第54話:六十日で、何を作れば「回復不能でない」のか
一の畑の株の切り口は、まだ青かった。刈ったばかりの畑は、そこだけ土の色が濃い。
カセルが帰った翌朝、俺は集会小屋にヨナの台帳を全部運び込ませた。
「領主さま。何をする気じゃ」
「翻訳する」
「……はあ」
ヨナが首を傾げる。俺は台帳の山に手を置いた。
「あの男は『回復不能でないことを証明しろ』と言った。あれは気合いを入れろって意味じゃない。あの言い方をするやつは、頭の中に基準を持ってる」
役所の人間は、条文に無いことを口にしない。カセルは特にそういう男だ。
つまり、どこかに書いてある。何をどれだけ満たせば「回復不能でない」ことになるのか。それが書いてある頁が、必ずある。
俺は二日、紙を読んだ。
ミリアが黙って湯を運び、ステラが「その顔、条文掘るときの顔だ」と言って出て行った。三日目の夜に、見つけた。
「――あった」
指が止まったのは、回復不能地の指定の項の、そのまた後ろだった。
指定の出し方の条文の陰に、指定を解く条文が付いている。誰も使わないから、誰も読まない頁だ。
「なんて書いてある」
ダンが覗き込んできた。この男が自分から紙に近寄るのは初めてだった。
「指定を解くには、二つ要る。一つ、土地が現に人を養っていること」
「養ってる」
「二つ。指定を出した年より前の収穫高の、一割に当たる収穫が、続けて見込めること」
俺はその一行を、指でなぞった。
「穫れ、とは書いてない」
「同じことだろ」
「違う」
俺はダンを見た。
「麦は蒔いてから三月かかる。六十日で穫れる麦は、この国のどこにも無い。条文を書いた人間がそれを知らないはずがない。だからここは収穫そのものを求めていない。求めてるのは、続けて見込める、という一行だ」
「……見込みで、いいのか」
「見込みだから厄介なんだ。当てずっぽうは通らない」
俺はヨナを見た。
「ヨナさん。台帳の、指定が出る前の最後の年。石高は」
老人は、目を閉じずに頁の位置を言い当てた。何度も開いた頁だ。
俺はその数字を見て、指を折った。
「一割」
息を吐く。
「二千石だ」
小屋の中で、誰も何も言わなかった。
誰も、その数がどれだけかを知らなかったからだ。
「二千石って、多いの」
ステラが戻ってきて、そう聞いた。
「一の畑がどれくらい穫れたか、覚えてるか」
「あー……荷車で運んだよ、あたし」
「あれと同じ畑が、あと百枚」
ステラの笑顔が固まった。
「六十日で穫るの?」
「穫らない。六十日で播き終える」
俺は言った。
「示すのは二つだ。百枚ぶんの作付を終わらせること。それと、一枚からどれだけ穫れるかを、こっちの言い分じゃなく実測で出すこと」
「一の畑の、二十石」
ステラが自分で言った。
「そのうち五石は、あたしがラントで売った分だよ。市の帳面に載ってる」
「書いたのは監督府の役人だ。しかもカセルは先月、自分の足で一の畑を歩いて見ていった」
自分で見た畑と、自分の部下が書いた帳面。その二つを並べられたら、あの男は首を横に振れない。
ステラが低く口笛を吹いた。
「で、その二十石の畑が、百枚」
「百枚」
「無理でしょ」
「無理だな」
俺はあっさり言った。ミリアが小さく吹き出した。
「アルトさま、それ諦めてる顔じゃないです」
「諦めてない。まだ数え終わってないだけだ」
俺は床に大きく盆地の形を描いた。木炭が石の床にざらついた線を引く。
畑を百枚。水をどこから引くか。土から塩をどう抜くか。誰が耕すか。
三つ書いて、俺は木炭を置いた。
「詰まった」
「早くない?」
「LEだ」
一の畑を一枚造るのに、六十かかった。百枚なら六千。
LEは領民の暮らしと幸福度から生まれる。十七人が畑を耕して、麦を食って、笑って寝る。それでようやく少しずつ溜まる。
俺は手元の数字を見る。
今ある分を全部注いでも、三枚に届かない。
「――足りねえじゃねえか」
ダンが言った。責める声ではなかった。
***
その日の夕方、俺は十七人を集めた。
持ってきたのは床の絵図と、木炭が一本だけだ。
「言っておく。俺の力で作れるのは、六十日で三枚だ」
「残りの九十七枚は、俺には作れない」
「じゃあ終わりじゃねえか」
「作れないのは、俺が作る場合だ」
俺は絵図の北を叩いた。
「塩を抜くのに力が要るのは、水が無いからだ。水があれば、塩は水が流してくれる。ゆっくりだが流れる。ヨナさん、北古水路は今どれだけ通ってる」
「……三分ってとこじゃ」
ヨナが指を三本立てた。
「砂を掻き出せば、どこまで上がる」
老人が黙った。長い沈黙だった。
「……半分は、いく」
小さい声だった。
「わし一人でも、少しずつ上げてきた。人がおれば、もっと」
「何人要る」
「十人。半月」
答えが速かった。
二十年、この老人はその計算を頭の中でやり続けてきたのだ。人が来る当てもないのに。
「十人はおらんぞ」
後ろから声が上がった。畑を見ている老女だ。
「うちらは年寄りばっかりじゃ。畑を放って水路に行ったら、麦が死ぬ」
「そうだ。だから畑は残す」
俺は絵図の南を指した。
「畑に要る手は、俺が減らす。三枚ぶんのLEのうち一枚を、畑じゃなくて畝の造成に使う。鍬を入れる手間を先に土から抜いておけば、老人でも一日でひと畝いける」
「……そんなことができるんか」
「土をどう置くかを決める力だからな。麦を出すより、土を寝かせるほうが安い」
老女は疑わしそうに口を曲げたが、それ以上は言わなかった。
「あの、私も数えていいですか」
ミリアが手を挙げた。
「私の光は、土の中の小さいものを起こします。起きた土は、水をよく吸います。……たぶん、塩の抜けも早くなります」
「どれくらい」
「分かりません。一の畑のときは、一日か二日ぶんでした」
「なら、水路の下流から順に当ててくれ。上流に当てても、水が来なきゃ意味がない」
「はい」
ミリアが指を折って、順番を数え始めた。この娘は、頼まれた仕事を必ず順番に直す。
種籾は、と誰かが言った。ヨナだった。
「一の畑の刈り取り分では、百枚の種にはとても足りん」
「足りない」
俺は認めた。
「外から買う。ステラ」
「あたし?」
ステラが自分を指さした。
「六十日で百枚ぶんの種籾。値切れるか」
「値切るも何も、麦の種はこの季節どこも出し渋るよ。……でもまあ、ラントに二軒、あたしに借りがある店がある」
「頼む」
「あーもう。領主さま、人の使い方が上手くなったね」
ステラが肩をすくめた。嫌そうな顔ではなかった。
「人も足りん」
ダンが言った。
「十七人で百枚は無理だ。半分死ぬ」
「外から呼ぶ」
俺は言った。
「二十年前にここを出た人間が、東部の三つの村にいる。カセルがそう言った」
ヨナが顔を上げる。
「……帰ってくるじゃろか」
「分からない」
俺は正直に言った。
「帰ってこいと言う資格が、俺にあるとも思わない。俺はここに一か月しかいない」
しばらく誰も喋らなかった。
やがて、ダンが壁から背を離した。
「俺が行く」
「ダン」
「あんたが言っても駄目だろ。出てったやつらは、あんたの顔を知らねえ」
若い狩人は、鼻の頭を掻いた。
「俺の親父の名前なら、知ってるやつがいる」
ヨナが、口を開けたまま彼を見ていた。
俺は頷いた。
「地図を書く。持っていけ」
「三つ全部は回れねえ。近い一つだけだ」
「一つでいい」
俺は木炭を拾って、絵図の隅に数を書き足した。
畑が三枚、畝が一枚ぶん、水路が半分、種籾が二軒の借り、人が未知数。
どこにも余りが無い。どれか一つ欠ければ、二千石には届かない。
それでも、三日前には何も書かれていなかった床に、道筋が並んでいた。
***
五日目の朝、北古水路に十人が並んだ。
年寄りが七人、子どもが二人、それにガルドが一人。護衛長は「魔物より砂のほうが働き甲斐がある」と言って笑い、いちばん重い泥をさらった。
俺は水路の縁に膝をついて、掌を石に当てた。
《北古水路:通水率17%》
枠の数字が、二十年ぶりに動いた。
水の音が変わった。細かった流れが、少しだけ低く鳴りはじめる。
「……鳴っとる」
ヨナが泥だらけの手で耳を押さえた。
「鳴っとるわ。この音じゃ。わしが子どもの頃の音じゃ」
誰も茶化さなかった。
石村から出てきた者が、また一人、また一人と水路の縁に並んだ。呼んでいないのに来た。集会小屋に集まったときの顔とは、違う顔をしていた。
俺は少しだけ、背中が寒くなった。
この人たちは、俺の指示で動いているのではなくなりつつある。
それは、いいことのはずだった。
***
その夕方、ステラが帰ってきた。
馬から降りるのではなく、転がるように降りた。荷車が空だった。
「領主さま」
息が上がっている。
「ラントの門で、荷を止められた」
俺は立ち上がった。
「監督府の触れが回ってる。セルヴァ盆地と取引した商人は、東部の市場から締め出す、って」
お読みいただきありがとうございます。
「証明しろ」と言われたとき、いちばん強い返し方は、たぶん「何をどれだけやれば証明になるのか」を先に確かめることなのだと思います。気合いでは何も足りませんが、数字にしてしまえば、足りない分がはっきりする。足りないと分かってから、人は初めて誰かに頼れます。
もし皆さんが六十日で二千石の見込みを立てろと言われたら、最初にどこを数えますか。畑でしょうか、水でしょうか、それとも人でしょうか。アルトは水から数えました。ヨナが二十年ぶん、先に数えておいてくれたからです。
次回、盆地は外との糸を切られます。




