第51話:「無いはずの土地」から、荷が出た ステラ視点
石村の広場に、麦の袋が並んでいる。
二十年ぶりの収穫だ。一の畑五反から穫れたのは二十石。数字にすれば、ラントの市場の隅で半日も転がっていそうな量でしかない。
それでも、袋の口を縛る手つきは誰も雑じゃなかった。ヨナなんて、袋を撫でてから縛っていた。
「五石だけ、外へ出す」
領主さまがそう言った。
「待ってくれ、領主さま」
ヨナが袋を抱えるようにした。
「種籾に残さんと」
「十五石残す。種は足りる」
「そうじゃのうて――」
老人は言いかけて、口をつぐんだ。言いたいことは分かる。あたしにも分かるし、たぶんここにいる十七人全員に分かっている。
昨日ダンが言ったやつだ。よそに知られたら、どうなる。
「金が要る」
領主さまは言った。
「鍬も鎌も足りない。塩を抜くには麻布も要る。冬までに屋根を直す釘もない。全部、外から買うしかない」
「……知られるぞ」
「知られる」
あっさり認めた。そういう人なのだ、この人は。
「隠し通せる期間を、少しでも長く買う。それがステラの仕事だ」
名指しされて、あたしは肩をすくめた。
「重いんですけど、その仕事」
「重い」
「そこは嘘でも軽いって言うとこでしょ」
でもまあ、悪い気はしなかった。
あたしは頭の中で算盤を弾いた。麦五石。売り値が立てば、鍬が四本、鎌が六丁、麻布が二反、釘が一箱。それで足りるかというと、まるで足りない。
「アルト。冬までに要るもの、全部書いて」
「もう書いてある」
差し出された紙を見て、あたしは笑ってしまった。品目と数と、想定の値段まで並んでいる。値段の欄はほとんどが空白で、そこに「ステラ」と書いてあった。
「値付けは丸投げってこと?」
「相場を知ってるのはお前だけだ」
「そこは信頼って言葉を使いなよ」
ミリアが横で小さく笑って、荷台に干し肉の包みを載せてくれた。
「ステラさん。道中、気をつけて」
「大丈夫。あたし、逃げ足だけは領主さまより速いから」
あたしはこの人を、けっこう買っている。土を見るとき、この人は土を見ていない。その土で誰が飯を食うのかを見ている。行商人が値札を見るふりをして客の懐を見ているのと、たぶん同じ目の使い方だ。
だから信用できる。惚れた腫れたの話じゃない。商売の相手として、勘定が合う。
***
旧セルヴァ街道は、まだ道と呼べる代物じゃなかった。
誰も踏んでいない。石畳の隙間から背の低い草が伸びて、ところどころ砂に埋もれている。荷車の輪が三度はまった。
三度目に肩を入れながら、あたしは荷台の向こうへ声を投げた。
「ねえダン。この先に何があるか知ってる?」
「ラント」
「正解。じゃあ、ラントに何があると思う?」
「……知らねえ」
「あたしのお金」
若い狩人は、真顔のまま車輪を押し上げた。付き合いが悪い。でも力はある。
盆地の縁を越えて東へ二日。三日目の昼に、ラントの関が見えた。
東部の都市ラント。東部監督府が置かれている町だ。石の門と、税を取る机と、荷を検める役人がいる。
あたしは荷布をめくって、麦の袋を見せた。
「麦、五石」
「どこの」
「東の村の、去年の残り」
役人は袋に手を突っ込んで、指の間から麦を落とした。落ちる音を聞いている。慣れた手つきだ。
――去年の麦は、こんな音では落ちない。
役人は何も言わずに帳面を開き、筆を走らせた。日付。荷の中身。量。あたしの名前。
通行税は荷の十分の一。麦のかわりに銀で払った。払うと、帳面の端に判が押される。
その帳面が、あの門の奥のどこかに積まれる。今日から何年でも残る。
(これで、記録に残った)
東の村から新麦が五石出た、という一行。ただの一行だ。誰も読まないかもしれない。
でも、読む人間が一人でもいたら――「東に、麦の穫れる村なんて無い」と気づく。
分かっていて、あたしは門をくぐった。売らなきゃ釘も鎌も買えない。売らなければ、畑は一枚のままで終わる。
危ないほうを選ぶのが商人だ。ただし、危なさに値段をつけてから選ぶ。
***
ラントの市場は、思ったより麦が薄かった。
東部は輸入の麦を回してもらっている土地だ。値は高止まりして、質はよくない。粉にすると黒っぽくなるやつが平気で並んでいる。
うちの麦を袋から一掴み出して掌に広げたら、隣の仲買が首を伸ばしてきた。
「どこのだい、それ」
「東」
「東のどこ」
「秘密」
あたしは笑って袋を閉じた。ここで名を出す商人は三年もたない。
値をつけさせると、一石で銀貨八枚と言われた。市場の相場は十一枚だ。
「八?」
「出どころの分からん麦だ。八でも買ってやるほうだよ」
正論だった。腹は立つが正論だ。出どころを言えない荷は、それだけで値が落ちる。安さの正体は口止め料なのだ。
「新麦だよ、これ」
「そりゃ見りゃ分かる。だから訊いてんだ」
仲買は麦を掌で転がした。
「東で新麦が穫れる村なんざ、俺の帳面にゃ十二しかない。十二とも去年の作付けを聞いてる。あんたの麦は、そのどれの色でもねえ」
あたしは笑った。笑いながら、背中が冷たくなっていた。
この男は嫌がらせで訊いているんじゃない。仲買が出どころを知りたがるのは当たり前なのだ。仕入れ先が分からない品は、来年また入るかどうか分からない。商いは来年の話でできている。
「北のほうの、山の村」
「山で麦かい」
「山あいの、川沿い。うちの得意先。名前は言わないよ、あんたに横取りされるから」
仲買は鼻を鳴らして、それ以上は訊かなかった。横取りされる、と言われて気を悪くする商人はいない。むしろ商売の理屈として腑に落ちる。
嘘は、相手が信じたい形で作る。信じたくない嘘は、どんなに上手でも刺さらない。
あたしは荷を三つに割った。
一つ目は、二石。値切ってきた仲買に、一石八枚で売った。この男は喋る。喋る男には、いちばん普通の麦を渡しておく。
二つ目も二石。粉屋に持っていった。粉屋は出どころを訊かない。訊かないぶん一石七枚まで下がったが、この男は帳面をつけない。
三つ目の一石は、売らずに残した。市場に同じ麦が続けて出れば、それだけで噂になる。売り切らないのも商いのうちだ。
締めて銀貨三十枚。鍬と鎌と麻布と釘を買って、残りは種の代に消えた。
金物屋の親父に「ずいぶん買うね」と言われたので、あたしは「開墾の口があってさ」と答えた。嘘ではない。嘘ではないから、顔にも出ない。
買い付けの帰りに、市場の外れから東部監督府の建物が見えた。石造りの、窓の少ない建物だ。二十年前、ヨナが年貢を納めに来て、窓すら開けてもらえなかった場所。
あの中に、今日あたしが押させた判の帳面が、いずれ運ばれていく。
あたしは足を止めなかった。止まって見上げたりしたら、そのほうがよほど目立つ。
帰り道、荷台は行きより軽かった。軽いのに、行きよりずっと重い気がした。
***
盆地に戻ったのは、出てから七日目の夕方だった。
白原の縁で、ガルドが杭を打っていた。地面に縄を張って、その脇に細い杭が等間隔に並んでいる。
「何それ」
「線だ」
ガルドは汗を拭いて、盆地の北を指した。
「魔物が入ってくる口は三つある。北の崩れた堰の脇、東の涸れ沢、南の岩場だ。三つとも、水が流れてた跡をなぞってやがる」
「……水の道を歩いてくるの?」
「窪んでるからな。獣も魔物も、楽なところを通る」
それで縄は、三本の谷筋の手前に張られていた。柵を組むほどの木も人手もない。だから杭と縄と、夜に鳴る鈴だ。
「防げるの、これで」
「防げねえよ」
ガルドはあっさり言った。
「気づけるだけだ。気づければ、逃げられる。畑一枚と人十七人なら、逃げるほうが安い」
守れないものを守るふりをしない。この男もこの男で、勘定が合っている。
あたしは荷台から釘の袋を下ろした。日が沈みかけて、白原が薄い橙に染まっていた。
白原の北のはずれに、緑が一枚ある。売ってきた麦は、あの一枚から出た。
「――ステラ」
ダンだった。街道のほうを見ている。
振り返って、あたしは荷台の縁を掴んだ。
東の街道に、土煙が上がっていた。馬が四頭。荷馬ではない。旗を立てた馬だ。
その後ろに、歩きの一団が続いている。
「役人だ」
ダンの声は、低かった。
お読みいただきありがとうございます。
売らなければ回らない、売れば知られる。ステラが門をくぐるときに払ったのは、通行税だけではありませんでした。
次回、東からの一団が盆地に入ります。彼らが持ってくるのは剣ではなく、二十年前の紙です。
ブックマークと評価は、盆地の鍬と鎌の代金に充てさせていただきます。




