第64話:飢え始めたのは、王都のほうだった
白原の白が、雪の白に変わっていた。
塩の白と雪の白は、遠目には見分けがつかない。違うのは足の裏だ。塩の上は硬く、雪の上は柔らかい。子どもたちは今年から、その二つを踏み分けて遊ぶようになった。
石村の倉の前に、朝から列ができている。
「一軒に一袋。人数の多い家は二袋。押すな、逃げやせんぞ」
ヨナが手袋の指で数えながら、麦の袋を順に渡していく。列は短い。四十二人ぶんの、冬の朝の音だ。
倉の脇では、大鍋から湯気が上がっていた。ミリアが白湯を沸かしている。粥ではなく、ただの湯だ。
この土地には、冬に湯を飲む習慣がなかった。薪を燃やす余裕がなかったからだ。街道が開いて薪の伐り出しに人手を回せるようになって、はじめて湯が飲めるようになった。
視界の隅に、いつもの淡い枠が浮かぶ。
《越冬に必要な貯蔵量を満たしています》
「みたして、るって」
湯をもらった子どもが、口の中で字を追うように読んだ。
「読めんのかよ、お前」
ダンが呆れた声を出す。子どもは湯気の向こうで得意そうな顔をした。
この光は俺だけのものではない。白原の上で、住民が枠の中の文字を覚え始めている。
倉から旧セルヴァ街道の入口までは、歩いて半時ほどだ。
その入口には、王都から来た紙が打ちつけてある。“回復不能地・物流全面禁止”。凍りついて、端が反り返っていた。
紙が打たれてから、ひと月半になる。
そのあいだ、荷は一つも入らず、一つも出ていない。塩も、鉄も、布も、薬も。買えるはずのものは全部、外にあって手が届かない。
「相変わらず、よく効く札だな」
ガルドが雪を踏みながら言った。
「荷は一つも通らねえ。ただ、腹は減らせねえ。札ってのは、そういう性分だ」
俺は札を見上げた。
この紙を書いた人間は、たぶん盆地の倉の中身を知らない。知らないまま、正しい書式で、正しい判を押した。
封じられた側は、封じられた日から数え直すしかない。麦は倉にある。塩は湖の縁で焼ける。鉄はまだ足りない。薬は、ミリアの手がある。
足りないものを並べて、代わりを探して、諦めるものを決める。ひと月半、ずっとそれをやってきた。
やってみて分かったのは、意外なことだった。この土地は、外から買わなくても冬を越せる。
かつて、東へ出る麦のほとんどはここから出ていたのだ。ここは、そういう土地だった。
***
ステラが戻ってきたのは、その日の夕方だった。
東の峠の茶屋まで出て、昔の行商仲間と落ち合ってきたという。荷は動かせない。だが人は歩ける。
「紙は荷を止められるけどさ」
外套の雪を払いながら、彼女は言った。
「口は止められないんだよね」
集会小屋の炉端に、四人とヨナが集まった。ステラは指を三本立てて、順に折った。
「一つ。王都の麦の値が、去年の四倍」
ガルドが低く唸る。
「二つ。パン屋の前に、夜明け前から列。三つ。先月から、王宮が量を決めて配り始めた」
ミリアが小さく息を吸った。
「王都って、あの、たくさん人のいる……」
「うん。たくさんいるよ」
ステラは頷いた。
「人が多いってことは、麦がいる口が多いってこと。飢えるときは、いちばん大きい町からいちばん早く飢える」
「配給か」
俺は言った。その文字を書類の中で何度か見た。書くのは、いつも間に合わなかったあとだ。
「王都は、外から買ってるはずだ」
「買ってたよ。二十年ずっと」
ステラは炉に手をかざした。
「ねえ領主さま。二月前、王都の麦の値が下がったの、覚えてる?」
「……盆地の麦が、市場に出た頃だな」
「そう。それ見て、ドルガ商会は来季の買い付けを半分に落とした」
彼女は当たり前のことを言う口調だった。
「安くしか売れない年に、国境の峠を越えて麦を運ぶ商人はいないの。駄賃が出ないもの。商いとしては、正しい判断」
「……それで」
「そのあとで、宰相さまがこっちを紙で締めた」
ステラは炉の火を見たまま言った。
「分かる? 王都に麦が入る口は、二つあったの。外から買う口と、この盆地から来る口。それが同じ冬に、両方細くなった」
「買い付けを絞ったのは商会で、盆地を止めたのは宰相だ」
俺は言った。
「別々の判断だ」
「別々の判断が、同じ一人の懐の中で繋がってるだけだよ」
ステラは肩をすくめた。
「あの人の力の元は、外から買う麦の割り振りを決められることでしょ。だからあの人にとって、王都が外から買い続けてくれないと困るの。……買う先が減っても、値が崩れても、困るのは同じ」
俺は炉の火を見た。
王都で読んだ数字が、頭の中で勝手に並んでいく。輸入で賄うというのは、悪い手ではない。買えるうちは、いちばん安上がりで、いちばん手間がかからない。
ただ、買えなくなった日の勘定は、どこにも書いていない。
「……何人だ」
「え?」
「列だよ。パン屋の前に、何人並んでる」
ステラが言葉を止めた。
「知らない。数えた人がいないもの」
俺は湯呑みを置いた。
数える人間がいない列は、書類の上では存在しない。存在しないものに、王宮は麦を割り当てない。
この盆地が「無い」ことにされたのと、同じ書き方だ。
「ステラ」
「なに」
「その話、どこまで確かだ」
「峠の茶屋で聞いた噂だよ。半分は盛ってる」
彼女は真顔で言った。
「でもね。値が四倍ってところだけは、盛れないの。商人はそこだけは間違えない」
***
その夜、集会小屋には人が残った。
噂は倉の前で広まり、白湯を飲みに来た者から順に、村じゅうへ伝わっていた。
「いい気味だ」
ダンが吐き捨てた。
「俺の親父は、王都に麦を送る荷駄をやってた。送った先が、俺たちを地図から消したんだ」
誰も咎めなかった。この土地では、その言葉に正当な理由がある。
ヨナは炉の縁に手をついたまま、しばらく何も言わなかった。
「わしはな」
老人が、ようやく口を開いた。
「あの窓を、思い出しとる」
「今ごろ、あの窓の内側におった連中が、腹を空かせとるんじゃろうな」
「いい気味じゃねえか」
ダンが言った。ヨナは笑わなかった。
「……わしは、窓の内側に若いのがおったのを覚えとる。帳面を抱えて、目を伏せとった。あれが今、いくつになっとるかのう」
炉で薪が爆ぜた。
俺は、自分の手を見ていた。
この冬、俺がやったのは倉の勘定と、朝の水路の氷割りだけだ。王都へ何かをしたわけではない。指一本、あちらへ伸ばしていない。
(俺は、何もしていない)
それなのに、あちらでは人が並んでいる。
「アルトさま」
ミリアが、俺の顔を覗き込んだ。
「今、どんな気持ちですか」
「……分からない」
俺は正直に言った。
「嬉しくはない。悔しくもない。ただ、勘定が合わないんだ。こっちの倉は満ちてるのに、向こうは足りない。同じ王国の中で」
「分からない、でいいと思います」
ミリアは湯呑みを両手で包んだまま言った。
「分かったふりをすると、たぶん、そのぶん人が減ります」
ガルドが鼻を鳴らして、薪を一本足した。
「難しく考えるこったねえよ、領主さま」
護衛長は炉を突きながら言った。
「向こうが飢えたのは、向こうの都合だ。うちの倉が満ちてるのは、うちが働いたからだ。それだけの話だろ」
「それだけの話なら、楽なんだがな」
「楽にしとけ。冬は長えぞ」
ガルドの言うとおりだった。
俺たちは、封じられた側だ。街道は塞がれ、荷は止まり、王国の紙の上では、この盆地はもう一度「無い」ことになっている。
助けを求める先など、どこにもない。
それでもこの小屋には湯があって、外の倉には麦がある。向こうには、麦が無い。
どこで、どう入れ替わったのか。
俺は炉の火を見ながら、ずっとその順番を辿っていた。辿るたびに、答えはひとつのところへ戻る。
誰も、この土地を殺すのに失敗しただけだ。
そのときだった。
小屋の戸が乱暴に開いて、見張りに出ていた若い衆が雪を巻き込んで転がり込んできた。
「街道――西の街道に、馬が一頭」
ダンが跳ね起きる。
「封鎖してんのはあっちだろ。誰が通るってんだ」
「一人だ。護衛も連れてねえ」
俺は外へ出た。
雪の中を、黒い外套が一つ、まっすぐこちらへ歩いてくる。馬は手綱を引いているだけだった。
外套の下の顔に、見覚えがあった。
王都特別尋問官、レア・クレイン。
お読みいただきありがとうございます。
この世界の王都は、二十年前から食糧を輸入で賄っています。輸入というのは、買えるうちは本当に賢いやり方で、道の修繕も、農地の管理も、凶作の心配も、まとめて他人の仕事にできる。ただし「買えなくなった日」の勘定だけは、どの帳簿にも書かれません。誰が書くべきかも決まっていないからです。
盆地の側は今日も、倉と、湯気と、氷を割る音でできています。アルトは何もしていません。それがこの回のいちばん大事なところでした。
次回、二十年ぶりに、王都から人が来ます。命令書は持っていません。
ブックマークと評価は、倉の白湯の薪代に充てさせていただきます。今年は少しだけ、薪に余裕があります。




