第44話:地図から消された土地に、煙が上がっている
地図に無い土地に立つというのは、思っていたよりも静かなことだった。
街道は途中で途切れている。俺たちの足元から先、白く灼けた大地が、視界いっぱいに広がっていた。
セルヴァ盆地。二十年前、王国が「回復不能地」と決めて、地図から消した場所だ。
道標の柱が、根元から折れて倒れていた。俺はしゃがんで表面を撫でる。文字はとうに削れて読めない。
「……ここで終わってるな、道」
「終わってるっていうか」
ステラが俺の隣に立って、目の上に手をかざした。
「消されてるね、これ」
行商人の彼女が言うと、その一言には重さがある。街道が消えるというのは、そこへ行く理由が消えたということだ。
俺はアルト・フェーン。少し前まで辺境ルーナ領の領主で、その前は王都の行政官で、そのもっと前のことは――まあ、今はいい。
スキル欄が空白だったせいで「無能」と烙印され、王都から辺境へ捨てられた。捨てられた先で、俺のスキルは目を覚ました。
【領地創造】。土地を書き換える力だ。
その力で枯れた村を建て直したら、なぜか王都軍と、影の連中と、正体不明の使者までやってきた。俺がいると村が危ない。だから村を出た。
それが、十八日前のことだ。
***
村を出てから、俺たちは南へ行くか東へ行くかで一度も揉めなかった。行き先が無かったからだ。
決めたのは、五日前の宿場町だった。
「本当にここでいいの、領主さま」
「もう領主じゃないって言ってるだろ」
「だってラントの宿で聞いた話、あれ相当いい加減だったよ」
ステラが指を折る。
「『東に誰も住んでない盆地がある』『昔は麦がよく穫れた』『今は塩で真っ白』――中身これだけ。あたし、もっとひどい与太話に付き合わされたことないんだけど」
「十分だ」
「どこが」
「昔よく穫れた、が入ってる」
俺は白い大地を見下ろしたまま言った。
「一度実った土地は、もう一度実る。土がまだ土なら」
ステラが「うわ、領主っぽい」と笑い、ガルドが後ろで低く唸った。
「俺は反対はしねえよ。ただ、あれだけ広くて誰もいねえってのは、ちょっと気味が悪い」
護衛長の目は、俺よりずっと現実的だ。
「魔物か」
「そうならまだいい。分かりやすいからな」
ステラの言う「与太話」の中身は、実のところ、彼女自身がいちばんよく知っていた。
「セルヴァ盆地。二十年前まで、王都の麦の値を決めてたのは、ここだった」
「値を、ですか」
ミリアが声を上げる。
「うん。ここの作柄がいい年は、王都の麦が安い。悪い年は上がる。東へ出る麦は、だいたいここから出てたからね。……で、地脈が崩れた」
地の底の水の道が折れて、塩を含んだ水が上がってきた。畑が白くなり、井戸が塩辛くなり、そこへ魔物が流れ込んだ。
「王国は二年もたずに手を引いた。『回復不能地』の指定を出して、地図から消して、食糧は外から買うことにした。それで終わり」
「……それで、終わり」
俺は繰り返した。
その手の書類なら、何度も見た。ある土地を「無い」ことにすると、驚くほど多くの仕事が減る。道の修繕も、徴税も、被害の報告も、全部いらなくなる。
紙の上ではとても綺麗な処理だ。
「その紙に判を押したのは誰だ」
「さあ。あたしまだ十かそこらだよ」
ステラは肩をすくめた。
俺は、それ以上は聞かなかった。
王国の地図から土地を一つ消す裁定に判を押せる人間は、そう多くない。行政官だった頃、俺はその手の紙を回す側にいた。末尾に並ぶ名前は、いつも似たような顔ぶれだった。
その中に一人、忘れられない名前がある。
スキル欄が空白だという理由で俺を辺境へ送った紙の、いちばん下にあった名前だ。
(……宰相レギウス・ヴァルト)
東の裁定にあの人が関わっていたと決まったわけじゃない。確かめる手立ても、今はない。
それでも、胸の奥がざらついた。
***
斜面を下りるのに、半日かかった。
降りるにつれて空気が変わる。乾いていて、少し塩の匂いがする。海はどこにも無いのに。
足元の土は、白い粉を吹いていた。指で掬うと、ざらりと崩れる。舐めてみると、はっきり塩辛い。
「アルトさま、それ……」
「大丈夫。この程度なら死なない」
俺は掌の塩を払った。
盆地の底には、用水路の跡が何本も走っていた。石を組んだ立派なものだ。二十年ぶんの砂に埋もれてはいるが、造りはいい。誰かが本気で水を通そうとした跡だった。
水路の底に降りて、俺は指で溝をなぞった。
勾配が、ほとんど狂っていない。放っておかれて、これだ。造った連中は、水がどこへ行きたがるかを知っていた。
「アルトさま。これ、まだ使えるんですか」
「砂を掻き出して、上から水を入れれば、たぶん」
「たぶん、で言うの珍しいね」
ステラが茶化す。俺は答えずに、水路の走る先を目で追った。
北へ、北へ。何本もの溝が同じ方角へ吸い込まれていく。その先に、大きな石の構造物が見えた。半分崩れて、上から水は落ちていない。
「あれ、堰かな」
「だろうな」
水を溜めて、盆地全体に分ける。あれが生きていた頃、この白い大地は一面の麦だったはずだ。
――直せる。
そう思った瞬間に、指先が疼いた。
俺は立ち止まって、掌を開いた。
【領地創造】。ルーナ領では、これで井戸を掘り、農地を再生し、防壁を組んだ。目の前の土地を書き換えて、村を丸ごと甦らせた力だ。
やることは分かっている。塩の表土を剥ぎ、真水の水脈を引き直し、水路に水を戻す。
息を吸って、意識を土へ落とす。
視界の隅に、いつもの淡い光の枠が浮かび上がった。
《領地未保有。権能を行使できません》
……は?
もう一度やった。同じだった。
《領地未保有。権能を行使できません》
三度目で、俺は手を下ろした。
(……使えませんね)
胸の奥で、あの声がした。レムナント。俺の内側に宿った、もう一人の声だ。
(分かってる)
(分かっていて、三度お試しになった)
(うるさいな)
声はそれきり黙った。笑った気配だけが残った。
「……使えない」
「え」
ステラが振り返る。ガルドが眉を寄せた。ミリアだけが、何も言わずに俺の掌を見ていた。
考えてみれば、当たり前だった。
このスキルの名前は【領地創造】だ。領地を創る力ではない。領地の中でだけ働く力だ。ルーナ領であれだけのことができたのは、俺がルーナ領の領主だったからにすぎない。
俺は村を出るときに、その座を降りた。
だから今の俺は――ただ、土のことに少し詳しいだけの男だ。
「直せるのに」
声に出してから、みっともないと思った。
目の前に、直し方の分かる土地がある。手順も見える。それなのに、俺の手はこの土地に届かない。紙の上で「無い」ことにされた土地に、俺は指一本触れられない。
「アルトさま」
ミリアが横に来た。
「悔しいですか」
「……ああ」
俺は正直に答えた。分からないことを分からないと言えるようになったのと同じで、悔しいことを悔しいと言えるようになったのも、たぶんあの村でもらったものだ。
「じゃあ、いいと思います」
ミリアは、白い大地を見て言った。
「悔しいって、直したいってことですから」
ガルドが、後ろで小さく鼻を鳴らした。笑ったらしい。
「じゃ、直せるようになる方法を考えるんだな、領主さま」
「だから領主じゃないって」
「なら、なりゃいい」
あっさりと言われて、俺は言葉に詰まった。
この男は昔からそうだ。いちばん面倒な話を、いちばん短い言葉で置いていく。
***
その夜は、崩れた水路の脇に野営を張った。
火を焚いて、湯を沸かして、干し肉を齧った。誰も口数が多くなかった。二十年ぶんの静けさというのは、思ったより人を黙らせる。
俺は台帳のことを考えていた。
放棄地には、必ず紙がある。放棄する前の土地には、誰かが引いた境界と、誰かが数えた石高と、誰かが押した判がある。
紙で「無い」ことにされたのなら、こちらも紙から始めればいい。
誰が持ち主で、境がどこで、税をどう納めていたのか。それが分かれば、この土地に領主を立てる道筋が引けるかもしれない。領主が立てば、俺の手はこの土地に届く。
問題は、無人の土地に、その紙が残っているかどうかだ。
役所は焼くか捨てる。持ち出す人間がいるとすれば、それは書類が好きな役人ではなく、その土地から離れられなかった誰かだ。
「アルトさま」
毛布から、ミリアが顔だけ出していた。
「まだ起きてるんですか」
「ああ」
「……直したいんですね。あそこ」
俺は火を見たまま答えた。
「領主になれれば、直せる」
言ってしまってから、自分でも驚いた。もう領主じゃない、と今日三度も言った男が、領主になる算段をしている。
「じゃあ、なりましょう」
ミリアはあっさり言って、毛布に潜った。
顔を上げて、俺は動きを止めた。
「……ガルド」
「ん?」
「あれ」
北の方角。夜の白原の向こうに、細い煙が一本、まっすぐ立ち上っていた。
風に流れていない。焚き火の煙だ。しかも、消し忘れではない。誰かが今、火の面倒を見ている煙の立ち方だった。
誰もいないはずの土地だった。
「……人がいるね」
ステラの声が、少しだけ硬くなった。
お待たせしました。『ハズレ=無能』、第2部の始まりです。
第1部で読者の皆さまがいちばん反応してくださったのは、井戸が湧いた回と、畑が実った回でした。だから第2部の舞台は、村ではなく盆地にしました。同じことを、一段だけ大きな器でやります。
そして今回、アルトの手からいったんチートを取り上げています。【領地創造】は「領地創造」であって「領地を創る」力ではない――ここが第2部の最初の壁です。
次回、誰もいないはずの盆地で、二十年ぶりに人と会います。彼らが持っているものが、この土地を動かす最初の鍵になります。




