第一章 第七話 圧倒的蹂躙
ヴァルガスは、ただ一歩、前へ踏み出した。
それだけだった。
大剣を振るったわけでもない。
凄絶な攻撃魔法を詠唱したわけでもない。
なのに——空間そのものが、悲鳴を上げた。
ミシリ、と。
世界を支える骨組みが歪んだかのような凶悪な破壊音が、大気を揺らす。
次の瞬間。
——空気が、不可視の刃と化した。
見えない死の旋風が街道を一瞬で薙ぎ払い、逃げ惑っていた王国騎士や熟練の冒険者たちが、声を上げる暇もなく弾け飛んだ。
飛び散る肉片。空中に舞う鮮血の赤い霧。バラバラに引きちぎられた鉄の鎧の破片が、豪雨のように降り注ぐ。
「退けっ! 退けぇぇぇ!!」
血を吐くような騎士団長の絶叫が響く。
だが、もう何もかもが手遅れだった。
隊列はとっくに崩壊していた。
なりふり構わず武器を投げ捨てて駆け出す者。
重傷を負った仲間の背中を踏みつけ、自分だけ助かろうとする者。
そして——叫ぶ間すら与えられず、ただの赤い肉塊へと変えられていく者。
百五十名。
王国が誇る精鋭部隊が。
たった一歩から放たれた「圧」だけで、ゴミのように消えていく。
「カイン様……っ」
フィリアの指先が、ガタガタと酷く震えていた。
俺はその細い手首をギュッと掴み寄せる。
「逃げるぞ」
「はい」
「一刻も早くだ。なりふり構うな」
「はいっ」
即答だった。
普段なら欠かさず飛んでくる小生意気な減らず口すら出てこない。
それだけで、今直面している絶望の規模が痛いほど理解できた。
俺はフィリアの手を強く引き、逃げ惑う群衆の狂乱に巻き込まれないよう流されながら、密かに森とは反対側へ向かって地を蹴った。足音を消せ。
気配を削げ。冒険者として底辺を這いずり回った三年間で体に染み付いた「逃走の習性」が、脳の思考より早く体を動かす。
だが。
「——どこへ行くつもりだ?」
ぴたりと、足が止まった。
止められたわけではない。
体が勝手に拒絶したのだ。これ以上、前に進んではいけないと。
目の前には、夜の闇よりも深い黒のローブの裾があった。いつの間に回り込まれた? いや、考えるだけ無駄だ。次元が違う。
ギチギチと嫌な音を立てる首をゆっくりと持ち上げる。
そこにあったのは、冷酷に輝く黄金の瞳。路傍の羽虫でも見るかのような無感情な視線が、俺をまっすぐに見下ろしていた。
「逃げ足が早いな」
「……」
「小賢しいゴミめ」
声に欠片の感情も乗っていない。
ただそこにある絶対的な死そのもののような、凍てつく声だった。
滝のような冷や汗が背中を滑り落ちる。
止まらない。
後ろには震えるフィリア。
前には人類史上最悪の天敵。詰んだ。
完全に、言い訳の余地もなく詰んだ。
だが——極限状態の脳だけは、絶望の底で妙に冷え切っていた。
(死んでたまるか。死んだら全部終わりなんだよ……!)
三年間、泥水をすするような思いで泥臭く生き延びてきた。こんな化け物の前で、その誇りを捨てて死んでたまるか。
俺はにやりと口角を上げた。
不敵な笑み——を装った、死ぬほど必死に引き攣った顔面だったが。
「おい、魔人さんよ」
「何だ」
「魔族ってのは格調高い生き物なんだろ? 一対一のサシの勝負を好むって聞いたぜ」
ヴァルガスの切れ長な眉が、わずかにぴくりと動いた。
「ほう。それで?」
「俺はこの全滅しかけてる部隊の『隠された最強戦力』だ」
大嘘だった。
正真正銘、レベル5のクズ冒険者だ。
だが、こういう破れかぶれのハタリは、堂々と胸を張ってつくに限る。
「だからタイマンで決着をつけようぜ。それとも……俺と真っ向から勝負するのが怖いのか?」
(頼む、怒らないで! 瞬殺しないで! 許して!)
ハッタリをぶちかましながら、心の中では滝のような涙を流していた。ただの時間稼ぎだ。
一秒でも長く生き延びるための悪あがきだ。
話を引き延ばしている間に、何か……万に一つの打開策が見つかるかもしれない。
見つからない確率が九割九分九厘だが!
ヴァルガスは一瞬だけ沈黙した。そして——薄い唇の端を、愉悦に歪めた。
「面白い。羽虫一匹が、何を宣うかと思えば」 「……!」
「ならば見せてもらおう。その大言壮語が——嘘か真か」
言葉を引き出した瞬間、俺は背中に回した指先で、震えを押し殺しながら覚えたての初級呪文を紡ぎ始めた。
(頼むぞ……ただの初級基礎魔法だが、せめてフィリアを逃がす隙くらいは……!)
「『領域展開・決闘領域』——ッ!」
刹那、爆発的な光が弾けた。眩い白銀の光芒が俺とヴァルガスを包み込む。
そして次の瞬間、俺は心の底から絶望することになった。
俺は知らなかったのだ。
魔法書で読んだ初級魔法の、「本当の仕様」という奴を。
——『決闘領域』。
術者は領域が解除されるまで内部の者は絶対に外へ逃れられない。そして、領域内に指定されなかった周囲の者は——全員、結界の外側へと強制的に弾き出される。
「カイン様ぁぁぁっ!?」
フィリアの悲鳴が、分厚い光の壁の向こう側から遠く響いた。
やけに遠い。あまりにも絶望的に遠い。
光が収まった時、そこに完成していたのは、直径十メートルほどの強固な半球状の隔離空間だった。
そして、その狭い空間に残されたのは——
貧弱な俺と、無敵の魔人ヴァルガスの二人だけ。
「……は?」
俺は一人、静まり返った絶望の底で、間抜けな声を漏らしていた。




