第46話:二十年、誰も座らなかった領主席
朝の石村は、思っていたよりも音が多かった。
砂を掻く音、火を熾す音、水を運ぶ桶の軋み。捨てられた土地の朝は、ちゃんと働く音から始まる。
俺たちは、村の集会所だったという建物に通された。屋根の半分は落ちていて、そこだけ空が見えている。落ちた側には、きちんと砂よけの板が渡してあった。
ヨナが、部屋の隅の長持ちを開けた。
中から出てきたのは、油紙で厳重に包まれた束だった。老人はそれを卓に置き、包みを一枚ずつ剥いでいく。
現れたのは、革表紙の帳面が三冊と、木札を麻縄で束ねたもの。
「セルヴァ盆地、領地台帳」
ヨナが言った。
「役所が焼く前に、わしが担いで出た」
「焼く前に」
「引き上げの日にな、書類を積んで火をつけとった。ようやるわ、と思うたよ。……いらん紙もあったろうが、これは、いる紙じゃ」
俺は、そっと表紙を開いた。
最初の見開きは、境界の図だった。盆地の外周を線でなぞり、東西に旧セルヴァ街道が走り、北にセルヴァ堰。そこから枝分かれした用水路が、細い線で盆地じゅうに広がっている。
線の一本一本に、番号が振ってあった。
その次が石高の記録だ。区画ごとに、年ごとに、収穫の数字が並んでいる。良い年と悪い年の起伏が、そのまま指でなぞれる。
そして三冊目が水利の記録。どの区画がどの水路から取水し、渇水の年には誰が先に水を使うか。順番と、その理由まで書いてある。
「ステラ」
「うん、見てる」
ステラが横から覗き込んで、低く口笛を吹いた。
「これ、書き方が商会の元帳と同じだ。……ううん、こっちのほうが丁寧かも」
「分かるのか」
「あたしが売ってるのは麦だよ、領主さま。麦の値段は、どこの畑がどれだけ穫れるかで動くの。産地の帳簿はね、読めなきゃ買い叩かれる」
彼女は指で数字の列を追った。
「――ねえ。この盆地、悪い年でも他所の良い年より穫れてる」
「そうか」
「そうか、じゃないよ。こんな土地、王国のどこにも無いって」
***
俺は木札の束のほうを手に取った。
麻縄を解くと、薄い板が何十枚も出てきた。どれも同じ形で、同じ書式だ。上に年号、下に数量、そして脇に短い一行。
その一行を読んで、俺は手を止めた。
“受納せず。当該地は回復不能地につき、納入の対象たり得ず”
同じ文が、次の札にも、その次の札にもあった。
「ヨナさん」
「うん」
「これは何だ」
「年貢じゃ」
老人は、火にかけた湯を見ながら言った。
「秋になるとな、麦を担いでラントまで行く。東部監督府の門で、これだけ穫れましたと言うて置いてくる。そうすると、そういう札をくれる」
「……受け取らない、という札を」
「そうじゃ」
「毎年か」
「毎年じゃ」
俺は札の束を、もう一度数えかけて、やめた。二十年ぶんだ。それだけ分かれば十分だった。
ステラが眉を寄せた。
「ヨナさん。それ、無駄足じゃない?」
「そうじゃな」
「じゃあ何で」
「納めんかったら」
ヨナは湯を注いだ。手元は少しも揺れなかった。
「この土地は、本当に無うなる」
その一言で、部屋が静かになった。
俺は木札を卓に戻した。指先が、少し冷たくなっていた。
行政官だった頃、俺はこういう札を出す側の部屋にいた。書式を整えて、判を押して、次の書類に移る。あの部屋では、札の向こうに麦を担いだ老人が立っているとは、誰も思っていなかった。
「ヨナさん。この札、全部見せてもらっていいか」
「何ぞ出てくるかの」
「出てくる」
俺は言い切った。
根拠はあった。この一文を書いた役人は、二十年間、うっかり同じ間違いを繰り返している。
昼を挟んで、俺とステラは札と帳面を突き合わせた。
「まず、ここだ」
俺は札の文面を指した。
「『納入の対象たり得ず』とだけ書いてある。これは徴税を止めるという意味だ。土地が誰のものかについては、一言も書いてない」
「……そこ、違うの?」
「まるで違う」
俺は帳面の最初の頁をめくり返した。
「王国の土地は、必ずどこかに帰属してる。領主が持つか、王家が直に持つか、どちらかだ。セルヴァ盆地はもともと領主のいない土地で、東部直轄地――つまり王家が直に持ってた」
「へえ。じゃあ捨てたときに、王家が手放したんじゃないの」
「手放すには手放すための書類がいる。売るか、下げ渡すか、廃絶を決めるか。そのどれかを踏まないと、帰属は動かない」
ステラが、ゆっくりと目を丸くした。
「……その書類、無いって言いたいわけ」
「無い。少なくとも、ここに札を出し続けた役所は、この土地を『王国の土地だが徴税しない場所』として扱ってる。だから毎年、律儀に受納拒否の札を書いてる」
「捨ててないってこと?」
「捨てたつもりで、書類上は抱えたままだ」
俺は、卓の上の三冊を並べ直した。
「回復不能地の指定は、土地を無くす手続きじゃない。仕事を減らす手続きなんだ。道を直さない、税を取らない、被害の報告を上げない。それだけをまとめて止めるための紙だ」
言いながら、自分が見た書類の山を思い出していた。
あれは、そういう紙の山だった。誰かの土地を消したのではなく、誰かの仕事を消しただけの紙。だから軽い。だから、あんなに簡単に判が押せた。
そして――消えていないものが、一つ残っている。
「ヨナさん」
俺は顔を上げた。
「この盆地に、最後に領主がいたのはいつだ」
「領主?」
老人は、意外なことを聞かれた顔をした。
「おらんよ。ここは代官所が回しとった。領主席は、わしが子供の時分から空じゃ」
「空のまま、二十年か」
「空のまま、ずっとじゃな」
俺は椅子の背に体を預けた。
空位だ。誰も座っていない席が、書類の上にだけ、律儀に残っている。役所は毎年その席の分の紙を出し続け、誰も座らないままだった。
(……座れる)
胸の奥で、何かが噛み合う音がした。
***
その夜、村の焚き火の脇に、ダンが座っていた。
俺が近づくと、あからさまに顔を逸らされた。だが、立ち去りはしなかった。
「あんた」
「なんだ」
「昼間の話、ヨナ爺が笑ってた」
「笑われたのか」
「違う」
ダンは焚き火に枝を放り込んだ。
「あの人、笑うと目が濡れるんだ。俺、ガキの頃から二回しか見てない」
火の粉が上がって、消えた。
「あんたが読んでるやつ、爺が毎年ラントまで担いでった札だろ」
「ああ」
「俺、あれ無駄だって言った。去年、面と向かって言った」
ダンは膝を抱えたまま、火を睨んでいた。
「片道六日だぞ。あの歳で、麦担いで。突き返されるって分かってて」
「……」
「無駄じゃなかったのか」
俺は、しばらく答えを探した。慰めではないものを探すのに、少し時間がかかった。
「無駄なら、俺は今日、何も読めなかった」
ダンは何も言わなかった。
ただ、焚き火の反対側へ回ろうとしていた体が、そのままそこに残っている。それだけのことだ。
だがこの村に来てから、こちらへ動いたものは、それが最初だった。
「……あんた」
「なんだ」
「爺の札で何か変わるなら、変わるとこまでやれ」
ダンは立ち上がって、暗がりへ歩いていった。振り返らなかったが、去り際に一本、新しい枝を火にくべていった。
***
翌朝、俺は台帳の最後の頁を開いていた。
そこには、領主任命の手続きが書いてある。古い書式だ。住民の合意、実効支配の実態、そして――。
「ヨナさん。ここに『東部監督官の裁可を要す』とある」
「ああ」
「今、その職にいるのは誰だ」
老人が湯呑みを置いた。
置く音が、やけに大きく聞こえた。
「カセルさま、というお人じゃ」
ヨナは、初めて言いにくそうに口を動かした。
「二十年、わしの麦を突き返してきたお人じゃよ」
お読みいただきありがとうございます。
「無い」ことにされた土地に、二十年、律儀に年貢を担いでいく老人の話でした。
受け取ってもらえないと分かっている麦を担ぐのは、傍から見れば無駄です。実際ダンはそう言いました。ただ、その無駄がなければ、二十年ぶんの証拠はこの世に一枚も残っていません。無駄かどうかを決められるのは、たいてい、ずっと後から来た誰かだけなのだと思います。
次回、アルトが空いたままの席に手を伸ばします。座るための条件は、意外なところに書いてありました。




