷が出たのは、翌日の昼だった。
橇に麦の袋を積み、その上から油布をかけて縄で締める。ガルドが縄の一つ一つを引いて確かめた。
橇は三台。前を引くのは盆地の馬ではなく、ステラが去年から飼わせている荷馬だ。
見送りに、村じゅうが出てきていた。誰も声を上げない。手を振る者もいない。ただ、道の両側に立って、荷が縄で締まっていくのを見ている。
この道から出ていった荷を最後に見た者が、この中に何人かいる。
ヨナが橇の脇に立って、袋に手を置いていた。
「……行ってこい」
老人は、麦にそう言った。
ダンは、いつの間にか護衛の列にいた。弓を背負い、こちらを見もしない。
「おい」
ガルドが茶化した。
「納得してねえんじゃなかったのか」
「してねえよ」
ダンは前を向いたまま言った。
「してねえけど、うちの麦だ。途中で盗られたら腹が立つ」
ミリアが俺の隣で、小さく笑った。
俺は視界の隅に枠を呼んだ。
《旧セルヴァ街道:通行可(積雪)》
通行可。王国の紙は、この道を封じている。それでも道は道のまま、そこにある。
橇が動き出した。
雪の照り返しの中を、荷が西へ、ゆっくりと進んでいく。昔、毎年通っていた道を、同じ方角へ。
二十年ぶりに、セルヴァ盆地の麦が、王都へ向かった。
お読みいただきありがとうございます。
この回でいちばん好きなのは、最後まで納得していないのに護衛の列に並んでいるダンです。「してねえけど、うちの麦だ」――この男、たぶん一生この調子だと思います。ヨナが橇の袋に向かって話しかけるのも、書いていて自分で笑ってしまいました。人に言えないことを、麦には言えるらしい。
そしてステラの「恵むな、買わせろ」は、この物語でいちばん現実的な台詞かもしれません。作者が優しい話にしすぎないように見張ってくれている人です。
さて、荷より先に、レア・クレインが王都へ着きます。次回、二十年ぶんの書類が積まれた部屋に、実測値が一枚だけ届きます。




