第三章 第四話 王女様、拗ねる
「――あ、あの!」
市場の帰り道、俺たちの前に、一人の若い娘が飛び出してきた。
三つ編みの、素朴な感じの娘だった。
「な、なんだ?」
「わ、私、パン屋の娘なんですけど......前に、大通りの騒ぎで、暴走した荷馬車から助けてもらって......」
「あー、そんなこともあったな」
言われてみれば、数日前、暴れる馬に轢かれかけていた娘を、とっさに抱きかかえて避けた記憶があった。
クルルの騒動の後始末に追われていて、正直、半分忘れていた。
「あの時から、ずっと、お礼が言いたくて......それと」
娘の顔が、みるみる赤くなっていく。
「よ、よかったら、今度、二人でお茶でも――」
「――お待ちください」
娘の言葉を遮るように、涼やかな声が割り込んだ。
「え?」
「彼は、私の婚約者です」
エレナが、いつになく強い口調で、俺と娘の間に、すっと体を割り込ませていた。
「こ、婚約者......!?」
「はい。事情があって籍はまだですが、実質、婚約者です」
「そ、そうだったんですね......す、すみません、知らずに」
娘は、真っ赤な顔のまま、頭を下げて逃げるように去っていった。
「......エレナ?」
俺は、状況が呑み込めないまま、隣のエレナを見た。
「な、なんですか」
「なんか、今、えらい勢いだったな」
「気のせいです」
エレナの声は、いつもよりワントーン高かった。
「私は、事実を申し上げただけです。神代契約がある以上、あなたと私は、実質的に婚約関係にあります」
「そりゃそうだけど......」
「何か文句が?」
「い、いや、ないです」
異様な圧に、俺は素直に頷くしかなかった。
「エレナ様、分かりやすいですね」
少し離れた場所から、フィリアが面白そうにこちらを眺めていた。
「わ、分かりやすいって、何がですか」
「いえ、何も」
フィリアは、意味ありげに笑うだけで、それ以上は何も言わなかった。
それからというもの、エレナの様子は、明らかにおかしかった。
「カイン様、荷物は私が持ちます」
「え、いいよ別に、自分で――」
「持ちます」
「......はい」
有無を言わせない圧だった。
食事の席でも。
「カイン様、このお肉、味見してみますか」
「お、おう」
フォークで差し出された肉を、俺は素直に受け取った。
「な、なんで急に甲斐甲斐しいんだ、エレナ」
「ふん、別に、他意はありません」
だが、目は明らかに、そこはかとない対抗意識に燃えていた。
宿の廊下で、リリシアとすれ違った時も。
「カイン様、おはようございます」
「おう、おはよう」
その何気ないやり取りにすら、エレナは鋭い視線を向けていた。
「......エレナ様、もしかして」
夕食の後、フィリアがそっとエレナに耳打ちする。
「な、何ですか」
「妬いてます?」
「や、妬いてなんか」
エレナの顔が、みるみる赤くなっていく。
「あ、あの人が、私より先にカイン様に近づいたパン屋の娘さんだけじゃなく、リリシアさんにも、最近やたら愛想がいいので......そ、それだけです」
「それを、世間では妬いていると言うのでは」
「言いません!」
フィリアの正論に、エレナが声を裏返らせた。
「別に、私は、カイン様がどこの誰と仲良くしようと、関係ありませんから」
言葉とは裏腹に、その声はどんどん小さくなっていった。
「......ただ」
「ただ?」
「あの契約のせいで、私だけは、あなたから離れると胸が痛くなるんです。だから......少しくらい、独占欲を持っても、許されるはずです」
エレナが、俯きながら、消え入りそうな声で呟いた。
「それの、何がおかしいんですか」
「おかしくはないと思います」
フィリアが、優しく微笑んだ。
「ただ、素直に言えばいいのに、と思うだけです」
「素直に、なんて言えば」
「『妬いてます、もっと私を見てください』とか」
「い、言えるわけないでしょう、そんなの!」
エレナの絶叫が、宿の食堂に響き渡った。
俺は、その一部始終を、少し離れた席で、頬杖をついて眺めていた。
「......何の話してるんだ、あれ」
「さあ?」
クルルが、俺の肩の上で、面白そうにくすくす笑っている。
「あんた、鈍感すぎない?」
「何がだよ」
「別に。ただの感想」
クルルは、それ以上何も教えてくれなかった。
夜、部屋に戻ろうとした俺の前に、エレナが待ち構えるように立っていた。
「カイン様」
「お、おう。どうした」
「明日、少し――お時間、いただけますか」
エレナの頬が、微かに赤く染まっていた。
「二人きりで、お話ししたいことが、あります」
「お、おう」
「な、なんですか、その気の抜けた返事は」
「い、いや、なんか、緊張するだろ、そういうの言われると」
「するべきです、少しは」
プイと顔を背けたエレナの耳が、真っ赤に染まっているのが、廊下の灯りの下でもはっきりと見えた。
俺は、その夜もまた、なんだかよく分からない気持ちを抱えたまま、寝床についたのだった。




