第59話:この盆地は、一度誰かに「作られている」
水を流して七日。白原の縁に、細い草が出た。
塩に灼けた土からいちばん先に生えてくるのは、麦ではなく雑草だ。それでいい。草が根を張れば、土は水を抱えるようになる。
俺は朝から水路の点検をしていた。ダンが先を歩き、ヨナが後ろから遅れてついてくる。
「詰まりは三か所」
ダンが竹の棒で溝を突きながら言った。
「どれも新しく掘ったほうだ。古いほうは詰まってねえ」
「勾配が違うからな」
「あんたのより、古いほうが上手いってことか」
「そうだ」
ダンが振り返った。俺があっさり認めたのが不服らしい。
「素直だな、領主さま」
「見りゃ分かることに意地を張る趣味はない」
俺は石組みの継ぎ目にしゃがみ込んだ。
この七日、ずっと気になっていた。石と石の間に、鑿の跡がない。
石を切って積むなら、必ず刃の痕が残る。合わせ目を削って調整するからだ。ところがこの石は、最初から隣の石の形に合わせて生まれてきたように見える。
(レムナント。この石、どう思う)
俺は内側へ問いかけた。
しばらくして、静かな声が返ってきた。
(水を通す造りとしては、正しいものです。あなたが昨日直した箇所より、素直です)
レムナントの声はいつもこうだ。丁寧で、少しだけ人を食っている。
(褒めてないだろ、それ)
(褒めています)
俺は継ぎ目を指の腹でなぞった。
石は、この盆地の石ではない。縁の山から出るのは脆い砂岩で、こんなふうに角が立たない。どこから運んだのかと聞かれても、答えを持っていなかった。
「ダン。この石、どこの山のか分かるか」
「知らねえ」
彼はしゃがんで、同じ場所を覗き込んだ。
「けど、俺が子どものころにはもうあった。ってのは、答えになってねえな」
「十分だ」
俺は溝の底を這うようにして、水路の走る先を目で追った。
北へ、北へ。二十年前の地図にも載っていない、もっと古い骨格が、白原の下に埋まっている。
***
その晩、石村の集会小屋で火を囲んだ。
外は冷える。晩秋の盆地は昼と夜の差が大きい。ステラが東から仕入れてきた干し魚を炙って、ガルドが酒の壺を抱え込んでいた。
「ヨナさん」
俺は切り出した。
「この盆地の水路は、いつ組まれたものだ」
「さあの」
老人は火を見たまま言った。
「わしの師匠も知らんかった。師匠の師匠も知らんかったそうじゃ」
「二百年前か。三百年か」
「そういう数え方が、そもそも合わん」
ヨナは炭を一つ、火の中へ寄せた。
「土地の言い伝えではの。この盆地は――はじめから畑じゃった」
「はじめから?」
「山を崩して田を拓いた、という話が無い。木を焼いた話も、沼を埋めた話も無い。人がここへ来たときにはもう、畑と水路があったと」
小屋の中が、ぱちりと鳴った。薪だ。
「開拓の伝説が無いってこと?」
ステラが干し魚を齧りながら言った。
「珍しいね。どこの土地にも一個はあるじゃん、最初にここを拓いた偉い人の話」
「無い」
ヨナは言い切った。
「碑も無い。祠も無い。祭りもの。うちの村は、水路の掃除始めの日に酒を飲むだけじゃ。誰に供えるとも決まっとらん」
俺は黙って聞いていた。
土地というのは、誰かが名前を刻みたがるものだ。井戸を一つ掘っても、掘った男の名が石に残る。俺はルーナ領でそれを何度も見た。
この盆地には、それが無い。
「作った奴が、名前を残さなかったってことか」
「わしは、こう聞いた」
ヨナが顔を上げた。
「――この盆地は、一度誰かに作られとる、と」
火が小さく爆ぜた。
「誰かって、誰だよ」
ダンが壁際から言う。ヨナは首を振った。
「それだけじゃ。名は付いとらん。付いとらんから、伝わったんじゃろな」
「なんでだよ」
「名のある話は、代が変われば書き換えられる。名の無い話は、書き換えようが無い」
「じいさん、それ本気で信じてんのか」
ダンが火の反対側から言った。茶化す口ぶりではなかった。
「爺さんの与太話だと思うとった。ここ七日までは」
ヨナが竹の棒で、土間に線を引いた。
「新しい水路が、古い水路の上にそのまま乗った。領主さまが引いた線と、昔の線が重なった。……重なるもんかね、普通」
「重なるだろ。同じ土地なんだから」
「わしは五十年、水を見てきた」
老人は線を消した。
「同じ土地でも、人が変われば線は変わる。水は同じところを流れたがるが、人は同じところを掘りたがらん」
俺は掌の中の椀を見た。
名前を残さないほど古いのか。それとも、残せなかったのか。どちらでも話は変わってくる。
――千年で三名。
不意に、その言葉が浮かんだ。
ゾルガが言っていた。この力の適合者は千年で三名しかいなくて、その三人とも王都に処断された、と。
俺は二人目でも三人目でもない、と自分に言い聞かせたことがある。だが今日、俺は自分の癖と同じ癖で組まれた石組みに触れている。
(レムナント)
俺は内側へ問いかけた。
(この盆地を作った奴を、あんたは知ってるか)
返事は無かった。
(レムナント)
薪が鳴る。ステラがガルドに酒の量を注意している。ミリアが子どもの椀に汁を足している。
その全部が、やけに遠く聞こえた。
レムナントは、答えなかった。
この声は、俺が黙れと言っても喋る。答えを持っていないときは「分かりません」と言う。都合が悪いときは「まだ伏せる必要があります」と言う。
沈黙は、初めてだった。
俺はもう一度呼ばなかった。呼べば答えるものだと思っていたことのほうが、たぶん間違いだったからだ。
分からないことは、分からないままにしておく。それでこの半年、だいたいうまくやってきた。
ただ、今度のは少し違う。分からないのではなく、答えを持っている誰かが黙っている。
***
「アルトさま?」
ミリアが横に座った。
「顔が、遠くにありました」
「……ああ、すまん」
俺は椀を置いた。誤魔化す言葉が出てこなかったので、そのまま黙っていた。
ヨナが、ふとミリアを見た。
「ミリアさんは、どこの家の娘さんじゃ」
場の空気が、少しだけ緩んだ。老人の世間話の顔だった。
「家の名は、ありません」
ミリアは、いつもの声で答えた。
「光の民は、氏族名を持たないんです」
「ほう。捨てたんかの」
「はじめから持たないんです。血で継ぐものは名前ではないから、と伝わっています」
「ふうん」
ヨナは、それ以上聞かなかった。
ステラが「へえ」と言って干し魚を齧り、ガルドが「じゃあ婚礼のときはどうすんだ」と余計なことを言って、ミリアが「そういう話は、また今度です」と静かに切り捨てた。
それで終わった。
名前を持たない一族と、名前を残さなかった土地が、同じ晩に同じ小屋にいる。
俺はそのことを、しばらく考えていた。
***
夜半、俺は水を飲みに外へ出た。
空は晴れていた。冷えた空気の底を、水路の音が低く這っている。
白原はもう真っ白ではない。月の下で、まだらに黒い。土が戻ってきている場所が黒く見えるのだ。
視界の隅に、光の枠が浮かんだ。
《北古水路:構造年代 測定不能》
俺は目を細めた。
この枠は、塩分濃度も地脈の断裂も年数まで出した。出せないものがあるとは思っていなかった。
測れないほど古いのか。それとも、測るための物差しの外にあるのか。
どちらにしても、俺の手には余る。俺は明日、二枚目の畑の水口を直さなければならない。
――風が止んだ。
俺は動きを止めた。
水路の音がそのまま流れているのに、空気だけが動かなくなった。ルーナ領で一度、これと同じ感じ方をしたことがある。
夜の白原を、俺は見渡した。
誰もいない。何も見えない。
ただ、盆地の東の縁に、月の光を吸い込む黒がひとつ、じっと立っているような気がした。
お読みいただきありがとうございます。
今回は用水守の話を少しだけ。ヨナのような職には、たいてい「掃除始めの日」があります。水路の泥を上げる共同作業の初日で、これが実質的にその土地の新年です。誰に供えるとも決まっていない祭りが残っている村は、案外どこにでもあります。
ちなみに水路の勾配というのは、土地の性格そのものです。地形が同じなら答えも似るはずなのですが――アルトが引っかかっているのは、そこではありません。
次回、盆地に客が来ます。役所の人間ではありません。




