第50話:二十年ぶりの麦
三十日目の朝、白原に金色の四角があった。
まわりは相変わらず塩の白だ。その中に、五反ぶんだけ、穂の色がある。風が吹くと、その四角だけが波を打った。
誰も畑に入らなかった。石村の全員が縄の外に立って、それを見ていた。入ったら消えると思っている顔だった。
「ねえ、ひとつ聞いていい?」
ステラが俺の横で腕を組んでいた。
「麦って、蒔いてから穫れるまで三月かかるよね。あたし、麦の値で飯食ってんだから間違えないよ」
「かかる」
「じゃあ、これ何」
「急がせた」
俺は畑を見たまま答えた。
「【領地創造】の中に、生産強化ってのがある。ルーナ領で麦を早めたことがある。土と水が揃ってるところに領地エネルギーを注ぐと、育つ速さが上がるんだ」
「便利じゃん」
「便利だ。ただ、注いだ分は消える」
俺は指で四角を囲ってみせた。
「この二十日で溜まったぶんは、全部ここに入った。堰にも街道にも一粒も回してない。次にこれをやったら、また同じだけ何も進まなくなる」
「……つまり、二度目は無いってこと」
「無い」
ステラは口をへの字にして、それから、少しだけ笑った。
「まあ、そのほうがあんたらしいよ」
「褒めてるのか」
「半分ね。もう半分は、そんな手があるなら盆地じゅうでやれって言いたい」
「やったら、次の冬に全員飢える」
「わかってるって」
彼女は肩をすくめて、麦の穂を一本引き抜き、指の腹で揉んだ。殻が割れて、粒が転がった。
「……ほんとに麦だ」
商人の目が、少しだけ潤んでいた。
***
鎌が足りなかった。
この土地に刈るものが無かったのだから当たり前だ。納屋から出てきたのは五挺で、そのうち三挺は柄が折れていた。ガルドが鉈で柄を削り直し、ヨナが砥石を出してきた。
最初の一振りを、誰が入れるかで揉めた。
「領主さまがやりゃいいだろ」
ガルドが言い、俺は首を振った。
「ヨナさんだ」
「わしか」
「二十年、水を通した人が刈るべきだ」
老人は鎌を受け取って、しばらく持ち重りを確かめるようにしていた。それから縄をまたいで、畝の端にしゃがみ、根元へ刃を入れた。
しゃく、と乾いた音がした。
その音を聞いた瞬間、後ろで誰かが崩れた。
水を汲んでいた女だった。膝から落ちて、両手で顔を覆って、声も出さずに泣いていた。隣にいた老人が背中に手を置いて、その老人も泣いていた。
子どもたちは、意味が分からずに笑っていた。三人とも、麦が刈られるところを生まれて初めて見た。
ヨナは刈った一束を持ち上げて、それを高くも掲げず、ただ胸の前で見ていた。
「……穂が、詰まっとる」
老人はそれだけ言った。
あとは、みんなで刈った。
鎌の使い方を、誰も忘れていなかった。握っていなかったはずの手が、根元の高さを勝手に選んで刃を入れる。若い連中だけが下手で、そこを老人たちが指で示して直していた。
教える声が畑に飛び交うのを、俺は畦から聞いていた。
技を持っている人間が、それを使う場所を二十年待たされていた。土が死んでいた間、死んでいたのは土だけではなかったのだと、そのとき分かった。
ガルドが束を担いで通り過ぎざまに言った。
「なあ領主さま。これ、去年もあったみてえな顔してるぜ、みんな」
「そう見えるな」
「人ってのは、そういうふうにできてんだよ」
昼を過ぎる頃には、縄の中は切り株ばかりになっていた。束が積み上がって、荷車二台ぶん。ステラが目の色を変えて数え始め、途中で「これ、まともに売れる」と呟いた。
「粒が痩せてない。塩気も抜けてる。ラントの市に出したら、あたし、値を吊り上げられる」
「商人の顔になってるぞ」
「商人だからね」
彼女は束の一つを縛り直しながら、少しだけ声を落とした。
「……でもさ。これ、どこで穫れたって言えばいいの」
俺は答えなかった。まだ、答えを決めていなかった。
***
脱穀は、その日の夕方まで続いた。
筵の上で棒を打つ音が、石村じゅうに響いていた。この土地でいちばん賑やかな音だったと思う。
俺が井戸端で手を洗っていると、後ろから麦の束を投げてよこす奴がいた。
振り向くと、ダンだった。
「持てよ」
「ん」
「重さ、覚えとけ。……領主」
俺は束を受け取った手を、そのまま止めた。
「今、なんて言った」
「聞こえてただろ」
「あんた、じゃなかったか」
ダンは筵のほうへ顎をしゃくった。
「あんた、じゃ足りねえだろ、今日は」
それだけ言って、彼は行ってしまった。耳が赤かった。
俺は麦の束を持ったまま、しばらくそこに立っていた。
重かった。五反ぶんの一部でしかない束が、腕にずしりと来る。重さを覚えとけ、というのは、たぶんそういう意味だった。数字ではなく、腕で覚えろということだ。
井戸端の桶に、束の影が落ちていた。
署名の日、この男は「期待してねえからな」と言って名前を書いた。来ては帰る大人ばかり見てきた男だ。その男が呼び方を変えるのに、たぶん、この一枚ぶんが必要だった。
***
夜、集会小屋の前で火を焚いた。
麦粥だった。塩気の抜けた水で炊いて、干し肉を少し落としただけの粥だ。碗を配ると、みんな最初のひと口を、やけに時間をかけて口に運んだ。
自分たちの土地で穫れたものを食う。二十年ぶりだった。
肺を病んだ老人が、粥を半分残して眠ってしまった。ミリアが毛布を掛けてやりながら、小さな声で言った。
「今日、咳が少ないんです」
「風が止まったからか」
「そうだと思います。畑に草が生えたので、土が飛ばなくなって」
五反ぶんだ。盆地の広さからすれば、爪の先ほどの面積でしかない。それでも、風下にいる一人の呼吸が変わった。
俺は碗を持ったまま、そのことをしばらく考えていた。
その途中で、視界の隅に光の枠が浮かんだ。
《収穫を確認しました。領地レベル:1》
《現在のLE:214》
小屋の前がざわめいた。ヨナが碗を落としかけ、子どもが「ひかってる」と指をさした。
数字が、初めて上を向いていた。
この二十日、一日八しか動かなかった数字だ。それが収穫の日をまたいだだけで、桁がひとつ増えた。腹が満ちて、汲む水が近くなって、明日の心配が少し減った――その全部が、この数に化けている。
「上がったんか、領主さま」
「上がった」
「じゃあ、次の畑も直せるんか」
「直せる」
俺は言った。
「もう一枚、いける」
歓声が上がった。ガルドが誰かに酒を要求して、無いと言われて笑われていた。ミリアが子どもに囲まれて、麦の穂で作った輪を頭に載せられていた。
「次はどこじゃ、領主さま」
ヨナが碗を置いて身を乗り出す。
「北古水路の、もう一町先だ。上流の砂を掻き出せば、次の一枚に水が届く」
「掻き出すのは、わしの仕事じゃな」
「あんたしか、あの水路の底を知らない」
老人は「ふん」と鼻を鳴らして、それから、誰にも見えないふりで目尻を拭った。
二十万には、まだ遠い。桁は相変わらず足りない。
だが、この土地は今日、初めて自分で燃料を作った。ゼロと二百十四の間には、二十万との差より大きい何かがある。
火の向こうで、ダンが座っていた。
一人だけ、笑っていなかった。
彼は焚き火の炎ではなく、その先の暗い白原を見ていた。盆地の東。旧セルヴァ街道が、ラントの方角へ伸びている闇のほうだ。
「なあ、領主」
「なんだ」
「この麦、ステラが市に持ってくんだろ」
「そのつもりだ」
ダンは膝の上で指を組んだ。
「誰も来なかったのはさ。ここに何も無いって、みんなが思ってたからだよな」
小屋の前の声が、少しずつ小さくなっていった。
誰かが気づいて、隣の誰かを黙らせた。粥をかき混ぜる音だけが残った。
「よそに知られたら、どうなる」
お読みいただきありがとうございます。
領地レベルの豆知識をひとつ。この世界の領地レベルは、土地の広さでも建物の数でもなく「そこに住む人が今日を無事に終えられたかどうか」で動きます。だから領主が一人で頑張っても上がらないし、逆に十七人が腹いっぱい眠るだけで上がります。二十年前にセルヴァ盆地の数字が止まったのも、地脈が折れたからではなく、人がいなくなったからでした。
ちなみに麦を三十日で実らせる手は、この先しばらく使えません。使った分だけ、堰も街道も遠のくからです。
ブックマークと評価は、二枚目の畑の種籾代に充てさせていただきます。おかげさまで、一枚目は実りました。
次回、盆地から外へ、二十年ぶりの荷が出ます。運ぶのはもちろん、あの商人です。




