第二章 第三話 国境の湯治場で、ひとやすみ
「――見えたぞ、あれが国境の湯治場だ」
レオナの声に顔を上げると、山あいに小さな町並みが見えた。
湯気があちこちから立ち昇っている。
その光景だけで、俺の足取りは急に軽くなった。
「温泉だ……温泉があああああ!!」
「気持ちは分かりますが、はしゃぎすぎです」
フィリアに窘められても止まらない。
三日間、狼の返り血と野営の煤にまみれた体だ。今すぐにでも湯に飛び込みたい。
イーティア王国の国境に位置するこの町は、古くから湧く温泉のおかげで、旅人や商人が必ず立ち寄る中継地点らしい。
セリーナ曰く、
「イーティア本国の温泉ほど有名じゃないけど、鄙びた感じがまた良いのよね、ここ」
とのことだった。
俺たちは宿を取り、荷を下ろすと、真っ先に大浴場へと向かった。
「殿方は右、女性は左です」
宿の女将にそう案内され、俺は名残惜しさを感じながらも男湯の暖簾をくぐった。
「はぁ……生き返る……」
硫黄の匂いと、程よい熱さの湯。
狼に切り裂かれた肩の傷も、じんわりと癒えていくようだった。
誰もいない湯船に一人、大の字になって天を仰ぐ。
贅沢な時間だった。
だが。
「ぬわぁぁぁぁぁぁっ!?」
女湯の方角から、盛大な悲鳴が聞こえてきたのは、それから数分後のことだった。
「な、なんだ!?」
慌てて湯から立ち上がり、境界の壁越しに耳を澄ます。
「エレナ様! 風呂桶の使い方はそうじゃありません!」
「わ、私、庶民の温泉なんて初めてで……!」
「タオルはそっちに置くのよ、王女様」
「セリーナさん、笑わないでください……!」
どうやら、生粋のお嬢様であるエレナが、庶民的な温泉施設の作法をまるで知らず、フィリアとセリーナに手取り足取り指導されているらしい。
微笑ましいような、少し覗いてみたいような、複雑な気持ちになる。
「……おい、カイン。変なこと考えてないだろうな」
塀の向こう、女湯側から、レオナの声が飛んできた。地獄耳にもほどがある。
「な、なんのことだ」
「顔に出ている」
鋭すぎる。
誤魔化しようがなかった。
夕食の席では、湯上がりで火照った顔の女性陣が揃い、いつもより賑やかな食卓になった。
「イーティアの料理は繊細だっていうけど、この町の郷土料理も悪くないわね」
セリーナが串焼きを頬張りながら言う。
「川魚の香草焼き、美味しいです」
フィリアも珍しく頬を緩めていた。
「私は……その、あまり辛い物が得意ではなくて」
エレナが涙目で水を飲み干している。
どうやら名物の激辛ソースに挑戦して、盛大に散った直後らしい。
「無理して食うから……」
「カイン様が『王女様なら食べられますよね』とけしかけたからでは?」
「……悪気はなかった」
「悪気しかなかったと思いますが」
的確な指摘だった。
夕食後、俺は縁側に腰掛け、湯上がりの夜風に当たっていた。
満天の星。
虫の音。
三日間の疲れが、じんわりと抜けていくのが分かる。
「――ここ、座ってもいいですか」
声をかけてきたのは、フィリアだった。
「好きにしろ」
フィリアは俺の隣に腰を下ろし、湯上がりの髪をタオルで拭いながら、星空を見上げた。
「……疲れましたね、色々と」
「まあな」
「魔人と戦って、王都を追われて、狼にボコボコにされて」
「わざわざ数え上げるな」
「ですが、こうして無事に休める場所があるだけ、幸せなことだと思います」
フィリアの声は、いつになく穏やかだった。
「……お前も苦労してるもんな。俺の尻拭いばっかりで」
「今更ですか」
「うるさい」
俺たちはしばらく、無言で星を眺めていた。
こういう時間も、悪くない。
英雄扱いされるのも、狼にやられて情けない思いをするのも――全部、こうしてのんびり温泉に浸かる時間のためにあるのかもしれない。
「……カイン様」
「ん?」
「明日には、イーティアに向けて出発ですね」
「ああ」
「今度は置いていかないでくださいね」
「善処する」
「善処、が一番信用できない言葉なんですよね」
鋭すぎる指摘に、俺は苦笑いを返すことしかできなかった。
こうして、束の間の休息は終わりを告げた。
翌朝。
湯治場を発った俺たちは、いよいよ魔法王国イーティアへの最後の道のりを歩き始めた。




