第45話:「領主さまなら――まだ、台帳が残っとる」
塩の白は、朝の光を受けると、雪よりも硬い色に見えた。
夜が明けきる前に、俺たちは野営を畳んだ。煙の上がっていた方角へ、白原をまっすぐ北へ歩く。
足元は乾いた粘土のようで、踏むたびに薄い皮がぱりぱりと割れた。割れ目の底だけが、わずかに湿って黒い。
「水は、あるんだな」
「あるっちゃあるけどね」
ステラが指先を舐めて、顔をしかめた。
「塩水。これ飲んだら余計に喉が渇くやつ」
半刻ほど歩くと、白の中に色が混じり始めた。枯れた葦。膝ほどの灌木。それから、細く踏み固められた一本の道。
俺はしゃがんで、その道に触れた。
固い。
「止まれ」
ガルドが片手を上げた。声より先に、腰の剣に手がかかっている。
灌木の陰から、若い男が出てきた。二十歳そこそこ。革の胴当てに短い弓。矢はもう番えられていて、鏃はまっすぐ俺の胸を向いていた。
「動くな」
声は硬い。だが弓を持つ手つきそのものは、驚くほど落ち着いていた。
「役人か」
「違う」
「じゃあ何だ、あんたら」
「旅の者だ」
「この土地に旅の者は来ない」
言い切られて、俺は言葉に詰まった。事実だったからだ。ここは地図に無い。来る理由が消された土地に、通りすがりというものは存在しない。
ガルドが前に出ようとするのを、俺は手で止めた。
「弓を下ろせとは言わない」
俺は両手を開いて見せた。
「北から煙が見えた。人がいるなら、水のことを聞きたい」
「……水」
「昨日、盆地の南で水路の跡を見た。砂に埋もれてたのに、勾配がほとんど狂ってなかった。あれを組んだ人間は、水がどこへ行きたがるかを知ってる」
男の目が、初めて揺れた。矢先が、ほんのわずかに下がる。
「ダン」
灌木の向こうから、しわがれた声がした。
「下ろせ。その人ら、道を踏み外して歩いとらん」
現れたのは、痩せた老人だった。腰は曲がっているのに、足の運びには迷いがない。手には、木の柄が黒光りするほど使い込まれた鍬を一本。
老人は俺の顔をしばらく見て、それから、俺の後ろの三人を順に見た。
そして、なぜか納得したように一つ頷いた。
「――領主さま、かの」
俺は、少し遅れて自分が呼ばれたのだと気づいた。
「違う。俺は領主じゃない」
「そうかね」
老人はあっさり流した。流したくせに、呼び方は変えなかった。
「わしはヨナという。ここらの用水を見とった者じゃ。……ようこそ、と言うには、何もない土地じゃがな」
***
石村は、崩れた石壁の内側にあった。
昔は倍の広さがあったのだろう。使われていない家の骨組みが、村の外側にぐるりと残っている。そこだけ屋根が落ちて、白い砂に半分埋もれていた。
人が住んでいるのは、中心の十軒ほどだ。
俺たちが入っていくと、家の陰から人が出てきた。老人が多い。女が三人、子供が二人。畑から戻ってきた者を合わせて、数えられた数は十七だった。
十七人。かつて王都の麦の値を決めていた土地に、残っているのがそれだけだ。
俺は言葉を探して、見つからなかった。
「そんな顔せんでええ」
ヨナが笑った。歯が何本か抜けている。
「わしらは死にかけとるんじゃのうて、生きとるんじゃ。順番が逆じゃ」
畑は、村の東の縁に細長く伸びていた。
俺はしゃがんで土をつまむ。白い粉はある。だが南の白原ほどではない。指の腹で潰すと、ちゃんと土の匂いがした。
「ここだけ塩が薄い」
「気づくかね」
「地形だ。ここは他より少し高い。塩を含んだ水が上がってきにくい」
ヨナが、ふん、と鼻を鳴らした。感心したときの音だった。
「二十年、この縁だけ削って麦を蒔いとる。反あたりの実りは昔の三分の一もない。それでも、蒔けば返ってくる」
「水は」
「北古水路じゃ」
老人は北を指した。
「堰は死んどるが、上のほうの湧きが一つだけ生きとってな。指の太さくらいの水が、まだ来とる。それをな、わしが毎朝、砂を掻いて通しとる」
毎朝。二十年。
俺は、掻き出された砂の量を頭の中で数えかけて、やめた。数えるようなものじゃない。
「あとは、あいつの獲物じゃ」
顎で示された先に、あの若い狩人が立っていた。ダン、とヨナが呼んだ男だ。弓は下ろしているが、目はまだ俺たちを離さない。
「白原には兎が出る。塩を舐めに来るからな。冬は北の森まで四日歩く」
「四日」
「戻れんこともある」
ダンは、そう言っただけだった。それ以上は説明しない。説明する必要のあることだと思っていない顔だった。
***
なぜ残ったのか、とは聞かなかった。
聞かなくても、村を一周すれば分かった。使われていない家の入口は、どれも砂が掻き出されている。人が住んでいない家の敷居を、誰かが毎日掃いているのだ。
いつか戻ってくる者のために、と言うほど甘い顔つきの村ではなかった。ただ、放っておけないだけだ。自分の土地が埋まっていくのを、指をくわえて見ていられなかった人間が十七人、ここに残った。
――直せる。
畑を見た瞬間から、俺の頭の中では手順が終わっていた。塩の表土を剥ぎ、地下の真水に細い道をつけ、北古水路に水を戻す。それだけで、この縁の畑は三分の一ではなくなる。
それなのに、俺の手はこの土地に届かない。
俺は領主ではない。【領地創造】は、領地を持たない人間には一かけらも働かない。俺は、直し方だけを知っていて、何もできない男としてここに立っている。
言えるわけがなかった。
毎朝砂を掻いている老人の前で、「本当は一日で直せるんだ」と口にすることが、どれだけみっともないか。
(……黙ってろ)
俺は自分にそう言い聞かせた。
「アルトさま」
ミリアが、袖を引いた。
「あちらの家から、匂いがします」
「匂い」
「膿んでいます。……たぶん、けっこう深く」
***
その家には、男が一人寝ていた。
三日前に、北古水路の石積みを直そうとして、崩れた石に脚を挟まれたのだという。膝から下が腫れて、布を巻いた上からでも熱を持っているのが分かった。
「薬は」
「二年前に切れとる」
ヨナの声は静かだった。腹の据わり方が、諦めとは違う。
「ミリア」
「はい」
ミリアが膝をついて、布を解いた。傷は思ったより悪い。俺は思わず目を逸らしかけて、逸らすのをやめた。
彼女の掌に、淡い光が灯った。
白でも金でもない、朝の水のような色だ。それが傷の上に落ちて、じわりと沁みていく。男が短く呻いて、それから、息を吐いた。
村の人間が、いつの間にか戸口に集まっていた。誰も声を出さない。
どれくらい経ったか。ミリアが額の汗を拭って、顔を上げた。
「腐りかけていたところは、止まりました。……でも、骨は繋げません。歩けるようになるまで、たぶんひと月」
「ひと月」
ヨナが繰り返した。
「ひと月後に、こいつが歩くのか」
「はい」
「……そうか」
老人は、それだけ言って戸口を出ていった。
俺が外へ出ると、ヨナは村の壁の外に立って、北を見ていた。半分崩れたセルヴァ堰の影が、白い平地の果てに小さく見える。
「三年前にな、同じことがあった」
背を向けたまま、ヨナは言った。
「そのときは、ひと月待てんかった。十日で駄目になった。……わしは、そういう見送り方しか知らん」
俺は何も言えなかった。
言えることが無いのではない。俺が言えることは全部、領地を持っていれば出せた手のことばかりだったからだ。
「領主さま」
ヨナが振り返った。
その目は、さっきまでと違っていた。値踏みが終わって、次の話に入る人間の目だ。
「あんたさん、さっき水路を見て、勾配のことを言うたな」
「……ああ」
「役人はな、誰ひとりそれを言わんかった。来た者はみな、この土地がいくらで捨てられるかを見に来た」
老人は、鍬の柄を握り直した。
「なあ。あんたさん、この土地を直す気はあるかね」
俺は、正直に答えるしかなかった。
「ある。方法も分かってる。……だが、俺には権利がない。領主でなければ、俺の力はこの土地に届かない」
言ってしまってから、口の中が乾いた。
情けない告白だった。だがヨナは笑わなかった。それどころか、腰を伸ばして、しばらく黙り込んだ。
白原を渡る風が、塩の粉を舞い上げていく。
そして老人は、思い出したのではなく、ずっと抱えていたものを下ろすように言った。
「領主さまなら――まだ、台帳が残っとる」
お読みいただきありがとうございます。
今回出てきた「用水守」は、実際に古い農村にあった役職がもとになっています。水路の見回り、砂の掻き出し、水を分ける順番の管理。派手さは何もありませんが、村の一年を左右する仕事なので、たいてい村でいちばん土地を知っている人間が就きます。ヨナが二十年、誰にも頼まれずに水路を掻き続けているのは、彼にとってそれが「仕事」だからです。
次回、その老人が二十年守ってきたものが、机の上に置かれます。




