第47話:《領主権を確認しました》
三日かかった。
ヨナが守っていた領地台帳と、俺の頭の中に残っている王都の条文を、片っ端から突き合わせた。石村の集会小屋の床に紙を並べ、蝋燭を三本潰した。
そして五日目の朝、俺は顔を上げた。
「――あった」
ステラが目をこすりながら起き上がる。
「何が」
「領主になる方法だ」
俺は台帳の一枚を指で叩いた。
「カセルの裁可は、要らない」
「……は?」
ステラの目が、一気に覚めた。
「昨日『裁可が要る』って言ってたのあんたじゃん」
「昨日は、正式な領主になる道しか見てなかった」
王都の役所にいた頃、俺は毎日この手の条文を読んでいた。ほとんどは死んでいる。使われないまま、消される理由も無いまま、分厚い法典の奥で埃をかぶっている。
役所で腐るほど見た退屈な紙が、こんなところで役に立つとは思わなかった。
***
集会小屋に、十七人が集まった。
埃と、麦の穂を燃やす匂い。ヨナが前に座り、ダンが壁際に立ち、あとの十五人は床に膝を抱えている。老人が多い。子どもは三人だ。
「王国の土地の法に、古い条文が一つ残ってる」
俺は台帳を伏せて、そこから話した。
「災いで人が逃げた土地を、残った人たちが自分たちで立て直すための決まりだ。二百年前、東の大水のあとに作られた」
「難しい話は分からんよ、領主さま」
ヨナが言う。俺は頷いた。
「じゃあ、三つだけ言う」
指を三本立てた。
「一つ。ここに住んでる人が全員『この人でいい』と言えば、暫定の領主を立てられる」
「二つ。土地が現に手入れされてる証拠が要る」
「三つ。監督官には――届けを出すだけでいい。許可はもらわなくていい」
ダンが壁から背を離した。
「なんで許可が要らないんだよ。役所ってのは全部許可だろ」
「監督官の許可が要るのは、正式な領主だ」
俺は言った。
「暫定領主は違う。放っておかれた土地が腐る前に、住んでる連中が勝手に立て直せるようにするための決まりだからな。役所が来ない前提で書いてある」
「……そんな都合のいい話が」
「都合がいいんじゃない。二十年、誰も来なかったから使えるんだ」
俺は台帳の綴じ目を開いた。そこには、ヨナがつけ続けた記録がある。
「ヨナさん。あんた、毎年ここへ年貢を納めに行こうとしてたな」
「……ああ。ラントの監督府まで、はじめの数年はな」
老人は皺の中の目を伏せた。
「受け取ってくれんかった。『無い土地からは、取らん』と。書類の窓すら開かんかった」
「その帰りに、あんたは水路を掃除して帰った」
「……そりゃあ、まあ。ついでじゃ」
「ついでじゃない」
俺は言った。
「この土地を手入れしてきた記録だ。二つ目の条件は、これでもう満たしてる」
ヨナが顔を上げた。
二十年、誰にも受け取られなかった紙が、はじめて受け取られた顔だった。
***
署名は、その日の昼に始まった。
筆を持てる者は名を書き、書けない者は墨をつけた親指を押した。ヨナが最初だった。震える手で、驚くほど整った字を書いた。用水守は帳面をつける仕事でもあるのだと、そのとき知った。
二人目、三人目。老人たちが順に前へ来る。
子どもの一人が「なまえ、まちがえたらどうしよう」と半泣きになって、ミリアが横についてやった。
「まちがえても大丈夫。私も昔、自分の名前をずっと書けませんでしたから」
「うそだ」
「本当です。隠してましたから」
十六人目まで来て、列が止まった。
ダンだけが、壁際から動かなかった。
「――ダン」
ヨナが呼んだが、若い狩人は腕を組んだままだった。
「あんたさ」
俺を見る。
「直せなかったら、どうすんの」
「二十年、俺たちここにいるんだよ。何度も、誰かが『助けに来た』って言って来た。学者も、坊主も、山師も。全員、白原を見て帰った。帰らなかった奴は死んだ」
ダンの声は、怒っていなかった。それがきつかった。
「あんたが名前をもらって、直せませんでした、って帰ったら、次はもう誰も来ないよ。俺たちは『やっぱり駄目だった土地』になる」
俺は、すぐには答えなかった。
できます、と言うのは簡単だ。でもそれは、この男が聞き飽きた言葉だ。
「直せるかどうかは、分からない」
俺は言った。
「土がどれだけ死んでるか、水脈がどこで折れてるか、まだ何も測ってない。測ってないことを『できる』とは言わない」
「……はっ」
「ただ、一つだけ言える」
俺は台帳を持ち上げた。
「俺は、白原を見て帰るために三日も寝ないで条文を掘ったりしない」
ダンが、初めて目を逸らした。
しばらくして、彼は壁から離れ、机の前まで来た。筆を取って、乱暴に名前を書いた。
「言っとくけど、期待してねえからな」
「知ってる」
「……ちっ」
***
十七人ぶんの名前と爪印が並んだ紙を、俺は両手で持ち上げた。
その瞬間だった。
視界の隅に、淡い光の枠が浮かんだ。ルーナ領で毎日見ていた、あの枠だ。
《居住者の総意を確認しました》
《継続的な土地管理の事実を確認しました》
小屋の中がざわりと揺れた。俺以外にも見えている。ルーナ領のときと同じだ。領地の中にいる人間には、この光が見える。
《暫定領主権を確認しました。スキル認証を開始します》
指先から、腕を通って、背中の芯へ何かが抜けていった。
《領地登録:セルヴァ盆地》
《領主:アルト・フェーン》
《領地レベル:1》
――1か。
ルーナ領は3まで行った。だがそれはあの土地の数字だ。土地が変われば、また一から積む。当たり前のことなのに、目の前に出されると少しこたえた。
《領民:17》
《現在のLE:0》
そして、光の枠が一気に広がった。
小屋の壁を越え、外へ。白原の上を、水路の跡を、崩れた堰を、盆地の縁の山まで――薄い光の網が走っていくのが見えた。
みんなが外へ飛び出す。俺も出た。
白い大地の上に、光の線が引かれていた。かつて誰かが引いた区画の境が、空の下に姿を現している。
《地形走査を完了しました》
《表層塩分濃度:基準値の4.2倍(作付不能)》
《地脈:断裂(20年経過・自然回復の見込みなし)》
《利用可能水源:地下真水脈(深度あり)/北古水路(通水率3%)》
《セルヴァ堰:破損(機能停止)》
「……なんだこれ」
ダンが呆然と呟いた。
彼が指さしているのは、光の線ではなかった。線に沿って、白原の一区画がゆっくりと色を変えている。塩の白の上に、薄い色分けが乗った。作付不能の赤、辛うじて土が生きている黄、そして――北古水路の脇に、ほんのわずかな緑。
「あすこ、生きとるんか」
ヨナの声が震えた。
「わしが、水を通しとったところじゃ」
「ああ」
俺は言った。
「あんたが二十年守った分だけ、この土地はまだ死んでない」
老人は口を開けたまま、何も言わなかった。子どもたちが緑の区画へ走っていく。誰かが泣いていた。誰かが笑っていた。
ガルドが白原を見渡して、低く言った。
「……こりゃ、広いな」
「広い」
「守るのは骨が折れるぞ」
「知ってる」
ステラは早くも指を折って何かを数えていた。
「区画の境が見えるってことは、どこが誰の畑だったか分かるってことだよね。そんなの、外の役所は一枚も持ってない」
商人の目だ。この女は、光を見た瞬間に値札を見ている。
ダンは、まだ立ち尽くしていた。
二十年、白いだけだった土地に、色がついた。それだけのことなのに、彼は何度も瞬きをしていた。
ミリアが俺の袖を引いた。
「アルトさま。あの、いちばん下」
光の枠の最下段に、まだ一行残っていた。
《盆地全域の推定復旧LE:200,000》
俺は、自分の手元の数字を思い出した。
《現在のLE:0》
――桁が、まるで足りない。
お読みいただきありがとうございます。
第2部でいちばん書きたかった場面が、この回でした。第1部で読者の皆さまが気持ちよさそうにしてくださったのは、井戸や畑が「数字になって見える」瞬間だったと思います。それを村ではなく、盆地まるごとの規模でもう一度やりたかった。
ちなみにアルトが見つけた条文は、実在の制度でいう「無主地の管理」に近いものを想定しています。役所が来ない土地ほど、古い法律が生き残る――というのは、たぶんどの世界でも同じです。
さて、盆地は見えました。見えたぶん、足りないものもはっきりしました。次回、アルトは「全部直す」を諦めます。
ブックマークと評価は、一の畑の種籾代に充てさせていただきます。




