第52話:「無い土地に、領主はいない」
一の畑は、刈り取られたあとの株が並んでいる。
白原の中で、そこだけ黒い土が四角く残っている。刈り株の列は真っ直ぐで、遠くから見ても人の手が入った形をしていた。
その黒い四角の脇に、馬が四頭立っている。
旗は王国東部監督府のものだった。俺は台帳を抱えて、旧セルヴァ街道の入り口まで出た。ステラが帰ってきた翌々日のことだ。
馬から降りたのは、五十がらみの男だった。
背は高くない。装いも派手ではない。灰色の外套に、書類鞄。従者が二人と、書記が一人。剣は誰も抜いていないし、そもそも兵ではなかった。
「東部監督官、カセルです」
男は名乗った。声を張らなかった。
「あなたが、アルト・フェーン」
「そうだ」
「セルヴァ盆地に暫定領主が立ったという届けが、監督府に出されている」
カセルは鞄から一枚の紙を抜いた。俺が十日前に送った届出だった。
「これを書いたのは、あなたですね」
「俺だ」
「筆跡が役人のものだ」
カセルは紙を見たまま言った。
「条文の引き方も、書式も、日付の入れ方も。行政に馴染んだ人間の手です。――どちらの役所に」
「王都に、少し」
「なるほど」
それだけだった。彼は驚かなかったし、探ろうともしなかった。ただ、目の前の紙が誰の手で書かれたかを確認しただけだ。
その手つきに、俺は少し嫌な予感がした。
この男は、怒りに来たのではない。
***
集会小屋に、書類が並べられた。
カセルは椅子を勧められると、断らずに座った。出された白湯にも礼を言った。そのうえで、ヨナの領地台帳を最初から順に開き始めた。
速い。目が行を追う速度が、俺の知っている速さだ。
「二十年ぶんの水路の記録がある」
カセルは顔を上げずに言った。
「毎年、通水の日付と、掻き出した砂の量。誰の記録ですか」
「わしじゃ」
ヨナが前へ出た。声が細い。
カセルは初めて顔を上げた。老人を見て、少しのあいだ黙った。
「……用水守のヨナですね」
「憶えて、おられるか」
「憶えています」
カセルは言った。
「二十年前、監督府の窓口に、放棄地から年貢を納めに来た者がいた。三年続けて来た。四年目からは来なくなった。私が返した」
小屋の中で、誰かが息を呑んだ。
ヨナの手が震えていた。俺は横で立っているしかなかった。
「なんで、受け取らんかった」
「受け取れば、この土地は王国の帳簿に載ります」
カセルは老人から目を逸らさずに言った。
「載れば、道を直さねばならない。関を置き、兵を出し、魔物の被害を数え、税を計算する。当時の東部に、その余力はありませんでした。載せないと決めたのは監督府ではありませんが、載せない仕事を執行したのは私です」
「……そんなら」
「あなたが悪いのではない。私が正しかったとも言っていません」
カセルは台帳へ視線を戻した。
「私は、決まったことを執行した。それだけです」
ダンが壁際で拳を握るのが、目の端に見えた。
カセルは台帳の綴じ目を撫でて、書記に何かを書き取らせた。
「この記録は、よく残されている」
「……役に立つんか」
「立ちます。ただし、どちらの側にも」
老人は意味を掴みかねた顔をした。俺には分かった。
維持の記録は、暫定領主が立つ根拠になる。同時に、ここに人が住み続けていたという証拠にもなる。人が住んでいるのに届けを出さなかった土地。それは別の条文で、別の扱いを受ける。
カセルは台帳を閉じ、両手を膝に置いた。
「一つ伺います。あなたたちは、この二十年、どこから種を得ていましたか」
「……北古水路の際じゃ。猫の額ほどの土がな、あすこだけ生きとった」
「そこで麦を」
「ひと握り穫れる年と、穫れん年があった。穫れた年のぶんを、翌年撒いた」
カセルの視線が、初めて少しだけ動いた。
「種を繋いだのですか」
「畑と呼べるようなもんじゃない」
老人は小さく言った。
「ただ、絶やしたら終いじゃと思うとったからな」
カセルは何も返さなかった。ただ、書記の筆が止まっているのを見て、「書きなさい」と静かに言った。
***
畑へ案内しろ、とカセルは言った。
断る理由がなかった。十七人がぞろぞろとついてきて、白原の中の黒い四角を遠巻きに囲んだ。
カセルは畦に降りた。外套の裾が土につくのも構わずにしゃがみ、刈り株を一本、根ごと引き抜いた。
根を指で崩す。土の匂いを嗅ぐ。それから、指先の土を舌に載せた。
俺は思わず息を止めた。役人が土を舐めるところを、俺は王都で一度も見たことがない。
「塩が抜けている」
カセルは立ち上がった。
「表層だけだ。下はまだ死んでいる。だが表層は確かに抜けている。この五反だけ」
「そうだ」
「水はどこから」
「地下真水脈だ。北古水路の脇から導管を引いた」
「かつて王国の技師が同じことを試みています」
カセルは俺を見た。
「三度。三度とも塩が戻った。あなたのは、なぜ戻らない」
俺は答えなかった。答えれば【領地創造】の話になる。
沈黙を、カセルはそのまま受け取った。追及もしなかった。
彼は畑をぐるりと歩き、畦の高さを見て、導管の口を覗き、水の落ちる音に耳を傾ける。それから村の子どもに「この麦は食べたか」と訊いた。子どもが黙って頷く。
俺は視界の隅の光の枠を、意識の外へ押しやろうとしていた。
《領地レベル:1》
《領民:17》
カセルには見えない。この土地に住んでいないからだ。
彼が見ているのは、土と、水と、刈り株と、子どもの顔だけだった。それだけで、彼はここで何が起きたのかを八割方掴んでいる。
――厄介だ。
この男は、白原を見て帰る人間ではない。
畦の反対側で、ミリアが子どもたちを後ろへ下がらせていた。ガルドは腕を組んで、従者の腰の得物の位置だけを見ている。ステラは荷車の陰から、書記の手元を覗いていた。
三人とも、それぞれのやり方で身構えている。俺だけが、まだ何も決めていなかった。
「アルト・フェーン」
カセルが呼んだ。
「この盆地に、今、何人いますか」
「十七人だ」
「登録は」
「無い」
「名簿に、名前は」
「――載っている者はいない」
俺は答えた。カセルは頷いた。確かめ終えた顔だった。
「では、あと一つ」
彼は畑の向こう、遠い北の崩れた堰のほうへ目をやった。
「あなたは、この五反の次に、何を直すつもりですか」
答えれば計画を渡すことになる。答えなければ、計画が無いことになる。
「堰だ」
俺は言った。隠しても仕方がない。あの堰を直さない限り、盆地は五反のままだ。
「セルヴァ堰」
カセルは繰り返した。それから、初めて長く黙った。
この男は、あの堰の書類も見ている。復旧に幾らかかると見積もられ、幾らで切り捨てられたのかも、たぶん憶えている。
***
日が傾いた頃、カセルは書記に何かを書き取らせ終えて、俺の前に立った。
「よく直した」
最初に、そう言った。
「私は二十年、この盆地の書類を扱ってきました。ここに畑が一枚立つのを、この目で見る日が来るとは思っていなかった。それは本当です」
「なら」
ダンが前へ出た。
「なら、認めろよ。あんたら、詫びの一つも」
「ダン」
ヨナが止めた。カセルは止めなかった。
「詫びは、私が出せるものではありません」
彼は静かに言った。
「そして、あなたたちが今日ここで麦を穫ったことと、この土地の指定が変わることは、別の話です」
「別って何が別だよ。実ったんだぞ」
「実った、という事実は帳簿に載りません」
カセルは書類鞄を閉じた。
「回復不能地の指定は、王国の裁定です。裁定を覆せるのは、それを出した機関だけだ。監督官には、覆す権限がない。私にできるのは、指定に反する事態を報告することと――除くこと、だけです」
風が渡った。刈り株の列が、かさりと鳴った。
「除く」
俺は繰り返した。
「言葉のとおりです、アルト・フェーン」
カセルはこちらを向いた。怒鳴らなかった。嘲笑いもしなかった。ただ、その仕事をしてきた人間の顔で、俺を見ていた。
「あなたは十七人の署名を集め、条文を引き、届けを出した。手続きとしては、よく整っている。行政官として率直に申し上げれば、見事です」
「だが」
「ええ。だが、と申し上げます」
彼は一歩も引かなかった。
「この土地は王国が『無い』と決めた。無い土地に、領主はいない」
お読みいただきありがとうございます。
「正しい人」がいないほうが、話は楽なのだと思います。二十年前に窓口を閉じた人が、今日、土を舐めて「よく直した」と言う。彼の理屈は間違っていて、彼の仕事は間違っていない――この二つが同時に立っているとき、人は何を根拠に戦えばいいのか。
カセルは次回、自分の理屈をすべて開いて見せます。そして彼が最後に置いていく数字が、盆地の六十日を決めます。




