第48話:直せる土地と、足りない桁
光の線は、日が落ちても消えなかった。
白原の上に薄く引かれた区画の境が、夜の中で青白く浮いている。石村の連中は日が暮れても外に出て、それを眺めていた。それだけのことで、誰も家に入ろうとしなかった。
俺は集会小屋に戻って、紙を広げていた。
やることは、もう見えている。セルヴァ堰を直し、地脈の断裂を繋ぎ、盆地全域の表土から塩を抜く。順番も分かる。手順も書ける。
書けるのに、書いた端から線を引いて消していた。
「辛気くさい顔してんね、領主さま」
ステラが湯の入った碗を置いた。塩気のある水を煮沸して、上澄みだけ掬ったやつだ。それでもまだ、少ししょっぱい。
「ステラ。商売を始めるのに、元手が要るよな」
「そりゃそうでしょ」
「元手はどこから来る」
「商売したら入ってくるけど」
ステラは碗を持ち上げかけて、止めた。
「……あれ。それ、詰んでない? 元手がないと商売できない、商売しないと元手ができない」
「詰んでる」
俺は紙を裏返した。
「今の盆地が、それだ」
***
「そもそもさ」
ステラが床にあぐらをかいた。
「その元手ってのは、どこから湧いてくるわけ。あんたが念じたら出るの」
「出ない。俺は使うだけだ」
「じゃあ誰が出してんの」
「そこの連中だ」
俺は戸の外を指した。光の線を見に行ったまま帰ってこない十七人のほうを。
ルーナ領にいた頃、俺はこの数字が増えるのを毎日見ていた。井戸が湧いた翌朝に増え、麦が実った日に大きく増えた。逆に、村人が腹を空かせている間はほとんど動かなかった。
「領地の力ってのは、住んでる人間の暮らしから出る。飯を食って、水を飲んで、明日の心配をしないで眠る。その分だけ、俺の手が使えるようになる」
「幸せの取り立てじゃん、それ」
「言い方な」
「つまり、人が普通に食って、寝て、笑ってる分だけ溜まるってことだろ」
ガルドが薪をくべながら言った。
「なら簡単じゃねえか。人を増やせ」
「その人たちは、何を食う」
「……ああ」
護衛長が黙った。
人がいなければ土地は直せない。土地が直らなければ人は来ない。王国がこの盆地を捨てたのは、たぶん、この輪をどこかで切る覚悟が誰にも無かったからだ。
夜が明けて、光の枠に数字が出た。
《現在のLE:8》
十七人が一日暮らして、八。
俺は堰の復旧に必要な数を思い出した。盆地全域で二十万。この調子で溜め続けたら、六十年以上かかる。
***
朝から、盆地を歩いた。
ヨナとダンが付いてきた。ヨナは杖で、ダンは弓を背負って、俺の三歩後ろを歩く。
最初に、セルヴァ堰の下に立った。
近くで見ると、崩れ方がよく分かる。石が抜けているのではない。基礎から捩れている。地の底が動いた力が、そのまま石に残っていた。
「直せんのか」
ダンが聞いた。
「直せる。手順も分かる」
「じゃあ直せよ」
「今やったら、俺の手持ちが全部消えて、水は一滴も来ない」
俺は堰の上を指した。
「ここを直しても、上流の地脈が折れたままなら水が来ないんだ。堰は最後だ」
次に、旧セルヴァ街道の東の端まで歩いた。
使われていない道は、思ったよりきれいに残っていた。轍の跡さえ見える。ここを直せば、ラントから人が来る。人が来れば、暮らしが増える。
「街道を先に開けたら、どうじゃ」
ヨナが言った。
「ここへ来て、あんたらは何を食う」
「……麦が無いのう」
「無い」
俺は道の先を見た。塩の白がどこまでも続いている。旅人がこれを見たら、たしかに引き返す。
最後に、白原のまん中に立った。
ここを丸ごと直せば、全部が一度に片づく。塩を抜いて、水を通して、盆地じゅうを麦にする。
俺は掌を土に当てた。塩の層の厚みが、指の先から伝わってくる。三寸。いや、場所によっては半尺近い。これを盆地じゅうから剥ぐ数を、光の枠が弾き出した。
見なかったことにして、手を下ろした。
「どうじゃ」
「桁が二つ多い」
「二つ」
「三日で一の位が変わるとしても、この土地が直る速さより、俺が老いる速さのほうが早い」
ヨナは何も言わず、白原の土を一掬いして、指の間から落とした。粉のように散った。
諦める、というのは意外と体力を使う。三つ諦めるのに、丸一日かかった。堰を諦めたときは平気だった。街道を諦めたときは少しこたえた。白原を諦めたときは、しばらく口がきけなかった。
(三つ、置いてこられましたね)
内側でレムナントの声がした。丁寧で、いつもどおり少し人を食っている。
(褒めてるのか、それ)
(数えただけです)
それきり、声は引っ込んだ。慰めもしないし、急かしもしない。この相棒は昔からそうだ。
直し方が分かる土地を前にして、直さないと決める。かつて俺は、同じ判断をする書類に何度も判を押していた。押される側に回ってみると、まるで別の作業だった。
夕方、石村に戻った。
水を汲む女がいた。井戸は塩辛いので、北古水路の脇に溜まった雨水を桶で運んでいる。往復で半刻かかると言った。
「一日に何度行く」
「四度。夏はもっと」
女は当たり前の顔で答えた。それが当たり前だったからだ。
肺を病んだ老人が、戸口の陰で咳をしていた。ミリアが横に座って光を当てている。癒しても、翌日また同じだけ咳をする。空気に塩が混じっているせいだ。
「アルトさま。この方、たぶん風のせいです」
彼女は白原のほうを向いた。
「乾いた土がずっと飛んでくるので、いくら塞いでも、そこから戻ってしまって」
「土に草が生えれば止まる」
「……草を生やすのも、あの数字が要るんですね」
「要る」
ミリアは、それきり黙って老人の背中をさすっていた。
子どもが三人、線の上を跳んで遊んでいた。区画の境をけんけんで渡る遊びらしい。二十年、この土地に遊び場は無かった。
いちばん小さい子が線を踏み外して転び、泣きかけて、笑ってまた立った。
その一部始終を、俺は妙な気持ちで見ていた。あの子が転んで、それでも泣かずに済んでいることが、この土地の勘定に入っている。
俺は、そのひとつひとつを数字として見ていた。
厭な見方だと思う。だが、この人たちが一日を無事に終えることが、そのまま盆地の燃料になっている。桶を運ぶ距離が半分になれば、数字が動く。咳が止まれば、数字が動く。
この土地では、誰かが楽になることと、土地が直ることが、同じ一本の線でつながっている。
ヨナが隣に来て、白原を眺めた。
「わしが用水守になった年に、堰の下の水が塩辛くなり始めての。次の年に、地の底が鳴った」
「……次の年に?」
「ああ。よう覚えとる。堰が壊れた日は、雷みたいな音がしたでな」
俺は口を開きかけて、閉じた。
台帳では順番が逆だ。地脈が折れて、それから塩が上がってきたことになっている。
(……一年、合わない)
言い間違いだろう。二十年も前の話だ。老人の記憶が一年ずれることなど、いくらでもある。
俺は、それ以上聞かなかった。今日、聞くべきことではなかった。
***
その夜、俺は十七人の前で紙を広げた。
「堰は直さない。街道も開けない。白原にも手をつけない」
ダンが鼻で笑う音が聞こえた。
「じゃあ何をすんだよ」
「畑を、一枚だけ直す」
俺は指で紙を叩いた。
「五反。麦が一枚ぶんだ」
「一枚?」
「一枚だ。ここに全部を注ぐ」
誰かが「そんなもんで」と言いかけて、ヨナが手を上げて止めた。
「どこの一枚じゃ、領主さま」
「北古水路の脇の、緑が残ってた区画」
老人の背が、わずかに伸びた。
「あんたが水を通してた場所だ。この盆地でいちばん死んでない土がそこにある」
ヨナは何も言わなかった。ただ、杖を握る手にゆっくり力がこもるのが見えた。
ダンが壁際で腕を組んだまま口を開いた。
「一枚で足りんのかよ」
「足りない」
俺は正直に答えた。
「でも、一枚が実れば、次の一枚を直す元手になる」
お読みいただきありがとうございます。
今回、アルトは三つ諦めました。堰も、街道も、白原も、直し方は分かっているのに手を出せない。彼にとっていちばんきついのは、できないことではなく「できるのに、今はやらない」と決めることだったと思います。
ひとつ、皆さまに聞いてみたいことがあります。もし手持ちが八しかなくて、必要な数が二十万だと分かったとき、あなたなら最初にどこへ注ぎますか。彼は畑を選びましたが、街道を選ぶ人もいるはずです。
次回、一の畑に鍬が入ります。二十年掃除され続けた水路が、ようやく仕事をします。




