第一章 第六話 魔人
戦場が静かになる瞬間がある。
誰も声を出さない。
誰も動かない。
ただ一つの存在を見ている。
今がそうだった。
黒いローブ。
ゆっくりとした足取り。
戦場の中央を歩いてくる。
その足元には、倒れた魔物と折れた武器が転がっている。
それでも彼は一度も足を止めず、泥と血で荒れた街道をまっすぐこちらへ歩いてくる。
一歩。一歩。歩幅は一定だった。戦場の混乱など、最初から存在しないかのように。
まるで散歩でもしているようだ。
まるで、ここが自分の庭であるかのように。
周囲には数百の魔物。
だが魔物たちは襲わない。
近付かない。
道を空けている。
魔物たちはその男を中心に左右へ分かれ、一本の細い道を作った。
その道を歩く男の背後には森があり、前方には怯えた人間たちがいる。まるで戦場そのものが、彼のために道を用意しているようだった。
敬うように。
恐れるように。
ひれ伏すように。
「……何だあれ」
誰も答えない。
答えられない。
騎士団長ですら。
レオナですら。
顔色を失っていた。
そして――。
ローブの男が立ち止まる。
靴先のすぐ前には折れた槍が落ちていた。彼はそれを踏むことも、避けることもしない。ただ立ち止まっただけだった。
その瞬間、風が横から吹き抜けた。
ふわり。
フードが揺れる。
見えた。
灰色の肌。
額から伸びる黒い角。
そして――。
黄金色の瞳。
人間ではない。
絶対に。
「……は?」
思わず声が漏れる。
その顔には感情がなかった。
怒りも。
喜びも。
悲しみも。
何もない。
ただ。
虫でも見るような冷たい目だけがあった。
「嘘だろ……」
近くの騎士が震えている。
手まで震えている。
剣を落としそうなくらい。
「おい」
俺はレオナを見る。
「知り合いか?」
「黙れ」
即答だった。
いつもの怒鳴り声じゃない。
低い。
震えている。
「レオナ?」
「黙っていろ」
その声で理解した。
まずい。
かなりまずい。
たぶん俺が想像しているより。
ずっとまずい。
その時、
ローブの男が口を開く。
「ふむ」
静かな声だった。
だが。
なぜか全員に聞こえた。
距離があるはずなのに。
「思ったより、少ないな」
誰に向けた言葉でもない。
独り言だった。
ただの独り言。
だが。
その言葉が、異様だった。
「少ない?」
何がだ。
冒険者百名。
騎士五十名。
これだけいる。
少なくないだろ。
だが。
男は首を傾げる。
「千人程度は集まると思ったのだが」
その瞬間。
戦場の温度が下がった気がした。
こいつは、
本気で言っている。
本気で。
百五十人を、少ないと思っている。
「貴様……何者だ」
騎士団長が一歩前へ出た。後ろにはまだ何十人もの騎士がいる。
だが、彼の足取りには先ほどまでの堂々とした行軍の勢いがなかった。剣を構えた腕にも、わずかな震えが見える。
それでも剣を構える。
男は初めて騎士団長を見た。
そして――。
少しだけ考える。
ほんの少しだけ。
「ああ」
思い出したように頷く。
「人間は我らをこう呼ぶのだったな」
男は笑った。
初めて、
口元だけが、
ほんの少しだけ、
「魔人」
誰かが息を呑む。
男は続ける。
「魔人――ヴァルガス」
その名前が告げられた瞬間。
騎士団長の顔から血の気が引いた。
レオナも。
ベテラン冒険者たちも。
全員。
「撤退だ!!」
命令が飛んだ瞬間、後方の兵士たちが一斉に振り返った。
街道の中央にいた者は左右へ散り、補給部隊は馬車を動かし始める。だが人数が多すぎる。逃げる方向が互いにぶつかり、隊列は見る間に崩れていった。
騎士団長が絶叫する。
一瞬。
誰も理解できなかった。
「撤退しろォォォォォ!!」
再び叫ぶ。
今度は悲鳴に近かった。
騎士団長が。
王国最強クラスの男が。
戦う前から逃亡を命じている。
「魔人だ!!」
誰かが叫んだ。
「魔人だァァァァ!!」
恐怖は、伝染する。
一人。
二人。
三人。
あっという間だった。
誰かが走り出すと、それを見た別の誰かも走った。
街道を後戻りする者、草原へ逸れる者、仲間を探して振り返る者。人の流れがばらばらになり、さっきまで整然としていた討伐隊がただの群衆へ変わっていく。
冒険者たちが崩れる。
騎士たちが崩れる。
戦線が崩壊する。
そして俺だけが、
まだ理解できていなかった。
「フィリア」
「はい」
「魔人?」
フィリアは数秒黙った。
そして――。
静かに答える。
「……終わりです」
「は?」
「遭遇した国が滅びた事例があります」
「は?」
「討伐記録はありません」
「は?」
「つまり」
フィリアは魔人を見つめる。
「人類では、勝てません」
俺は笑った。
そういえば昔、聞いたことがあった。
笑うしかなかった。
だって、
そんなの――。
勝てるわけがないじゃないか。
その時。
ヴァルガスは騒ぎの中で、初めてこちらへ体を向けた。
その動きはほんのわずかだった。それでも俺には、戦場全体が一瞬だけ止まったように見えた。
魔人ヴァルガスが。
初めて一歩前へ出た。
そして――。
何の前触れもなく、
一人の騎士の、
その身体が、上下に分かれた。




