第49話:塩の下から、水が来る
朝いちばんに、縄が張られた。
北古水路の脇、光の枠が薄く緑を灯していた区画。四隅に杭を打って、麻縄で囲う。囲ってみると、思っていたより小さい。五反。麦畑にすれば、たった一枚だ。
静けさの中に、その四角だけが人の手の匂いをさせていた。
「これが、一の畑じゃな」
ヨナが縄の内側を覗き込んで言った。誰も名前を付けた覚えはないのに、その日の昼にはもう、石村の全員がそう呼んでいた。
「アルトさま。まず、何をしますか」
「塩を剥ぐ」
俺はしゃがんで、表土を指で削った。白い粉がぱらぱらと落ちる。
「上から指三本ぶんくらいが、塩を溜め込んでる。ここを剥いで、下の生きてる土を出す」
「剥いだ塩はどこへやるんじゃ」
ヨナの質問は的確だった。用水守は水の行き先を考える仕事だ。だから物の行き先も考える。
「そこが問題でな」
俺は立ち上がった。
「その辺に積んだら、雨で溶けて戻ってくる」
「じゃあ意味ねえじゃん」
縄の外から、ダンの声が飛んだ。
「東の窪地」
彼は顎で盆地の東を指した。
「あそこは水が集まらねえ。周りより高い縁で囲われてるし、雨のあと行っても濡れてねえ。鹿もあそこには行かない」
俺は少し驚いて、若い狩人を見た。
「なんで濡れてないって分かる」
「二十年、獣追って歩いてんだよ。どこが濡れてどこが濡れねえかくらい、体で覚える」
その日のうちに、東の窪地まで見に行った。ダンの言うとおりだった。周りより地面が硬く、塩の吹き方も違う。ここなら、剥いだ土を積んでも水に戻らない。
石村の連中が、荷車を三台引っ張り出してきた。使う理由が無くて納屋で埃をかぶっていた車だ。車軸が固着していて、ガルドが油を差して蹴り込んで、ようやく回った。
「使うもんが出てくるのが、いちばん景気がいいな」
護衛長は満足そうに車輪を回していた。
荷を運ぶ道も、ダンが決めた。畑から東の窪地まで、獣道を継ぎ足した一本の筋。まっすぐ引くより半町長いが、途中に登りが無い。
「荷車ってのは、登らせると人が死ぬ気になる」
「それも昔からの知恵か」
「鹿を担いだ回数の話だよ」
***
この数日で、数字の伸び方が変わった。
十七人が一日暮らして八、だったはずの増えが、十を超え、十二を超えた。畑に出て、荷車を押して、夜に土の話をして眠る。それだけで数字が動く。人が明日を数え始めると、この土地は目を覚ますらしい。
十二日目の午後、俺は畑の角に立って掌を土に当てた。
やることを、頭の中でもう一度なぞる。表土を三寸だけ剥ぎ、東へ送る。そのあと、地下を走る真水の脈から、細い導管を一本だけ引き上げる。
太い管は要らない。要るのは、五反ぶんを潤す最小の一本だ。
《【地形操作】を実行します。消費LE:60》
地面が、鳴った。
畑の四角の中で白い表土が波のように盛り上がり、縄の外へ押し出されていく。塩の層が捲れて、下から黒い土が現れた。二十年、塩に蓋をされて眠っていた土だ。
石村の女が悲鳴のような声を上げた。土が黒いというだけのことで、誰かが泣き出した。
そして、地の底から低い音が上がってきた。
畑の隅に、水が滲んだ。
最初は染みだった。それが小さな渦になり、細い柱になって、地面の上へ盛り上がった。指の太さもない。だが、透き通っていた。
ダンが真っ先に走ってきて、手を突っ込み、掬って、舐めた。
彼はそのまま動かなくなった。
「……甘え」
「塩気が無い」
俺は言った。
「地下真水脈だ。塩水層の下を、ずっと流れてた」
「ずっとって」
「二十年前も、その前も。誰も届かなかっただけだ」
問題は、そのあとだった。
水は湧いた。だが、湧いた場所から畑の全体へ広げる道がない。俺の手持ちは、もうほとんど残っていなかった。
《現在のLE:3》
水路を新しく掘るには足りない。人力で掘れば、まっすぐには掘れても、勾配は狂う。水は高いところへは行かない。
俺が黙り込んだとき、ヨナが縄をまたいで入ってきた。
「領主さま。北古水路は、どこまで水が来るんじゃ」
「三分の一も通ってない。砂で埋まってる」
「埋まっとるのは上流じゃ」
老人は杖の先で地面を叩いた。
「この畑の脇の一町は、わしが毎年さらっとる。石も組み直した。あそこは、今日水を入れても流れる」
俺は水路の縁まで走った。
覗き込んで、しゃがんで、底を指でなぞった。
勾配が、生きていた。二十年、誰も使わない水路を、この老人はひとりで掃除し続けていた。塩の中を歩いてラントの役所まで行って、窓も開けてもらえずに帰る、その帰りに。
「ヨナさん」
「なんじゃ」
「あんたの掃除した一町があれば、俺は水路を掘らなくていい」
老人は、すぐには意味が分からない顔をした。
それから、ゆっくりと縄の外へ出て、水路の縁に腰を下ろした。しばらく杖を握ったまま、白原ではなく足元の石を見ていた。
誰も声をかけなかった。
その日から四日、石村の全員が畑に出た。老人は座って石を選り分け、女たちは荷車を押し、子どもは水を運んだ。俺は湧き水の口から水路の縁まで、細い溝を人の手で切る指示を出した。掘るのは人がやる。俺は勾配だけを見た。
二日目に、溝が一度死んだ。
途中の一間だけ掘りすぎて、水が溜まってしまう。ヨナが杖で底を突いて、ここを埋め戻せと言った。埋め戻すのに半日かかった。
「掘るより埋めるほうが、いつでも長うかかる」
老人はそう言って笑った。人に教える顔をしていた。
三日目には、子どもが自分から桶を持ってくるようになった。誰も命じていない。畑に人がいるから、そこへ行く。それだけのことだった。
十六日目、水が畑に入った。
黒い土の上を、薄く光りながら水が広がっていく。ダンが畦に立ったまま、動かなかった。
***
「アルトさま」
水が行き渡った翌朝、ミリアが畑にしゃがんでいた。
「この土、まだ静かです」
「静か?」
「はい。生き物の気配がしません」
俺は土をひと掬いして、指で崩した。彼女の言うとおりだった。塩に灼かれた土には、虫も、根も、目に見えない小さいものも、ほとんど残っていない。水が来ても、土はまだ死んだままだ。
これを戻すには、普通なら何年もかかる。
「……あの、やってみても、いいですか」
ミリアが掌を土の上にかざした。
柔らかい光が、指の間から落ちた。人の傷を塞ぐときと同じ光だ。あの村で、彼女が何度も俺たちに向けてきた光だった。
光が土に触れて、しみ込んだ。
しばらく何も起きなかった。ミリアが「やっぱり駄目ですね」と言いかけたとき、湿った土の表面が、小さく動いた。
白い糸のようなものが、一本、土の中で伸びた。かびに似た、細い菌の糸だ。それが二本になり、面になり、掌ほどの範囲がうっすらと白く覆われた。土の匂いが変わった。
その脇で、ミミズが一匹、身をよじって潜っていった。
「……効くのか」
「効く、みたいです」
ミリアが自分の手を見ていた。
「人だけだと思ってました」
「生きてるものなら、同じなんだろうな」
俺は言った。言いながら、自分の声が少し震えているのが分かった。
この光は、人を癒す力だとずっと思っていた。だが、土の中の見えないものにも届く。それはつまり、この土地を直す手が、俺の他にもう一組あるということだ。
ミリアは真っ赤になって、俺と土を交互に見ていた。
***
十八日目の朝、ダンが石村を走って戻ってきた。
息を切らしていた。狩りで山を駆ける男が、たった十町を走って息を切らしていた。
「おい」
「どうした」
「来いよ」
畑の縁に、十七人が集まっていた。誰も喋らない。ヨナが真ん中にしゃがんで、地面の一点を指さしていた。
黒い土の上に、緑の点が並んでいた。
筆の先ほどの、細い芽。それが畝に沿って、まっすぐに、いくつも。
誰かが数え始めて、途中でやめた。数え切れなかったからだ。
お読みいただきありがとうございます。
今回は塩害の直し方について、少しだけ裏話を。現実の塩害地でも、まずやるのは「塩を溜め込んだ表土をどけること」と「下から真水を通して塩を洗い流すこと」で、この二つが揃わないと畑は戻りません。作中でアルトが導管一本にこだわったのは、水を出すことより「水が抜ける道」を作るほうが難しいからです。
そしてもうひとつ。塩害の土がいちばん時間を食うのは、実は塩ではなく、土の中の小さな生き物が全滅していることのほうです。そこを飛ばせる手が、この一行にはいました。
次回、三十日目。この土地で、二十年ぶりに麦が実ります。




