第63話:紙は、水を止められない
封鎖から十日目の朝、白原に煙が三本立っていた。
俺は誰にも、火を焚けとは言っていない。
石村の東はずれ、白原へ降りる斜面の下だ。行ってみると、平たい石を積んだ即席の竈が三つ並んでいて、その上に鉄鍋ではなく素焼きの浅い器が載っていた。器の中で、白く濁った水が煮えている。
竈の前にしゃがんでいたのは、六十を過ぎた女衆が四人と、子どもが二人だった。
「領主さま。邪魔じゃったかの」
いちばん年嵩の女が言った。手には木のへらを持っている。
「何をしてる」
「塩じゃ」
女はへらで器の底をこすった。白い粒が寄せられて、山になる。
「白原の土を桶で汲んで、水で溶かして、上澄みだけ煮とる。にがいのは先に底に沈むけん、そこは捨てる」
俺は器を覗き込んで、少し黙った。
俺がやろうとしていた手順と、まったく同じだった。
「……誰に教わった」
「教わっとらん」
女は不思議そうな顔をした。
「昔からこうじゃ。婆さまがやっとった。塩が上がってきた最初の年に、みんなで一度やった。すぐ土地を捨てる話になったけん、それきりじゃったが」
昔、一度だけやって、途中でやめた手だ。それを、この人たちは覚えていた。
「領主さま、これ売れる?」
子どもの一人が顔を上げた。煤で頬が黒い。
「売れる。すごくいい塩だ」
「でも、外に出せんのじゃろ」
「出せない」
俺は言った。それから、しゃがんで山になった塩を指でつまんだ。粒が細かい。舐めると、角のない、まっすぐな塩辛さだった。
「だから、まず俺たちが使う。肉も魚も、これがないと冬を越せない」
女衆が顔を見合わせた。それから、いちばん端に座っていた小柄な老婆が、ぽつりと言った。
「じゃあ、この土地が悪さしとった分を、返してもらうんじゃな」
俺は、うまく返事ができなかった。
この土地を殺してきたのは塩だ。その塩を、これから冬を越すために使う。誰かがそう言葉にするまで、俺はそれをただの手順として考えていた。
***
封鎖下でやるべきことを、俺は三つに絞った。
一つ、食う分を全部中で作る。二つ、燃やす物を溜める。三つ、鉄と薬を、無いなら無いで回す形にする。
全部やる、とは言わなかった。ここでもまた、選ぶ話だった。
「LEを、どれだけ使えるの」
ステラが帳面を開いて訊いた。
「使い切っても、蔵が一つ建つかどうかだ」
俺は正直に答えた。
LEは、領民の暮らしから生まれる。四十二人ぶんは、細い。街道が開いていたころは荷の出入りで少しずつ増えていたが、封鎖でそれも止まった。
「じゃあ蔵は建てないね」
「建てない。木と石なら人の手で組める。人の手で組めないものにだけ使う」
俺が【地形操作】を使ったのは、二か所だけだった。
一つは、白原の縁に浅い池を三枚。塩水を溜めて風と日で濃くする、塩田の下地だ。桶で汲んで煮るのでは、薪がいくらあっても足りない。
もう一つは、石村の北の斜面に横穴を一本。氷室にする穴だ。冬のあいだに雪を詰めておけば、春の終わりまで肉と根菜が保つ。
《現在のLE:37》
光の枠の数字を見て、ガルドが後ろで唸った。
「ずいぶん減ったな」
「三百使った」
「戻るのか、それ」
「人が飯を食って、暖かく寝れば戻る。だから最初に食う話をしてる」
人の手のほうが、俺の予想よりずっと速かった。
ダンは狩人を四人集めて、盆地の縁の三つの谷筋に罠を掛け直した。冬に鹿が下りてくる道だ。獲った分をその場で捌いて、塩に漬けて運んでくる。
「肉は、生で持って帰るのが一番ばかだ」
彼はそう言った。
「重いし、腐る。血だけ捨てて、塩を先に当てりゃ、荷が半分になる」
塩を先に当てる、という発想は、塩が余っている土地でしか出ない。ダンはそれを、誰にも相談せずに始めていた。
ヨナは、老人衆を七人集めていた。
俺が気づいたのは、北古水路の様子を見に行ったときだ。水路の脇に、太い焼け跡のような穴が二つ掘られていて、上に土がかぶせてある。
「炭じゃ」
ヨナは腰を叩きながら言った。
「薪をそのまま焚くと、冬の終わりまでもたん。炭にすりゃ、同じ木で倍もつ」
「窯、作ったのか」
「作ったというほどのもんでもない。若いころ、堰の普請場でよう見た。土をかぶせて、口を絞って、煙の色を見るだけじゃ」
老人は煙の出口を指した。白い煙が、うっすら青みを帯びている。
「この色になったら閉める。まだじゃ」
俺は何も言えなかった。
この人たちは、盆地が生きていた時代を知っている。生きていた土地には、生きていたぶんの技があった。使う相手がいなかっただけだ。
俺が【領地創造】で直したのは土と水で、この人たちが持って帰ってきたのは、その上で暮らす手つきだった。
俺一人では、どちらも足りなかった。
***
冬の作付は、麦を諦めた。
この時期に播いても実らない。代わりに、ミリアが石村の納屋から見つけた古い種袋を持ってきた。
「アルトさま。これ、蕪だと思います」
「よく分かったな」
「袋に絵が描いてあります。下手ですけど」
ミリアは嬉しそうに袋を掲げた。昔の誰かが、字の読めない人にも分かるように描いた蕪の絵だった。
蕪と、大根と、豆が少し。畑の三枚を冬用に切り替えて、女衆と子どもたちが播いた。芽が出るまでの十日、ミリアは毎朝そこへ行って、掌をかざしていた。
「無理はするな」
「してません。少しだけです」
彼女の癒光は、土の中の小さな生き物を起こす。強く使えば早く伸びるが、その分、彼女が眠る。
「アルトさま。ひとつ、気づいたことがあります」
「ん?」
「二十年前の種なのに、芽が出るんです」
ミリアは畑を見ていた。
「捨てられなかったんだと思います。もう播けないって分かっていても、捨てられなかったんですよ、きっと」
二十日で、石村の広場に新しい建屋が二つ建った。
俺は一本も釘を打っていない。組んだのは住民で、木は盆地の縁から出した。釘が無いから、木を組む古い継ぎ方を老人が思い出して、若い連中に教えていた。
一つは干し場だ。塩漬けの肉と、干した蕪と、豆の袋が下がっている。
もう一つが、倉だった。
俺は扉を開けて、中を見た。
麦の袋が、壁一面に積んである。
街道に杭が立った三日後に、穂が熟れた。秋のうちに播き終えた百二十枚が、いっせいにだ。刈って、束ねて、打って、袋に詰めた。二千四百石。届けに書いた見込みと、ほとんど狂わなかった。
出す先だけが、無い。
役所は、俺たちが穫る前に道を閉じていた。おかげで麦は一粒も外へ出ていない。売れなかった麦が、そのまま冬の備えになっていた。
その手前に、塩の甕が並んでいる。数えると、四十を超えていた。
「足りるか」
後ろから来たガルドが訊いた。
「食う分は、足りる」
俺は言った。
「春まで、誰も飢えない」
「じゃあ十分だろ」
「十分だ」
俺は自分で言って、少し驚いた。
あのときの俺なら、この倉を見て「まだ足りない」と言ったと思う。
足りるか足りないかを、今は俺一人で決めていない。ダンが肉を数え、ヨナが炭を数え、女衆が塩を数えて、ステラがそれを帳面に付けている。
俺がやったのは、池を三枚と穴を一本だ。
「なあ、領主さま」
ガルドが倉の柱をこつこつ叩いた。
「王都の連中は、この土地の口を塞いだつもりだろうよ」
「だろうな」
「塞がれたのは、あっちの鼻じゃねえのか」
俺は答えなかった。
答えなかったが、頭の中では、封鎖された日から同じ勘定を何度も回している。
王都は東部の麦を買っていない。買わない代わりに、海路から買っている。その海路は、二十年ぶんの契約と値の上で回っている。
そこへ今年、東から新しい麦が少し流れ込んだ。値が動いた。動いたから、紙が来た。
紙で止められるのは、荷と人だ。
紙で止められないものが、二つある。一つは、この盆地の水路を流れている水。
もう一つは――王都の人間が、明日も飯を食うということだ。
***
その夜、風の音が変わった。
小屋を出ると、空気が刺すように冷たかった。息が白い。星が異様に近い。
白原の上に、白い粒がちらつき始めていた。
塩ではない。
ヨナが小屋から出てきて、空を見上げ、目を細めた。
「――来たな」
老人は、少し嬉しそうだった。
「盆地の冬は長いぞ、領主さま。雪が積もれば、あの街道は誰も通れん。役人もな」
お読みいただきありがとうございます。
制作の裏話を少しだけ。この回は、書き始める前に「アルトが指示していないことを、住民が三つやっている」と決めてから組み立てました。塩を煮る竈、肉に塩を先に当てる罠場、炭窯。どれもアルトは後から知ります。
盆地を殺した塩が、盆地を越冬させる資源になる――ここは舞台をセルヴァ盆地にした時点で、いつか書きたいと思っていた反転でした。塩害の土地は、見方を変えれば塩の鉱山です。
次回、白い粒が積もったころ、飢え始めるのは盆地ではありません。




