第65話:特別尋問官、二度目の来訪
朝の雪は、夜のうちに固く締まっていた。
石村の集会小屋に、二十年ぶりで王都の人間が座っている。
レア・クレインは外套の雪を丁寧に払ってから、炉のいちばん端に腰を下ろした。黒い服。装飾はない。剣は帯びているが、鞘に手をかけない座り方をしていた。
ガルドが戸口に立ったまま動かない。ミリアが俺の斜め後ろにいる。ダンは壁際で腕を組み、老いたヨナだけが遠慮なく炉の前に座っていた。
「まず、これを」
レアは懐から折り畳んだ紙を出して、炉の板の上に置いた。
俺は開いた。何も書かれていない。判も、署名もない。
「命令書は持っていない、という意味よ」
彼女は言った。
「私は今、誰の命令でもここにいない。だから、あなたに何かを命じる権限もない。先に言っておいたほうが、話が早いでしょう」
「……早いな」
「無駄が嫌いなの」
声に温度がない。あの村で向かい合ったときと同じだ。この人は、脅すときも譲るときも、声の高さを変えない。
「アルト・フェーン」
レアは俺の名を呼んだ。
「王都は今、この盆地について一つも数字を持っていない」
「裁定書があるだろう」
「あれは判断であって、数字ではないわ」
彼女は即答した。
「“回復不能”と書いてある。何がどれだけ穫れないのか、どこにも書いていない。二十年、誰も測っていないから」
ダンが壁際で鼻を鳴らした。
「誰も来なかったのに。今さら測りに来たのかよ」
「ええ」
レアは彼のほうを見た。目を逸らさない。
「今さらよ」
言い訳をしなかった。ダンが言葉を失ったのが分かった。
「私が知りたいのは一つだけ。この土地は、実際にどれだけ穫れるのか」
「見せろ、と」
「測らせて、と言っている」
彼女は膝の上で指を組んだ。
「あなたが見せたい数字ではなく、私が測った数字が要るの。でないと、王宮で一枚の紙にもならない」
俺は少し考えた。
考えるまでもなかった、と言うほうが正しい。この半年、俺たちは隠すことで一度も得をしていない。カセルを崩したのも、剣ではなく帳簿と実測値だった。
「ヨナさん」
「へえ」
「台帳と、あんたの記録を全部持ってきてくれ。それから倉の鍵も」
ヨナが目を丸くした。ダンが壁から背を離した。
「おい、いいのかよ」
「隠す数字が無いんだ」
俺は言った。
「隠したら、そこだけが疑われる」
戸口の脇で、ステラが小さく口笛を吹いた。
「太っ腹だね、領主さま。相手、王都の尋問官だよ」
「だから見せるんだ」
俺は言った。
「商人には値を隠す。役人には数を見せる。あんたが教えてくれたことだろ」
「あたし、そんな上品な言い方したことないけど」
ステラは肩をすくめて、それでも倉の鍵を投げてよこした。
レアが立ち上がる。
「案内は要らないわ。独りで見る」
「どうぞ」
「止めないのね」
「止める理由が思いつかない」
***
レアは、まず倉へ向かった。
俺は戸の外で待った。独りで見ると言った人間の背中に、ついて回る理由がない。
ダンだけが板の隙間から中を覗いていて、彼女が出てくると入れ違いにこっちへ来た。
「あいつ、袋を端から数えてた。数え終わってから、三段目を開けた」
「三段目」
「上のじゃなくて。わざわざ屈んで」
ダンは腑に落ちない顔をしていた。俺のほうは、腹の底が少し冷えていた。
上に良いものを積む倉は多い。だからこの人は上を見なかった。それだけのことだが、それだけのことをする役人を、俺は王都でほとんど見たことがない。
倉から出てきたレアの掌に、麦が数粒残っていた。指で潰し、匂いを嗅いでから、袖で払う。
「乾きは足りているわ」
「褒めてるのか」
「測っている」
次に、畑へ出た。
雪を掻かせ、鍬を貸してくれと言われたので渡した。彼女は自分で土を出した。黒い土が雪の下から出てくる。指で揉むと崩れる。
それから、舐めた。
ヨナが小さく声を上げた。王都の役人が畑の土を口に入れる図は、この盆地の誰も見たことがない。
「東部監督府の写しでは、この土地の塩分は基準の四倍を超えているの」
レアは土を落として立ち上がった。
「舌の先に、薄くしか残らないわね」
「半年で抜いた」
「そう書いても、誰も信じないでしょうね」
北古水路では、氷を割らせて水を掬った。今度は迷わず口に入れて、真水だと分かると、水面を一度だけ長く見た。
ヨナの記録は、小屋の隅で読んだ。日付と水量と、年ごとの雨。文字は震えているが、抜けが無い。
「役所の帳面より整っている年があるわ」
「わしは字が下手での」
「整っている、と言ったのよ」
ヨナは耳が遠いふりをして茶を啜った。照れたときのこの老人の癖だ。
昼を挟んで、街道へ出た。
封鎖の札の前で、レアは雪をどけて路面を見た。路盤が締め直されている。轍は残っているのに、路肩の溝の掃除が行き届いている。ひと月半、荷が一つも通っていない道の顔ではない。
「通れないと分かっていて、直し続けているのね」
「開いたときにすぐ通れないと、意味がない」
「……そう」
彼女はそれ以上言わずに、書きつけた。
水路の分岐を三つ辿って堰まで登るときは、俺は下に残り、ヨナが付いていった。戻ってきた老人が、息を切らしながら笑う。
「途中から、あの人が先を歩きよったわ」
夕方、最後に収穫高の記録を開いた。
二千四百石。
レアの筆が止まった。止まった理由は、俺にも分かる。
東部監督府の写しでは、この土地の収穫高は二十年間、空欄のままだ。空欄は零ではない。測っていないという意味だ。だが王宮の食糧の割り振りは、その空欄を「零」と読み替えたところから始まっている。輸入の決裁も、港と峠の税の取り決めも、その上に積んである。
俺も昔は、その紙の端に判を押していた側だった。
「この数字が本当なら」
レアが言った。
「王宮の書類は、二十年ぶん全部倒れるわ」
「倒れて困る人間がいるのか」
彼女は答えなかった。一度だけ、誰かの名を書きかけたように筆を止めて、そのまま次の行へ移った。
「名前は、まだ数字ではないから」
やがてレアは炉に戻り、写しを取る許可を求めた。
「全部持っていけ」
俺は言った。
「原本もか、とは聞かないのね」
「持っていくつもりなら、聞かれる前に持っていくだろう」
彼女は笑わなかった。ただ、筆の速度が少し落ちた。
***
日が落ちてから、レアは帳簿を閉じた。
小屋の灯りの下で、彼女は指を組んだまま長いこと動かなかった。
「一つ、確かめさせて」
「どうぞ」
「あなたの力は、この土地にどこまで効くの」
俺は炉端に座り直した。
「見たほうが早い」
意識を土へ落とすと、いつもの淡い枠が視界に浮かんだ。今度は俺だけではない。小屋の中の空気が、わずかに動く。
《領地レベル:2》
《領民:42》
レアが顔を上げた。
初めて、彼女の表情が動いた。目を細めるでもなく、瞬きもせず、ただ、宙に浮かんだ文字をまっすぐ見ていた。
「……見えるものなのね、これは」
「領地の中にいる人間には見える。ここが領地だからだ」
「王国の紙の上では、ここは領地ではないわ」
「知ってる」
俺は枠を閉じた。
「だが、麦は穫れた」
レアは目を伏せて、しばらく黙っていた。
ヨナが薪を足す。ダンが壁際で立ったまま、いつの間にか話を聞いている。
「あなたは、覚えているかしら」
彼女が言った。
「あの村で、私が退いたときのこと」
「忘れるわけがない」
「あのとき私は、こう判断した。命を落としてまで敵対する価値はない、と。上には随分言われたわ。特別尋問官が引き下がるのか、と」
「それで」
「今も同じ判断をしている」
レアは顔を上げた。
「あのとき退いたのは、あなたが恐ろしかったからではない。事実の側に立っていなかったのが私だったから。今度も同じ。私は、間違った書類の側に立ったまま冬を越すつもりはない」
寒い部屋の中で、その言い方だけが乾いていた。
この人は、変わっていない。あの日こちらへ向いていた刃と、同じ理屈がそこにあるだけだ。向きだけが違う。
「一つ聞いていいか」
「どうぞ」
「王都は、どのくらい保つ」
「保たない」
即答だった。
「配給の量は先月から二度下がった。次に下がったら、下がったこと自体を隠すようになるでしょうね。そうなったら早いわ」
俺は湯呑みを両手で包んだ。
湯はぬるくなっていた。
「なあ」
ダンが、壁際から口を挟んだ。
「あんた、王都の役人だろ。役人が困るのは、書類が倒れるときだけだ。人が並んでるのは、どうでもいいのか」
「どうでもよくはないわ」
レアは振り向いた。
「ただ、私にできるのは書類を倒すことだけなの。並んでいる人を数える仕事は、私の役目ではない。だから、できることをする」
「……冷てえな」
「熱くしても、麦は増えないもの」
ダンは何か言いかけて、やめた。
やめたのは、たぶん納得したからではない。
「……あなたの麦を見せてもらって、こちらの帳簿も見せてもらった」
レアは筆を置いて、まっすぐ俺を見た。
「一つだけ、まだ聞いていないことがある」
「なんだ」
「これを王宮へ持っていけば、あなたは何を得るの?」
お読みいただきありがとうございます。
第1部でレア・クレインが撤退を選んだとき、彼女は「合理的だから退いた」のであって、心を入れ替えたわけではありませんでした。今回も同じです。彼女は味方になったのではなく、同じ原理のまま、たまたま同じ側に立っただけです。
人が手のひらを返す物語より、一度も返していない人が別の場所に立って見える物語のほうが、私は信じられる気がします。
そして彼女の最後の問いは、たぶん正しい問いです。証拠を渡す側には、渡す理由が要る。
次回、盆地の麦を王都へ出すかどうかで、四人と残留者の意見が割れます。




