第58話:盆地が、外と繋がる日
朝の白原には、はっきりと境目ができていた。
塩の白と、湿った土の色。その線が、六十日前より半里ほど北へ退いている。
六十日。カセルが置いていった期限が、今日で切れる。
「領主さま。締めたぞ」
ヨナが集会小屋の戸を押して入ってきた。帳面を抱えている。徹夜明けの顔だ。
「全部か」
「全部じゃ。一の畑から東へ順に、畝を切って種を落とした畑を、一枚ずつ。ダンが二度数え直した」
俺は帳面を受け取って、最後の一枚を開いた。
枚数が縦に並び、いちばん下に合計が書いてある。ヨナの字は驚くほど整っている。用水守は帳面をつける仕事でもある。
百二十枚。播き終えた畑の数だ。
「一枚が、二十石」
俺は指で数字を追った。一の畑の五反で二十石。俺の言い分ではなく、ラントの市の帳面に載った値だ。
「……二千四百」
「四百、余っとる」
ステラが横から覗き込んで、指を折った。
「要件は二千でしょ。見込みで四百石ぶん余分にある。四百石って荷車で何台だと思う? あたしは知ってるけど」
「知ってるなら聞くな」
「言いたいだけだよ」
軽口を叩いてはいるが、目の下は黒い。この十日、彼女は東の買い手を押さえるために走り通しだった。まだ穂も出ていない麦の、買い手をだ。
ガルドが戸口の柱にもたれて腕を組む。
「で、その帳面をどこへ持ってく」
「ラントだ」
俺は紙を一枚、手前に引き寄せた。
「東部監督府へ届けを出す。作付百二十枚と、一枚あたりの実測。それに水路の敷設の計画。六十日の答えだ」
「まだ一粒も穫れてねえぞ」
「穫れとは書いてない」
条文の一行を、俺はもう暗記していた。続けて見込めること。
「畑が百二十枚あって、一枚から二十石穫れることが外の帳面で分かってる。役所の言葉に直せば、それが見込みだ」
「あの男、もういねえだろ」
「宛名は人じゃない。役所だ」
役所は人が替わっても紙を受け取る。この盆地を消したのも、人ではなく紙だった。
ヨナが、じっと俺の手元を見ていた。
「……そいつは、受け取ってもらえるんかの」
「今度は数字がついてる」
俺は筆を置いて言った。
「無い土地からは取らん、と言った役所が、二千四百石を無いことにはできない」
***
届けを出したあとで、俺たちはセルヴァ堰に登った。
堰はまだ半分崩れたままだ。ただ、取水口の一つは生きている。ダンと若い連中が三十日かけて土砂を掻き出した。
俺は堰の上から盆地を見下ろした。
白原の北に、四角い浅緑の集まりがあった。
一の畑を起点に、東へ、北へ、青田が段になって並んでいる。数えて百二十枚。穂はまだ無い。金色になるのは三月先だ。俺がLEを注いで一から起こしたのは、そのうちの三枚だけだ。
残りは、掘り起こしたものだった。
名前を得たあの朝、光の線が示した昔の区画。かつて麦を作っていた土地の骨組みは、そのまま地面の下に残っていた。北古水路から水が届いて塩が薄れれば、あとは畝を切って種を落とせばいい。それを四十二人が三十日でやった。石村から出てきた者と、噂を聞いて戻ってきた者が。
畑と畑をつなぐ導管が、糸のように白の上を走っている。細い。一枚に一本ずつ、俺が手で引いた線だ。
糸のままなら、ここは畑の集まりでしかない。
(面にする)
俺は掌を開いた。
《領域具現化》
視界の隅で光の枠が開き、盆地の地形が線になって立ち上がった。ルーナ領で川を呼んだときと同じ感覚だ。ただし、広さがまるで違う。
地下真水脈の深さを頭の中で押さえ、そこから水を上げる道筋を探す。
探すまでもなかった。答えはもう地面に描いてある。
「ヨナさん」
「なんじゃ」
「あんたの水路を、骨に使う」
老人が瞬きをした。
「骨?」
「新しい水路は、北古水路の線の上に組む。あれが盆地でいちばん正しい勾配だ。俺が引き直すより、あれに合わせたほうが水が素直に走る」
ヨナは、何も言わなかった。
言わないまま、堰の縁を掴んだ手に、力が入っていた。
俺は意識を土へ落とした。
地面が鳴った。
北古水路の底が沈み、幅が広がる。そこから枝が伸びる。枝からまた枝が伸びる。白原の下を、水の通り道が根のように広がっていった。
そして、堰の取水口から水が落ちた。
最初は濁っていた。砂を噛んで、茶色く泡立って、ごぼごぼと不格好な音を立てて流れ落ちた。
それが、白原を横切っていく。
誰かが叫んだ。石村の方から人が走り出てくるのが見えた。子どもたちが水の先端と競走して、途中で転んで、笑い声だけがここまで届いた。
名前を得たあの朝に見えた光の網が、今日は水になっている。
――いや。
俺は言い直した。あの朝に見えたのは、かつて誰かが水を通していた線だ。俺はそれを、なぞっただけだ。
ヨナが堰の縁で膝をついた。
俺は手を貸そうとして、やめた。転んだのではない。水の落ちる音を、低いところで聞こうとしているのだと分かったからだ。
「わしは」
老人の声が掠れた。
「はじめの十年は、直せると思うて掃除しとった。次の十年は……直らんと知って掃除しとった」
「知ってた」
「わしの二十年は、ただの意地じゃ。土地の役には立っとらん」
「立ってる」
俺は水路の走る先を指した。
「あの線が無ければ、俺は今日、勾配をゼロから測っていた。三十日はかかる。あんたの二十年が、三十日ぶんじゃないと言うつもりもないが」
ヨナが笑った。声を立てずに、顔だけで笑った。
「……三十日か」
「あんたが掃除した溝を、水が今日そのまま通ってる。それだけの話だ」
ミリアが少し離れた岸辺にしゃがんで、掌を水に浸していた。淡い光が水面に散って、下流へ流れていく。
「アルトさま。水、生きてます」
「生き物が入ってるのか」
「まだ少しです。でも、いなくはないです」
彼女の光は、この土地に来てから土と水にばかり使われている。癒すべき人間より、癒すべき地面のほうが多い盆地だ。
《領地レベルが2に上昇しました》
《領民:42》
《現在のLE:118》
朝には四桁あった。半日で三桁だ。街道に石を敷く分は、もう残っていない。
「四十二」
ステラが数字を読んで、口笛を吹いた。
「増えてるじゃん」
「戻ってきてる」
ヨナが目を細めた。
「南の宿場に流れとった連中じゃ。麦が穫れたと聞いて、様子を見に来て、そのまま小屋を建て始めた」
十七人だった。
***
街道は、その日の夕方に通した。
旧セルヴァ街道。盆地を東西に貫いて、誰も歩かなかった道だ。砂に埋もれた路盤を掘り起こし、土を締め、崩れた法面を組み直す。石は敷けなかった。
「土だけか」
ガルドが足で地面を蹴った。
「雨が降ったら泥だぞ」
「泥でも、荷車は通る」
俺は東を指した。
「石は来年だ。今年は通ることのほうが要る」
そこへ、東から荷車が来た。
ステラが手配した三台だ。積んでいるのは塩と鉄。御者は東の宿場で雇った男たちで、盆地に入るのを最後まで渋ったらしい。
その三台が、白原のまんなかを走ってくる。
水路の脇を、車輪が土を鳴らして通り過ぎていく。走っている水と、走っている荷車が、同じ景色の中にあった。
住民が道の両側に立って、それを見ていた。
誰も声を上げなかった。ただ、見ていた。
この土地に外から入ってきたのは、査察の役人だけだ。
「……なあ」
隣でダンが言った。
「あれ、明日も来るのか」
「来る。春には、麦を積みに」
「毎日か」
「毎日じゃない。だが、道がある限り来る」
ダンは黙って、荷車の車輪を目で追っていた。それから、ぼそりと言った。
「――領主さま」
俺は横を見た。
この男は、俺をずっと「あんた」と呼んでいた。麦が実ってからは「領主」だった。さま、は付いていなかった。
ダンは俺を見なかった。荷車を見たままだった。
「なんでもねえ。呼んだだけだ」
「ああ」
「……道、俺が見張る。夜も」
それだけ言って、彼は先へ歩いていった。
ガルドが低く笑った。
「若いのは面倒くせえな」
「お互いさまだろ」
「俺は最初から領主さまで通してるぜ」
***
夜、俺は一人で北古水路まで下りた。
水が流れている。昼間の濁りは落ちて、月の光を跳ね返していた。
俺は石組みに手を置いた。
継ぎ目に指を這わせる。石と石の間に、ほとんど隙間がない。長く埋まっていたとは思えないほど、面が揃っている。
今日、俺は自分の手でこの上に新しい水路を組んだ。だから分かってしまった。
勾配の変え方。曲がる場所の癖。水を分けるときの角度の取り方。
俺が引いた線と、この石組みの線が――同じだ。
似ている、ではない。同じ癖だった。
俺は手を離して、水の流れる先を目で追った。
これを組んだのは、二十年前の用水守ではない。もっと古い。ヨナの祖父の代より、たぶんずっと古い。
(誰が、引いた)
水は答えず、ただ北へ走っていった。
お読みいただきありがとうございます。
第2部を始めるときに決めていたのが、「第1部と同じ気持ちよさを、村ではなく面の広さでもう一度やる」でした。井戸ではなく水路網、畑一枚ではなく盆地一帯、そして道。第47話で光の網だけが見えた場所に、今回ようやく本物の水を流せました。
石を敷けなかったのはLEが尽きたからで、ここは削らずに残しました。全部できてしまうと、来年の楽しみが無くなるので。
そして最後の水路の石組みですが、アルトはまだ何も分かっていません。次回、いちばん古いことを知っている人が、いちばん短く教えてくれます。
ブックマークと評価は、旧セルヴァ街道に敷く石の代金に充てさせていただきます。来年には石畳にしたいので、どうかよろしくお願いします。




