第56話:二十年前の裁定書に、宰相の署名があった
その朝、白原に霜が降りた。
塩の白の上に、もう一つ薄い白が乗っている。手で触れると、指の熱ですぐ消えた。晩秋というより、もう冬の縁だった。
カセルは石村に泊まった。宿は無いから、集会小屋の隅で外套を被って座っていただけだ。書記の二人が村の家に分かれて眠り、彼だけが起きていた。
油紙は、机の上に置かれたままだった。
夜のうちに開けることもできた。俺は開けなかった。あの男が懐に入れて持ち歩いたものだ。持ち主のいる場所で開けるべきだと思った。
朝、俺たちは机を囲んだ。カセル、ヨナ、ミリア、そして俺。ガルドとステラとダンは、少し離れて立っていた。
「開けます」
誰も返事をしなかった。
紐は、ほどく前に切れた。
***
中身は、三つ折りの一枚だった。
紙は上等だ。黄ばみが薄い。王都の役所が本物に使う紙の質を、俺は指の腹で覚えている。右上に割印。本文は三行。末尾に一行だけ、判断が書いてある。
ヨナが身を乗り出した。
「なんと書いてある」
俺は読み上げた。
「東部セルヴァ盆地一帯、地脈の崩壊により回復の見込みなし。よって回復不能地に指定し、以後、王国の帳簿より除く」
「――帳簿より、除く」
ヨナが繰り返した。
「そう書くのか。人が住んどるのに」
「住んでいる人は、書かれません。土地が消えると、そこにいた人も一緒に消えます」
俺は言った。行政官だった頃、俺自身が扱った処理だ。
そして、末尾の署名を見た。
レギウス・ヴァルト。
癖のある字だった。最後の一画が、真横に長く跳ねている。昔も、今も、同じ跳ね方をしているはずだ。俺は王都で、この署名を何度も見ている。
自分を辺境へ送った紙の下にも、同じ字があった。
「――知っていた」
カセルの声だった。
「その名は、私も知っている。驚くことではない。国の裁定に宰相の署名があるのは当然だ」
「はい」
「ならばこの紙は、私の側の正しさを――」
彼はそこで止まった。
俺が見ていたのは署名ではなく、その左にある日付だったからだ。
「監督官。昨日の綴りを、もう一度出してください」
カセルは動かなかった。書記が代わりに鞄を開けた。
俺は第一葉を開いて、裁定書と並べた。
実地調査の日付。裁定書の署名の日付。
その二つを、指で順に押さえた。
「調査は、裁定の十日あとです」
カセルの喉が動いた。
「……なんだと」
「あなたが二十年守ってきた四・二倍という値は、この紙が書かれたときには、まだこの世に無かった」
俺は指を離した。
「回復不能だから調べなかったんじゃない。調べる前に、回復不能と決まっていた」
誰も何も言わなかった。ヨナが口を開けたまま、机の縁を掴んでいた。
カセルは、二枚の紙を交互に見ていた。何度も見た。読み違いを探していたのだと思う。役人はそうする。俺もそうした。
だが、日付は動かない。日付だけは、どうやっても動かせない。
「……順序が」
彼の声は、小さかった。
「順序が、逆だ」
俺は黙っていた。ここで言葉を足すのは、たぶん俺の仕事ではない。
「私は」
カセルが言った。
「判断を、守っていたのではないのか」
問いの形をしていたが、誰に訊いたものでもなかった。
「二十年、私は東部の秩序を預かっていた。この土地を無いままにしておくことが、正しい行政だと思っていた。厳しいが、必要な厳しさだと」
彼は自分の手を見た。
「私は、判断のあとの土地を、番していただけだ」
悔しがってはいなかった。怒ってもいなかった。ただ、踏んでいた床が、実は誰かが後から敷いた板だったと知った顔をしていた。
***
監督府の早馬が着いたのは、昼過ぎだった。
書付を一通、カセルに渡して、使いはすぐに引き返した。彼はその場で封を切り、読み、それから二度読んだ。
「更迭だ」
顔も上げずに言った。
「東部監督官の任を解く。理由は――東部一円の管理不行き届き」
ステラが小さく息を吸った。
「早すぎない? あんた、昨日ここに来たばっかりでしょ」
「早すぎる」
カセルは書付を裏返して、日付を見せた。
「私がラントを出るより前の日付だ」
誰かが息を呑んだ。
つまり、この紙は俺たちがここで何をしようと関係なく、もう用意されていた。盆地に麦が実り、外の帳面にその記録が残った時点で、切るべき指が決まっていたということだ。
カセルは書付を丁寧にたたんで、懐へ入れた。油紙が入っていた場所に。
「争わないんですか」
俺は訊いた。
「争う根拠がない」
彼は言った。
「管理は不行き届きだった。二十年、測らなかった。それは事実だ」
「その理由で切られるのは、違います」
「違うだろうな」
カセルは薄く笑った。この男が笑うのを見たのも、初めてだった。
「だが、私が違うと言ったところで、どの帳面にも載らない」
書記の二人が、荷をまとめ始めていた。若いほうが何度もこちらを盗み見て、そのたびに手元へ視線を戻す。彼らも来月には別の土地で、別の綴りをめくっているのだろう。
「なあ」
ダンが小声で言った。
「あの役人、これからどうなるんだ」
「分からない。だが、東部の帳面に不備があったことにされる」
「……それ、全部あいつのせいにするってことか」
「そうだ」
ダンは舌打ちをして、それきり黙った。彼はカセルを嫌っていた。嫌っていた相手の始末のつけ方が気に入らない、という顔をしていた。
俺は裁定書をもう一度手に取った。
三つ折りの折り目。右上の割印。本文三行。末尾の一行。
俺を辺境へ送った紙も、同じ形をしていた。読み上げられただけで手元には来なかったが、あのとき役人が持っていた紙の折り目の位置を、俺はまだ覚えている。
「スキル欄、空白。国家運営に資する能力を認めず。よって当人を辺境ルーナ領へ遣わす」
同じ様式だ。同じ字だ。同じ位置に、同じ一行がある。
土地を消すのと、人を捨てるのとで、書式は変わらない。
(――同じ手が書いている、というだけのことだ)
それ以上のことは、この紙からは分からない。恨みも、企みも、紙には書かれていない。書かれているのは、判断と、日付と、名前だけだ。
俺の手元には、光の枠は開かなかった。当たり前だ。紙は領地ではない。
「アルトさま」
ミリアが横に来た。
「手」
言われて気づいた。裁定書の端を、指が白くなるほど強く摘んでいた。
俺は指を開いて、紙を机に置いた。皺が一つついていた。それだけだった。
「大丈夫だ」
「はい」
ミリアはそれ以上訊かなかった。訊かないでいてくれる相手がいるというのは、ずいぶん楽なことだった。
***
カセルは、その日のうちに盆地を出た。
石村の外れまで、俺たちは並んで歩いた。見送りではない。彼が「歩きながら話す」と言ったからだ。
白原の縁で、彼は馬の手綱を取った。
「期限のことだが」
「はい」
「あれは監督府の名で出ている。私が消えても消えない。残りは三十二日だ」
「分かりました」
「後任が誰になるかは知らん。だが、二千石は二千石だ。数字は人に合わせて動かん」
それは、この男が言える精一杯の言葉だったと思う。
少し離れたところに、ヨナが立っていた。杖をついて、ずっとこちらを見ていた。
カセルは、初めてそちらを向いた。
「……年貢の件は」
「もうええ」
ヨナが言った。
「わしの帳面を、はじめて読んだのはあんただ。それだけで、二十年ぶんは足りる」
カセルは何か言おうとして、口を開き、そして閉じた。
役人の返す言葉は、たぶん一つも用意されていなかった。
彼は鞍に足をかけ、それから思い出したように振り返った。
「アルト・フェーン。一つだけ言っておく」
「はい」
「お前がこれから相手にする男は、お前を憎んでいない。悪意もない。それを期待するな」
風が白原を渡っていった。霜はもう溶けている。
「あの人は土地を見ていない。数字を見ている」
お読みいただきありがとうございます。
二十年ぶん番をしていた床が、後から誰かに敷かれた板だったと知る回でした。カセルという人は、悪人として書き始めたわけではありません。彼は与えられた紙をきちんと守れる人で、この物語ではそれが最も残酷に働きました。
次回、盆地は期限の日を迎えます。




