第62話:軍は来ない。紙が来た
白原に、初めて霜が降りた。
朝、畑の縁の土が白く粉を吹いていた。塩ではなく霜だ。指で触れると溶けて、指先が濡れる。塩の白は舐めれば分かるが、霜の白は触れば分かる。この土地で二つを見分けられるようになったのは、俺もそれなりに長くここにいるということだった。
冬が来る。倉の勘定をしなければならない。そう思いながら小屋を出たところで、東からダンが走ってきた。
「領主さま。街道の入口だ」
息が上がっている。狩人が息を切らして走ってくるのは、初めて見た。
「兵か」
「いや」
ダンは首を振って、それから妙な顔をした。
「杭が立ってる」
***
旧セルヴァ街道の入口に、真新しい杭が二本、打ち込まれていた。
人の背丈ほどの高さで、削り立ての木肌が白い。その二本を渡すように横木が渡してあって、そこに板が一枚、釘で打ちつけられている。
板には紙が貼ってあった。役所の紙だ。角が糊で丁寧に留めてある。
周りに人はいない。轍が四つ。荷車ではなく、軽い馬車が一台。役人が二人か三人、大工が一人。それだけの跡だった。
剣は、一本も来ていない。
俺は板の前に立って、紙を読んだ。
――東部第七管区、旧セルヴァ盆地一帯につき、回復不能地の指定を再度確認する。
――当該地域は王国の行政区画に存在しない。よって、当該地域を発着地とする一切の荷の通行を認めない。
――旧セルヴァ街道は台帳より抹消。以後、道として扱わない。
最後に、東部監督府の判と、日付があった。
読み終わって、俺はしばらく動かなかった。
「なんて書いてある」
ダンが言った。俺の後ろに、ヨナとステラとガルドが追いついてくる。
「ここは無い、と書いてある」
「……前と同じかよ」
「前より上手い」
俺は紙の下の判を指した。
「これは監督府の判だけど、文面が違う。カセルは『無い土地に領主はいない』と言いに来た。人を否定する書き方だった。これは人を否定してない」
「じゃあ何を」
「道を消してる」
俺は横木の板を軽く叩いた。
「盆地に何人いようが、何を作ろうが、一言も触れてない。触れずに、出入りだけを止める。文句のつけようがないんだ。無い土地の道が消されても、誰も損をしてないことになってるから」
ステラが板を覗き込んで、短く息を吐いた。
「――名指しされてる」
「え?」
「裏。もう一枚貼ってある」
板の裏に、小さい紙がもう一枚あった。ラントの商人組合宛ての写しだ。荷を扱ってはならない相手の名が並んでいて、その三番目に、ステラの商標があった。
「あたし、四人目くらいだよ、こんな紙に載るの」
軽い口調だったが、指先が板の縁を強く掴んでいた。
「取引先、全部か」
「全部。粉屋も、仲買も、麻布の店も。あたしと商売したら、その店ごと同じ紙に載る」
ステラは板から手を離した。
「上手いね、ほんと。誰も脅してないもん。ただ『載せる』って言ってるだけ」
***
その日の午後から、盆地は静かに干上がり始めた。
最初に来なくなったのは行商だった。
街道が通じてから、ラントの小さな行商が三組ほど、月に何度か盆地に入るようになっていた。塩を積んでくるわけではない。針、糸、油、薬草、子ども用の履き物。買っても銀貨一枚二枚の荷だ。
その三組が、揃って来なくなった。
二日目に、ステラが馬でラントへ出た。四日目に帰ってきて、荷台は空だった。
「門は通れた」
彼女は荷台に腰かけて言った。
「関の役人は普通だった。あたしを止めもしない。市場も普通に開いてる。……ただ、店に入ると、みんな急に忙しくなるの」
「断られたのか」
「断られてもない。誰も『駄目だ』って言わない。ただ、奥から出てこないだけ」
ステラは足をぶらぶらさせて、笑おうとして、やめた。
「粉屋の親父なんてさ、あたしがこの秋、麦を七枚で買い叩かれた相手だよ。あの人、あたしに一枚も損させたことないの。今日も損させなかった。裏口から出てけって、それだけ言った」
盆地は、麦は作れる。水も出る。塩なら白原にいくらでもある。
だが、鍬の刃を打ち直す鉄は作れない。冬に子どもが熱を出したときの薬草は、この土地には生えていない。
誰も殴りに来ない。誰も火を放たない。ただ、二十日もすれば、鍬の刃が丸くなる。
夜、集会小屋に人が集まった。
四十二人が全員入ると、小屋はもういっぱいだった。秋のはじめは十七人で、広すぎた小屋だった。
「領主さま」
ダンが口を開いた。
「怒らねえの」
皆が同じことを思っていたのだと分かる。
俺は少し考えてから答えた。
「怒ってはいる」
「そうは見えねえよ」
「今、頭が別のことをやってるからだ」
俺は膝の上で指を折った。
「あの紙を書いた人間の手順を、たぶん俺は全部知ってる。俺も昔、あれを書く側にいた」
ダンが黙った。
「あの手順は、こうだ。まず指定を打ち直す。次に街道を台帳から消す。それから商人組合に写しを回す。全部で三枚。書くのに半日、判が揃うのに三日。兵は一人も動かない」
「……そんな簡単なのか」
「簡単だ。だから一番効く」
俺は正直に言った。ここで格好をつけても、明日の鍬は戻らない。
「剣で来られたら、ガルドが戦う。相手が悪ければ逃げる。どっちにしても、こっちにやることがある。紙で来られると、やることが無い。無いように書いてあるんだ」
ヨナが、前のほうで小さく頷いた。
「わしは、それを二十年やられとったよ」
老人の声は、責めていなかった。
「窓が開かんのじゃ。怒鳴っても、窓が開かん。開かんから、怒鳴るのもやめる。……そのうち、自分が悪いような気がしてくる」
小屋が黙った。
俺は立ち上がって、皆の顔を順に見た。
「言っておく。誰も悪くない」
それから、こう続けた。
「そして、これは腹いせじゃない。あの人は俺たちを憎んでこれをやってない。この盆地から麦が出た記録が残ると、二十年ぶんの帳面を全部やり直す羽目になる。それを止めたいだけだ」
「……嫌な言い方すんね」
ステラが言った。
「相手を分かっちゃってるって顔してる」
「分かるよ。同じ仕事をしてたからな」
俺は言った。
「だから、あの手順の弱点も分かる」
***
小屋を出て、俺は一人で街道の入口まで歩いた。
杭は月明かりの中で白かった。板の紙が、風でわずかに鳴っている。
目を閉じて、意識を土へ落とした。視界の隅に、いつもの光の枠が浮かぶ。
《旧セルヴァ街道:通行可(路面・橋梁ともに損傷なし)》
――通行可。
俺は目を開けて、二本の杭を見た。
土地は、何一つ変わっていない。締めた路盤はそのままだ。水路の水は今も流れている。堰は生きている。紙は、道の土を一掬いも動かしていない。
それでも、明日から誰もここを通らない。
道を殺すのに、道は要らない。人が「あそこへ行っても意味がない」と思えば、それで道は死ぬ。この盆地はそうやって地図から消された。
同じ手が、二度目も来た。
俺は横木に手をかけた。引けば抜ける杭だ。抜いて、燃やして、街道を歩いて、ラントで買い物をすることはできる。誰も止めない。止めるための兵は来ていない。
――そして、荷を運んだ相手の店が、明日には潰れる。
俺は手を離した。
白原の向こうに、石村の灯りが四十二人ぶん灯っていた。秋のはじめは、あれが十七だった。
増えた二十五人は、噂を聞いて戻ってきた人たちだ。ここでなら食えると聞いて、荷物をまとめて帰ってきた。俺が呼んだのではない。麦が呼んだ。
その麦を、今は外へ出せない。
風が吹いて、板の紙がぱたぱたと鳴った。
誰も来ない。誰も帰らない。盆地は、二十年ぶりに開いた口を、たった三枚の紙で閉じられた。
お読みいただきありがとうございます。
殴られたなら殴り返せますが、名簿に載せられただけの相手には、殴りに行く場所がありません。今回のアルトが怒りきれないのは、その手順を書く側に自分がいたからでもあります。
一つだけ、お聞きしてみたいことがあります。あなたが盆地の住民だったとして、あの杭を抜きますか。抜かずにいられますか。
次回、盆地は外を諦めます。買えないものは、中で作るしかありません。




