第60話:影は、今日は問わない
朝、街道に轍が四本ついていた。
昨日は二本だった。荷車の数が増えている。土の道は雨が降れば泥になるが、今のところ空は乾いている。
「行ってくる」
ステラが馬の腹帯を締めながら言った。
「ラントで捌ききれない分を、もっと西へ流す。宿場を三つ越えれば、値のつき方が変わるから」
「西のどこまで行く」
「言わない。あんた、行き先を聞くと心配するから」
「心配はする」
「するな、とは言ってないよ」
ステラは笑って、荷車の列を先導していった。
東へ向かう荷が四台。空の樽が三つ。二十年前まではこの道を毎日、麦の車が通っていたのだと、ヨナが言っていた。
俺は轍を見送って、それから二枚目の畑へ回った。水口の板が一枚、水圧に負けて反っていた。
直せる不具合というのは、いいものだ。原因が見えて、手順が決まっていて、直せば終わる。
板を外して削り直していると、ダンが土手の上から声をかけてきた。三枚目の畑の畦が崩れたという。俺は水口の板を嵌めて、そちらへ歩いた。
その日の仕事は、それで終わりだった。盆地に来てから、いちばん静かな一日だった。
こういう日は、たいてい何かが来る。ルーナ領で覚えたことのひとつだ。
***
その夜、ガルドが焚き火から立ち上がった。
立ち上がっただけで、剣は抜かなかった。抜けないと分かっている相手のときの動き方だ。
「客だ、領主さま」
俺は火の向こうを見た。
白原の縁、月と影の境目に、男が一人立っていた。
黒い外套。輪郭が夜に溶けている。近づいてくる足音が、地面を鳴らさなかった。
「ゾルガ・ブライト」
俺は名前を呼んだ。
「久しぶりだな、アルト・フェーン」
黒翼戦団の長は、火の手前で足を止めた。ミリアが立ち上がろうとしたのを、俺は手で制した。
最後に会ったのは、ルーナ領の丘の上だ。あのとき、この男は王都軍と睨み合ったまま退いた。掌を返して味方になるでもなく、追い討ちをかけるでもなく、ただ引いた。
「どうやってここが分かった」
「消された土地に麦が実れば、影のほうが先に気づく。役所より鼻が利くんでな」
「戦団を連れてきたか」
「俺一人だ」
ゾルガは焚き火の光の届く縁に腰を下ろした。膝に肘を置いて、盆地の夜を眺める格好になった。
その姿勢は、戦いに来た男のものではなかった。
「水路を通したな」
「ああ」
「街道もか」
「石はまだ敷けてない」
「大したもんだ」
彼はそれきり黙って、水路の音を聞いていた。
ガルドがちらりと俺を見る。俺は首を横に振った。
「――で」
俺のほうから切り出した。
「あんた、次に会うときは選択を迫ると言ってたな」
「言った」
「今日か」
「いいや」
ゾルガは即答した。
「今日は問わない」
焚き火が爆ぜた。ミリアが小さく息を吐いたのが、隣で分かった。
「なぜだ」
「土を直してる最中の男に問うても、答えが変わらんからだ」
彼はようやくこちらを向いた。
「今のお前に『どちらにつくか』と聞けば、お前は『畑の水口が反ってるから後にしてくれ』と言うだろう。それは答えじゃない。だが嘘でもない。嘘でない答えを潰して聞き出すほど、俺は急いでいない」
「……随分な言われようだな」
「褒めてる」
ゾルガは低く笑った。
「二十年放っておかれた土地に手を突っ込んで、六十日で数字を出した男に、思想を聞いても仕方がない。お前は今、王都の側にも俺たちの側にもいない。土の側にいる」
俺は答えなかった。
否定する言葉が、一つも浮かばなかったからだ。
王都に捨てられた男が王都の側に立てるはずもなく、かといって影の連中と組んで何かを壊したいわけでもない。俺がこの半年で本気になったのは、塩の抜けた土と、走り出した水だけだ。
それが立場と呼べるものなのかは、まだ分からない。
***
ミリアが、湯を沸かして椀を出した。
ゾルガは礼を言って受け取り、一口飲んで、それからミリアを見た。
「光が濃くなったな、巫女」
「……そう、でしょうか」
「戦えるようになったかは知らん。だが、濃い」
彼は椀を火に近づけた。
「アルト・フェーン。俺は前に、巫女を鍛えろと言った」
「言われた。意味は分からないままだ」
「今日はそれを一つだけ置いていく」
ゾルガは白原を指した。まだらに黒く戻り始めた、夜の土だ。
「なぜお前の土地で、この娘の光が効く。傷を癒す力が、なぜ土に効く。おかしいと思わなかったか」
「思った」
実際、何度も思った。ミリアの癒光は人のためのものだ。それが一の畑では、土の中の生き物を戻し、水の中に何かを増やした。
「《創造領主》と《光の巫女》は、対だ」
ゾルガは言った。
「片方が土地を作り、片方がそこに生きるものを照らす。二つで一つの仕事だと、俺の一族には伝わっている。だからお前の力は土を作れても、作った土を生かせない」
「……だから、鍛えろと」
「そういうことだ。剣を持たせろとは言ってない」
ミリアが、自分の掌を見下ろしていた。
「わたしの光は」
彼女は言った。
「アルトさまの土地でだけ、よく効きます。ずっと不思議でした」
「不思議じゃない。仕事の分担だ」
ゾルガは椀を置いた。
俺は少し考えてから、聞いた。
「あの白い仮面のことも、あんたは知ってるのか」
男の目が、わずかに動いた。
「知らん」
「一つも?」
「あれが何者で、何をしに来たのか、俺は知らん。分かっているのは、あれがお前を迎えに来たと言って、それでも連れて行かなかったということだけだ」
ゾルガは肩をすくめた。
「その理由を知っているなら、俺は今ごろこんな辺境の焚き火に座っていない」
嘘には聞こえなかった。
この男は分からないことを分からないと言う。それは、俺が最近になってようやくできるようになったことだ。
焚き火が一段低くなった。ミリアが枝を足す。火の粉が上がって、白原の暗がりに吸い込まれていった。
ゾルガは立ち上がった。
「長居はしない」
「もう行くのか」
「王都が動き始めた。お前の麦が市場に出たせいだ」
彼は外套の襟を直した。
「言っておく。次に来る奴は、剣を持っていない。紙を持っている。俺の見立てでは、そっちのほうが厄介だ」
「忠告か」
「土産だ。湯の礼にしては安いがな」
ゾルガは白原のほうへ二歩下がって、そこで足を止めた。
「アルト・フェーン。いつかは問う。だが、今日ではない」
「……ああ」
「畑を、増やしておけ」
それだけ言って、彼は影に戻っていった。
足音は最後まで鳴らなかった。
ガルドが盛大に息を吐いて、腰を下ろした。
「なんだったんだ、あれは」
「様子を見に来たんだろ」
「見に来て、湯だけ飲んで帰ったのか」
「畑を増やせと言われた」
「じゃあ増やすしかねえな」
ガルドは酒を注ぎ足した。この男の結論はいつも早い。
***
ステラが戻ってきたのは、二日後の昼だった。
馬から降りるなり、彼女は水も飲まずに言った。
「領主さま。西の宿場で、麦の値が動いてる」
「上がったのか」
「下がった」
ステラは指を二本立てた。
「二割。この時期に下がる年じゃないんだよ。誰も彼も、輸入の船待ちで値を吊り上げる季節なんだから」
麦の値が下がるということは、市場に麦が余っているということだ。王都で、俺は毎月その表を見ていた。値は嘘をつかない。人の口より正直に、物の量を写す。
俺は轍のついた街道を振り返った。
四台の荷車が出しただけの麦だ。盆地の外へ出た量など、王都から見れば塵に等しい。
それでも、値は動いた。
「王都は」
俺は聞いた。
「王都の値は、どうなってる」
「まだ動いてない」
ステラは、そこで初めて声を落とした。
「――でも、動くよ。あれは動く」
お読みいただきありがとうございます。
「選択を迫る」と予告した相手が、迫らずに帰る回でした。人に何かを問うには、その人が問いを受け取れる場所に立っている必要があります。今日のアルトは、水口の板が反っている側の人間でした。
答えを先延ばしにするのは、逃げではなく段取りのこともある――今回の話が置いていったのは、たぶんそういう問いです。
次回、盆地から遠く離れた王都で、一人の男が机の上の数字を見ています。彼は二十年前、この土地を消すと決めた人です。




