第57話:帰ってきた二十五人
白原の境目は、昨日よりまた少しだけ北へ退いていた。
朝、俺は集会小屋の壁の前に立っていた。ヨナが毎晩書き足している作付の一覧が貼ってある。畑一枚ごとに、畝を切った日と種を落とした日が並んでいる。
いちばん下の数を見た。
四十八枚。
カセルの置いていった期限までは、まだ三十二日ある。だが播き終える締切はそこではない。麦は落とした日から数えるから、遅れた種は遅れて実る。
「六日じゃ」
ヨナが後ろから言った。
「六日で、七十二枚か」
「一日十二枚。ヨナさん、今の手で何枚いける」
「三枚。よくて四枚じゃ」
老人は言い訳をしなかった。数える人間は言い訳をしない。
十七人。そのうち鍬を持てるのは十人に満たない。三枚が精一杯だ。
「足りん」
「足りない」
俺は認めた。認めたところで何も減らないが、増えもしない。
その日の昼過ぎ、白原の東に土埃が上がった。
***
旧セルヴァ街道の跡を、人の列が歩いてくる。
駄馬が二頭。荷は少ない。鍋を背負った女がいて、柄の折れた鍬を担いだ男がいて、子どもが三人、大人の手にぶら下がるようにして歩いていた。
先頭にダンがいた。
石村の者が外へ出てきて、道の脇に並んだ。誰も声を上げなかった。ただ、数えていた。
ダンは俺の前まで来て、足を止めた。頬がこけて、唇が割れている。
「二十五人」
それだけ言った。
「一つの村だけだと言ってたな」
「行ったら、もういなかった。半分は南の宿場に流れてた。そっちまで回った」
「何日歩いた」
「知らねえ。領主、水」
俺が答える前に、ミリアが桶を持って走ってきた。
ダンは桶を受け取って、まず後ろの子どもに回した。自分が飲んだのは最後だった。
ヨナが、杖をついて列の前に出た。
老人は、いちばん前の白髪の女を見た。女も、ヨナを見た。
「……ヨナか」
「わしじゃ」
「まだ、おったんか」
「おった」
それきり、二人とも黙った。抱き合いもしなかったし、手も握らなかった。
列の中ほどから、痩せた男が出てきて、ダンの顔をしげしげと覗き込んだ。
「お前、あいつの倅か」
「そうだ」
「似とらんな」
「よく言われる」
男は笑おうとして、うまくいかなかった。
俺の横で、畑を見ている老女が、鍬の柄を握り直す音がした。
「よう帰ってきたな」
声は低かった。
「あんたら、どこにおった」
列が止まった。
「宿場で、馬の世話をしとった」
痩せた男が言った。
「そうか。うちらはここで水を掘っとった。井戸が二つ潰れて、掘り直して、また潰れて」
「……知らん」
「知らんじゃろ。行ってしもうたんじゃから」
誰も止めなかった。ヨナも、俺もだ。
止めていい場面ではないと思った。ここで俺が何か上手いことを言えば、この人たちの言い分は俺のものになる。それは、俺が引き受けていい荷物ではない。
俺は代わりに、帳面を開いた。
「話は、播き終えてからにしてくれ」
全員がこちらを見た。
「六日で七十二枚播く。手が四十二あれば届く。今日、二十五人が来た。だから届く」
「四十二」
ステラが指を折って、口の中で数を確かめた。
「――ちょっと。それ、今日の朝までは無かった数字でしょ」
「無かった」
「無かったんかい」
小さく笑い声が起きた。誰の声か分からない笑い方だった。
老女は口を曲げたまま、鍬を担ぎ直して畑のほうへ歩き出した。すれ違いざま、痩せた男に一言だけ言った。
「鍬、そんな柄じゃ折れる。替えがある」
男は返事をしなかった。だが、そのあと集会小屋の裏へ柄を取りに行った。
***
畝切りは、その日の夕方から始まった。
白原に光の線が走っている。名前を得たあの朝に浮かび上がった、古い区画の境だ。麦を作っていた頃の畑の形が、そのまま地面に残っている。
水が届いて塩が薄れた場所から順に、線の色が変わっていく。俺はその変わった区画だけを選んで、掌を置いた。
《現在のLE:640》
土が、音もなく緩んだ。
石が沈み、根が浮き、固まっていた表面が指で崩れるほどになる。麦を出すより、土を寝かせるほうが安い。一の畑を作った日に覚えた、いちばん割のいい使い方だ。
その上に、四十二人が並んだ。
「線に沿って切れ」
俺は声を張った。
「曲がってていい。真っ直ぐの畑を作るより、昔の形に戻すほうが水が素直に走る」
鍬が入る。緩んだ土は、驚くほど軽く割れた。
「――こら、楽じゃ」
誰かが言った。
「楽と言うな。腰にくる」
別の誰かが言い返して、また笑いが起きた。
帰ってきた女の一人が、途中で手を止めて、足元の光の線を見ていた。
「ここ」
彼女は屈んで、境の上を掌でなぞった。
「うちの畑じゃ。ここに桑の木があった」
「切り株が残っとる」
老女が、少し離れた場所から言った。
「掘り起こすのが大変じゃった。あんたの家の木じゃったんか」
「……そうじゃ」
「早う言え」
それだけだった。二人はそれきり別の畝に散った。
俺は口を出さないでいた。
水番の組を決めたのはヨナだった。老人は帳面に名前を書きながら、残っていた者と帰ってきた者を、一人ずつ交互に並べていった。
「わざとか」
「わざとじゃ」
ヨナは筆を止めずに言った。
「水の順を間違えると、下の畑が枯れる。枯らした相手とは、口をきかんわけにいかん」
二人一組で、水路の堰板を上げ下げする。上の組が板を落とさなければ、下の組の畝に水は来ない。仲が良かろうが悪かろうが、待つ側は上を見ているしかない。
「意地の悪い爺さんだな」
「二十年、水を配ってきた爺じゃ」
ミリアが、水路の下流から順に光を落としていく。土が起きて、水を吸う。この娘は頼まれた順番を必ず守る。ガルドは泥のいちばん重いところを一人でさらっていた。
ステラは種籾の袋を数えながら走り回っていた。
「アルト。百二十枚ぶんは無いよ」
「あと何枚足りない」
「十一枚。峠の行商が明後日に来る。来なかったら、そこで止まる」
「来る前提で播け」
「あんた、たまに怖いこと言うね」
ステラは肩をすくめて、また走っていった。
夜になっても、畝の音は止まらなかった。松明を立て、交代で眠り、また出た。
四日目に、俺は数えるのをやめさせられた。壁の一覧の前で頁を繰っていたら、ヨナに筆を取り上げられたのだ。
「領主さまが数えても、一枚も増えん」
「増えないな」
「寝ろ。土を寝かせるのが上手い男が、自分は寝んのか」
言い返せなかった。
残っていた者と、帰ってきた者は、同じ畝の端と端で働いていた。口はきかなかった。だが、水桶は端から端へ回っていた。
***
六日目の夕方だった。
種籾は間に合った。行商は一日遅れて来て、駄馬の背から袋を下ろしながら「峠が凍り始めとる」と言って帰っていった。
最後の一枚は、白原のいちばん北の区画だった。塩の縁にいちばん近い。ここまで水が届いたのが三日前だ。
畝はもう切ってある。あとは種を落とすだけだった。
誰が撒くか、少しだけ揉めた。
結局、痩せた男が袋を持たされた。押しつけたのは、あの老女だった。
「あんたの家の畑じゃろ、そこは」
「……覚えとらん」
「わしが覚えとる。早うせえ」
男は袋を抱えて、畝の上に立った。手が止まっている。
俺は何も言わなかった。
やがて、男の指が動いた。種が落ちた。ぱらぱらと、乾いた土の上に散る音がした。
列の端まで行って、袋が空になった。
男は空の袋を持ったまま、しばらく立っていた。それから、袖で顔をこすった。
「終わった」
ダンが俺の隣で言った。
「領主。全部だ」
俺は白原を見渡した。
緑はまだ一つも無い。あるのは、土の色をした細い線が北へ延びていく光景だけだ。三月経たなければ、この畑は一粒も返してこない。
「ヨナさん。数えてくれ」
「もう数えとる」
老人は帳面を開いて、指を舐めて頁を繰った。
風が白原を渡った。塩ではなく、土の匂いがした。
お読みいただきありがとうございます。
この回の主役は、たぶんダンです。第54話で「俺が行く」と言って出ていったきり、六日ほど本文から消えていた男が、頬をこけさせて帰ってきました。しかも桶を渡されて、真っ先に子どもに回して、自分は最後に飲む。あれだけ「期待してねえからな」と粋がっていたのに、この男は妙なところで律儀です。作者としては「もう少し自分を大事にしろ」と言いたい。
帰ってきた側と残った側は、この回では仲直りしていません。しませんが、鍬の替え柄と水桶は行き来しています。人が先に和解して手が動くのではなく、手が先に動いて感情があとから追いつくことのほうが、たぶん多いのだろうと思って書きました。
次回、期限の日が来ます。盆地は初めて、外へ向かって数字を差し出します。
ブックマークと評価は、峠を越えて届いた最後の十一枚ぶんの種籾代に充てさせていただきます。あれが来なかったら、この話は六日目で止まっていました。




