第55話:帳簿で殴る
塩の白は、また少し後退していた。
一の畑の周りに、畑が三枚増えている。晩秋の風は乾いていて、麦藁の匂いがした。この盆地に無かった匂いだ。
その朝、ラントから戻ったステラの荷車は、行きと同じだけ荷を積んでいた。
「売れなかったんじゃないよ」
彼女は荷台の縁を平手で叩いた。
「買わせてもらえなかったの」
石村の集会小屋に、一枚の紙が回された。ラントの市の入口に貼られていた触れの写しだ。
「回復不能地に関わる産物の取引は、東部監督府の許可を要する」
俺は二度読んだ。どこにも盆地の名前が無い。カセルは名指しをしていなかった。
「名前を書かないのが厄介だ」
紙を机に置く。
「名指しなら、こっちが『不当だ』と争える。書いてなければ、怖がるのは商人のほうだ。許可が要るかどうか分からない荷は、誰も触らない」
「あたしの前で、十年の付き合いの店主が手を引いた」
ステラは笑おうとして、失敗していた。
「悪いね、って言われた。あの人は悪くないのに」
塩が入らない。鉄が入らない。釘も、鍬の替え刃も、来年の種籾に混ぜる豆も入らない。
ガルドが立ち上がった。
「領主さま。俺、ラントまで行ってくるわ」
「何しに」
「役所の門を、一遍たたく」
「たたいてどうする」
「気分がいい」
正直な男だ。俺は首を横に振った。
「殴ったら、あいつの書類が正しくなる」
「……なんだそりゃ」
「回復不能地の連中は乱暴で、監督府は正しかった。そう書ける。あいつが欲しいのはその一行だ」
ガルドは唸って、腰を下ろした。
「めんどくせえ喧嘩だな」
「めんどくさい相手だからな」
俺は触れの写しをもう一度見た。
カセルが止めたいのは、俺たちの麦じゃない。俺たちの鍬だ。役所に示すのは収穫ではなく見込みだが、その見込みを立てるには、あと十日あまりで百枚を播き終えなければならない。刃と釘が入らなければ、それができない。
畑を止められれば、期限は勝手に俺たちを殺す。
***
その日の夕方から、俺たちは商いの話しかしなかった。
「触れが効くのは、ラントの市だけだよ」
ステラが炉端に地図を広げた。旧セルヴァ街道の写しに、彼女が自分で線を足したものだ。
「市に店を構えてる商人は、監督府に鑑札を握られてる。だから触れが刺さる。でも――」
「市を通らない商人がいる」
「そう。行商。あたしの元の商売」
彼女は南の峠に指を置いた。
「ここを越えると小さい村が三つ。市まで二日かかるから、行商が回ってる。鑑札なんか持ってない。触れも回ってこない」
「峠道は俺が知ってる」
ダンだった。壁際から近づいてきて、地図を覗き込む。
「猪が使う道が二本ある。荷車は無理だが、駄馬なら通る」
「案内できる?」
「まあ、できる」
ダンは俺のほうを見ないまま言った。
「――領主。あんたが行くって言うなら止めるけど」
「行かない。俺が盆地を離れたら、暫定領主の実効支配が切れる。それこそカセルの狙いだ」
「そう思って言った」
この男は、警戒していた頃の顔のまま、味方の言い方をするようになった。
ステラが指を折り始めた。
「あと、銭は使わない」
「使わない?」
ミリアが目を丸くする。
「銭で買うとね、帳面に残るの。誰がどこの銭をどう動かしたか。監督府はそれを追える」
ステラは炉の火に薪を足した。
「でも、麦と塩を交換したら、それは麦と塩のやり取り。今年は外の麦が高い。あたしたちの手にあるのは、いま一番強い現物なんだよ」
「……荷が軽いな」
ガルドが呟いた。
「銭より重いだろ、麦は」
「そうじゃねえよ。話が軽いって言ったんだ。役所と喧嘩する話が、いつのまにか物々交換の相談になってる」
ステラが吹き出した。
「それが喧嘩だってば」
***
六日で、最初の荷が戻ってきた。
駄馬が四頭。鍬の替え刃が十二枚、釘が二箱、豆の袋、麻縄、そして塩。
塩害の土地が、飯に使う塩を買う。ヨナがそれを見て、皺だらけの顔で笑った。
「白いのは外にいくらでもあるのに、食えるのは買わにゃならん。おかしなもんじゃ」
「おかしくない」
俺は袋を担ぎ上げた。
「同じ塩でも、置き場所が違えば別物だ。土の上にあれば毒で、鍋の中にあれば飯になる」
ヨナは何度か頷いて、それから言った。
「領主さま。あんた、そういうことを役所で言うといい」
言うつもりだった。
その日の夜、俺は自分の帳面を最初の頁から読み返した。盆地に来た日から毎日つけている。塩分の値、水の量、芽の丈。一日も抜けていない。
紙で「無い」ことにされた土地だ。なら、こちらは紙を積むしかない。
***
カセルが来たのは、それから四日後だった。
書記を二人連れて、白原を横切ってくる。前と同じ、皺のない外套だった。
「六十日のうち、二十七日が過ぎた」
挨拶もなくそう言った。
「残りは三十三日だ。畑が三枚増えたな。刃はどこから入れた」
「買いました」
「どこで」
「監督府に届ける義務のある取引ではありません」
カセルの目が、わずかに動いた。怒りではない。確認していた。
「……そうだろうな」
彼は椅子を勧められる前に座った。
「アルト・フェーン。私は妨害をしたつもりはない。回復不能地との取引には確認が要る。それだけの触れだ」
「知っています。よく書けていました」
「褒められる筋合いはない」
「褒めていません」
俺は机の上に、二冊を並べた。俺の帳面と、ヨナの記録。
「その前に、一つお願いがあります。監督官」
「言え」
「この盆地を『回復不能』と判定した根拠の資料を、見せてください」
書記の一人が顔を上げた。カセルは動かなかった。
「暫定領主として、自分の土地の判定根拠の開示を求めます。届出は受理されていないと仰いましたが、開示の請求に受理は要りません」
長い沈黙があった。
やがてカセルは、足元の革鞄から分厚い綴りを出して、机に置いた。埃を払う手つきに、迷いはなかった。むしろ――待っていた手つきだった。
「見ろ。お前の言葉より、こちらのほうが重い」
俺は表紙を開いた。
第一葉に、実地調査の記録があった。表層塩分濃度、基準値の四・二倍。地脈、断裂。作付不能。
次の葉をめくった。翌年の欄。
「前年に同じ。異状なし」
その次も。「前年に同じ」。その次も。「前年に同じ」。
俺は指を止めずに、最後まで送った。二十年ぶんが、同じ一行で埋まっていた。
「監督官」
「なんだ」
「この二十年で、この盆地に人が立った日は、何日ありましたか」
カセルが、初めて答えなかった。
「先月、あなたが来た日が最初です。俺たちが数えている限りでは」
「……調査は、必要が生じたときに行う」
「では、必要は生じなかった」
俺は自分の帳面を開いて、隣に並べた。
「もう一つ。この綴りに書いてある四・二倍という値は、俺が測った値と同じです」
カセルの眉が動いた。そこだけは、彼にとって良い報せだったはずだ。
「なら、正しいではないか」
「白原の真ん中は、そうです。ですが」
俺は帳面の頁をめくった。
「二十年、雨が降って、風が吹いて、水が動いた。それで同じ場所の値が小数点まで一致するなら、答えは二つしかない。この土地だけ、何も起きなかったか」
指で、綴りの背を軽く叩いた。
「一度測った数字を、二十年書き写したかです」
俺は続けた。数字は、こちらのほうが多い。
「北古水路の通水率。記録では三分。俺が来た日も三分でした。今日は七割です」
「一の畑の一帯の塩分。基準値の〇・九倍」
《表層塩分濃度:基準値の0.9倍(作付可)》
光の枠が、机の上に静かに開いた。書記の一人が息を呑む。
「収穫は、一の畑の五反で二十石。麦は実って、売れて、外の帳面に載りました。ラントの市の記録にも残っています。あなたの部下が書いたものです」
カセルは、机の上の二冊を見ていた。
俺の帳面には日付がある。彼の綴りには、日付が一つしかない。
「……回復不能というのは」
彼の声が、少しだけ遅れた。
「土地の状態のことだ。人の努力の話ではない」
「はい。だから測るんです」
俺は言った。
「回復不能かどうかは、意見ではなく値です。あなたの側には、二十年前の値が一つある。俺の側には、今日までの値が毎日ある。どちらが土地の状態を言っているか、あなたなら分かる」
カセルは、綴りを閉じようとした。
手が、途中で止まった。
彼は綴りを閉じられないまま、しばらくそこを見ていた。怒鳴られるほうがまだ楽だったと、俺は思った。
「監督官」
書記が小声で呼んだ。返事は無かった。
「……私は」
やがて、カセルが言った。
「二十年、この綴りで人を帰してきた。年貢を持ってきた老人を、窓も開けずに帰したこともある。無い土地からは取らん、と」
壁際で、ヨナが身じろぎをした。
カセルは老人のほうを見なかった。見られなかったのだと思う。
「あれは私の言葉ではない。だが、私はそれを守ってきた。守ることが、東部の秩序だと思っていた」
「守ったものが偽物だったとは、俺は言っていません」
俺は静かに言った。
「測っていない、と言っただけです」
カセルは立ち上がった。外套の裾を直し、書記に鞄を持たせ、机の綴りをそのまま置いていこうとして――やめた。
代わりに、懐へ手を入れた。
油紙の包みだった。角が擦り切れて、紐の色が抜けている。ずいぶん長く、同じ場所に入れて持ち歩かれたものの形をしていた。
「写しではないものを、一つだけ持っている」
彼は言った。
「赴任のとき、前任から引き継いだ。開けたのは、一度きりだ」
油紙が、机の上に置かれた。
「これを読んで、まだ同じことが言えるなら――お前の帳面を信じる」
お読みいただきありがとうございます。
書きながら、いちばん怖い一行は「前年に同じ」だなと思っていました。誰も嘘をついていないのに、二十年ぶんの誤りが積み上がってしまう。役所の紙は、そういう積み方ができてしまいます。
次回、油紙が開きます。二十年前の一枚に書かれていた名前で、この盆地の話は少し形を変えます。
ブックマークと評価は、峠を越えてきた駄馬の飼葉代に充てさせていただきます。




