第53話:監督官カセルの理屈
石村の集会小屋は、朝から紙の匂いがしていた。
俺たちの紙ではない。東部監督官カセルが持ち込んだ紙だ。
机の上に、麻紐で綴じた束が三つ並んでいる。角が揃っていて、綴じ目の位置まで同じ高さにある。
年は四十の半ばだろうか。痩せていて、背は高くない。指の関節に、古い墨の染みが残っている。
昨日、白原の縁で「無い土地に、領主はいない」と言ったとき、この男は声を張らなかった。今朝も張らない。
「アルト・フェーン」
カセルが顔を上げた。
「昨夜のうちに、この土地の記録を読み直した。あなたが持ち出した条文も含めてだ」
俺は向かいに腰を下ろした。
「二百年前、東の大水のあとに作られたものだな。放棄地の暫定管理の項」
――項の名前まで出てきた。
俺は座り直した。この男は、条文を読んでいる。読んだふりではない。
壁際にヨナが立ち、その後ろにダンがいる。ガルドは戸口で腕を組み、ステラは柱にもたれて指の爪を見ていた。見ていない振りをするときの、あの女の癖だ。
「先に、私の側の話をする」
カセルは束の一つに手を置いた。
「あなたは私を、悪い法を振り回しに来た役人だと思っているだろう。それでは話が噛み合わない」
「聞く」
「この盆地は、かつて王都の麦の値を決めていた。地脈が崩れて、二年で出せなくなった。そこで王国は選んだ。ここを直すか、ここを捨てて他を守るか」
彼は淡々と続けた。
「直すのにいくら要るかは、当時も試算されている。あなたが見た復旧の見積もりを、人の手と金に置き換えてみるといい。東部が何十年か働いて稼ぐ額だ」
俺は答えなかった。二十万という数字が頭の裏にある。
「王国は捨てた。捨てたから、その金を東部の他所に回せた。ラントの堤も、南の街道も、あれは盆地を捨てた金でできている」
カセルは束の一つを開いた。細かい字が、頁の端まで隙間なく詰まっている。
「二十年ぶんの帳簿だ。私はこれを執行してきた。誰かが儲けたわけではない。金は東へ回り、村が三つ増えた」
「……増えた」
「増えた。この盆地から出た人間が、そこに住んでいる」
ヨナが、震える息を吐いた。出て行った者たちがどこへ行ったのか、この老人は知らなかったのだ。
「……生きとるんか」
声が掠れていた。
「三つの村のうち、二つは今も麦を出している」
カセルは頁をめくらずに答えた。
「北の一つは水が合わずに減ったが、人は残っている」
ヨナが袖で顔を拭った。ミリアが老人の背に手を添える。
俺は、その光景を横目に見ながら考えていた。
この男は、憎まれに来た。憎まれることを承知で、いちばん憎まれる話を最初に置いた。役人が自分の裁量でやっていいことではない。それでもやったということは、彼の中では順序が決まっているのだ。
***
「ここからが本題だ」
カセルは二つ目の束を開いた。
「盆地が『有る』ことになれば、二十年ぶんの帳尻が全部狂う。回復不能地から税を取らない代わりに、東部は振替をしてきた。その振替は、この土地が無いという前提で組まれている」
「有ったことにすると、振替が全部誤りになる」
「そうだ」
彼は初めて、わずかに目を細めた。話が通じる相手だと分かった顔だった。
「堤も街道も、無い土地の金で作ったことになる。返せと言われる村が出る。ここを出た人間が、二度目に住む場所を失う」
俺は膝の上で指を組んだ。
――頷いてしまいそうになる。
この男の理屈には、穴が無いわけではない。だが誠実さがある。彼はこの帳簿を毎日開いてきた。開き続けた人間の言葉には、独特の重さがある。
「では、十七人には出て行けと」
「私は十七人を憎んでいない。むしろ、よく生きたと思う」
カセルは束を閉じた。
「だが法は、生き延びた人間を後から数え直さない」
「――ふざけんな」
ダンだった。壁から離れて、一歩出た。
「二十年、誰も来なかったんだぞ。俺の親父は、あんたのとこの窓の前で死んだんだ」
「ダン」
ヨナが押さえたが、若い狩人は止まらなかった。
「あんたが数え直さないから、俺たちは今まで無かったんだ」
カセルは、目を逸らさなかった。怒鳴り返しもしなかった。
「そうだ」
それだけ言った。
ダンが、言葉を失った。
嘘でも取り繕いでもない。認めたのだ。認めたうえで、この男は今日ここに座っている。
「ちょっといい?」
柱から、ステラが体を起こした。
「帳尻が狂うって言ったけどさ。麦が穫れる土地が戻ったら、東部は得するんじゃないの。あたし商人だから、そっちで数えちゃうんだけど」
「五年先ならそうなる」
カセルは即答した。
「三年以内に、返せと言われる村が出る。村は五年待てない」
「……うわ、答えが速い」
ステラが小さく口笛を吹いた。褒めていない口笛だった。
***
三つ目の束が開かれた。今度は薄い。
「あなたの暫定領主権について話す」
来た、と思った。
「条文の要件は三つ。居住者の総意、土地が現に手入れされている証拠、監督府への届出。二つ目は認める」
カセルはヨナのほうを見た。
「水路の記録は、私が見た中でいちばんまともな管理記録だ。これは本気で言っている」
ヨナが、口を半分開けたまま固まった。
「問題は残りの二つだ」
彼は薄い束の一枚目を指で押さえた。
「届出は、受理されていない。監督府に到着した記録が無い」
「届出は裁可ではない。出せば足りる」
「出したことを、あなたはどう証明する」
俺は詰まった。
届出は、石村の男の一人にラントまで運ばせた。監督府の窓口に置いてきたはずだ。だが置いてきた紙に、受け取りの控えは無い。無い土地の人間に、控えを渡す窓口は無い。
「……あんたのところが受け取らなかったんだろう」
「そうかもしれない」
カセルは否定しなかった。
「だが記録が無いというのは、私の側の落ち度であっても、あなたの側の要件不足だ。法はどちらの落ち度かを先に見ない」
「二つ目」
カセルは次の紙をめくった。
「総意を構成する十七人のうち、法的な居住登録のある者が一人もいない。指定を出したとき、この土地の住民登録は全部抹消されている。無い土地に住所は置けないからだ」
「……住んでいる」
「住んでいる。だが法は、住んでいるかではなく、登録されているかで人を数える」
俺は、天井の梁を見上げた。
詰んだ書類を見たとき、俺はいつも上を見る。
視界の隅に、淡い光の枠が滲んだ。
《暫定領主権:異議申立ての対象となり得ます》
――知ってる。
俺は光の枠を払った。
「無効だと言いたいのか」
「いや」
カセルは首を振った。
「無効とは言っていない。争えると言っている。私が監督府に申し立てれば、王都の判断が出るまで半年から一年。その間、この土地では何もできない」
勝てない。
法廷に持ち込まれれば、俺の側には紙が無い。抹消された人間と、届いた記録の無い届出しか無い。
王都の役所で、俺は同じ形の書類を何度も処理した。要件が一つ欠けている申請は、中身を読まずに戻す。読まずに戻していいことになっている。あれをやられる側に回ったわけだ。
戸口でガルドが低く唸った。
「領主さま。こいつ、剣は持ってねえぞ」
「知ってる」
「持ってねえのに、いちばん厄介だ」
ガルドの言い方には、感心が半分混じっていた。
「――なぜ、今すぐやらない」
俺は言った。
「あんたなら、今日申し立てられる。俺たちは半年動けなくなって、その間に冬が来る。それで終わりだ」
カセルは、初めて少しだけ黙った。
それから、机の上の三つの束を、きちんと重ねた。
「私は、条文を曲げないと決めている。二十年そうしてきた」
彼は立ち上がった。
「曲げないというのは、こちらに都合よく使わない、という意味も含む」
戸口の光が、その痩せた背中を縁取った。
「アルト・フェーン。この土地の指定は『回復不能』だ。回復が不能でないなら、その指定は誤りだったことになる。誤っていたなら、私は誤りを認める」
カセルは俺を見下ろした。
「今日から六十日。六十日で、この盆地が回復不能でないことを証明しろ」
小屋の誰も動かなかった。
「証明できねば、暫定領主権に異議を申し立てる。そのときは十七人全員に、この土地から退去してもらう」
お読みいただきありがとうございます。
カセルという男を書いていて、途中で「あれ、この人けっこう好きかもしれない」と思ってしまいました。怒鳴らないし、賄賂も取らないし、老人の水路の記録を真顔で褒める。敵役としてどうなんだ。……いや、こういう相手のほうが厄介なんです。悪人なら殴れば済みますが、この人は殴っても帳簿が残る。
ちなみに彼、前夜のうちに二十年ぶんの記録を読み直しています。査察に来て徹夜する監督官、真面目にもほどがある。
次回、アルトは「回復不能でない」という言葉を、数字に翻訳しにかかります。
ブックマークと評価は、六十日ぶんの蝋燭代に充てさせていただきます。




