第二章 第一話 新天地、と誰も聞いてない世界の話
夜逃げというのは、思ったより清々しいものらしい。
王都の灯りが背後でどんどん小さくなっていく。誰の追手もない。誰の顔色も窺わなくていい。
最高だ。
「――で、カイン様。これからどこへ行くおつもりですか」
フィリアの声で、俺は現実に引き戻された。
街道の分かれ道。
右に行けば隣国モンデル。左に行けばイーティア。まっすぐ進めば――知らん。地図に載ってない方角だ。
「決めてない」
「決めてないんですか」
「決めてない」
「即答ですね」
「大事なことなので二回言った」
フィリアが額を押さえた。
俺の後ろでは、レオナが腕を組んで仁王立ちしている。
「仕方あるまい。では私が説明しよう」
「頼んでない」
「頼まれなくても説明する。お前が何も知らずにフラフラ歩いて、また面倒事に首を突っ込むのを見ているほうが恐ろしい」
的確すぎる指摘だった。何も言い返せない。
「まず大前提として――この大陸には三つの大国がある」
レオナが指を三本立てた。
「一つ、モンデル王国。軍事国家だ。兵器開発が盛んで、鉄と火薬の匂いがする国だな。魔法は苦手だが、その分、力業でどうにかする文化がある」
「へえ」
「二つ、イーティア王国。魔法国家だ。魔法使いが優遇され、王侯貴族から平民まで、猫も杓子も魔法を使う。温暖な気候で、有名な温泉地も多くあると聞く」
「温泉ッ!!」
俺の食いつきが露骨すぎたのか、レオナが一瞬、真顔になった。
「……話の八割を聞き流していたな、お前」
「聞いてた聞いてた。温泉の部分は特によく聞いてた」
「そこしか聞いていないだろう」
正解だった。反論できない。
「三つ、我らがサザンクロス王国。……まあ、たった今、お前が追い出された国だ」
「追い出されてない。俺が勝手に出た」
「同じことだ」
同じではない。だが今は黙っておく。
するとエレナが、遠慮がちに手を挙げた。
「あの、続きは私が。仮にも王女ですので、他国の情勢には多少詳しいです」
「おお、頼もしい」
「まず、この三大国の周りに、十五の小国が連合を組んでいます。それぞれ独自の文化を持ちながら、大国の顔色を窺いながら生きている――というのが実情ですね」
「ふんふん」
「その外側、大陸の南には魔族領。魔人たちの本拠地です。数百年前の大戦以降、大規模な侵攻はなかったとされていましたが……」
エレナの声が、わずかに沈んだ。
「――カイン様が倒した、あのヴァルガスを皮切りに、また活発化しているという噂もあります」
「怖い話はやめような」
「怖い話ついでに、もう一つよろしいでしょうか」
「よろしくない」
「よろしいですね。魔法というのは、そもそも天使様の力を借りて使っているものです。天使様ごとに違う力を貸していただいております。」
「知ってる知ってる、常識だろそんくらい」
「では、天使が死ねば、対応する魔法が使えなくなることも?」
「……知らない」
「知らないんですね」
エレナが微笑んだ。地味に煽られている気がする。
「歴史上、魔法が突然使えなくなるという事象が、過去に何度かあったそうです」
「使えなくなる?」
「はい。理由は誰にも分かりませんでした。その後、人類がその危機に瀕した際に――大天使エーテル様が現れ、魔法の原理を教えてくださった、と伝わっています」
「大天使、ねえ」
「天使様の真名を心に思い浮かべることで、魔法は発動します。どの程度の規模の魔法が使えるかは、その天使様の位が高いか低いかによって決まるのだとか」
「じゃあ今使われてる魔法は、大体エーテルとかいう天使のおかげってことか」
「はい。私たちが日常的に使う魔法のほとんどは、大天使エーテル様が広めてくださったものだと言われています」
「その上には? もっと偉い天使とか、神様とか」
俺は何気なく聞いた。
だがエレナは、きょとんとした顔で首を傾げた。
「上、ですか? ……聞いたことがありません。天使という存在の頂点が、エーテル様だと思っていましたが」
「じゃあ、下は? エーテルより位の低い天使とかは」
「それはおります。魔法にも第九位から第一位まで、段階があると伝えられていますので。ただ――エーテル様より上に何かがいるかどうかは、正直、私にも分かりません」
「下はいるのは確かか。でも、誰もそれより上を見たことがない、ってことか」
「そもそも天使様のお姿自体、まともに見た者はほとんどいません。声と、加護の実感だけが伝わっている、というのが正直なところです」
つまり、人類が知っている「天使」という概念は、氷山のほんの一角に過ぎないということだ。
(全貌が見えないか……魔族とよりやっかいな奴らだったらやばいな?)
そんな益体もない予感を覚えつつ、俺は次の話に移った。
「魔族側にも序列があるんだろ?」
「はい。頂点は魔神ディズガルデ。その下に魔王が三体。さらにその下に――魔人が、百二十一体、と言われています」
「……百二十一体もいるのか、あの化け物」
背筋が冷えた。
「加えて、これは冒険者なら誰もが叩き込まれる基礎知識ですが」
レオナが、真剣な顔で割り込んできた。
「魔族には、通常の武器も、天使の力を借りた魔法も、一切通用しない。それが常識だ」
「なんでだよ。物理的に殴れば普通は効くだろ」
「効かないんだ、それが。奴らは実体を持たない、いわば災厄そのもののような存在らしい。剣で斬っても、炎で焼いても、雷で撃ち抜いても――物理法則そのものが奴らには通用しない。そういう理から外れた化け物なんだ」
「……つまり」
俺は乾いた笑いを漏らした。
「まともに戦った時点で、詰みってことか」
「そういうことだ。だからこそ――お前があのヴァルガスを一撃で屠ったというのが、未だに信じられない」
レオナの視線が、俺の腰にある剣へと向く。
「その剣、本当にただの父親の形見なのか?」
「……さあな。俺が知りたいくらいだよ」
本音だった。
あの時、剣が勝手に光った理由も、通用しないはずの一撃が通じた理由も、俺は今も何一つ分かっていない。
「一体倒しただけで死にかけたのに、まだ百二十体も残っているのか」
「安心してください。全部が全部、カイン様と戦うわけではありません。普通に生きていれば、一生関わらない可能性のほうが高いです」
「その言い方、絶対フラグだよな」
「気のせいです」
目が笑っていなかった。
セリーナが扇子をパタパタと扇ぎながら、話に割り込んできた。
「――と、まあ小難しい話はこのくらいにして。要するに、カイン。あんたがこれからどこへ行くにせよ、モンデルかイーティアか、っていう二択なわけよね」
「あ、そうそう、それそれ」
俺は食い気味に頷いた。
正直、天使だの魔神だのの階級図なんて、酒場の与太話くらいにしか思っていない。
興味があるのは、もっと現実的な話だ。
「モンデルってどんな飯があるんだ」
「……軍事国家だから、保存の利く硬いパンと干し肉が主食ね」
「イーティアは?」
「魔法で品種改良された果物やら、魔導コンロで作る繊細な料理が名物よ。あと――」
セリーナがにやりと笑った。
「王都の近くに、大陸でも屈指の温泉街があるわ。魔力を帯びた温泉水で、美肌効果もあるとか」
「決めた」
迷いは一秒もなかった。
「早いですね」
「イーティアに行く。満場一致だ」
「誰も一致してないと思いますが」
フィリアが冷静に突っ込んだ。
だが、俺はもう決めていた。
魔神だの魔王だの、そんな物騒な話より、湯気の立つ温泉に浸かって、冷えた酒を飲む未来のほうが、俺にとってはよほど重要だ。
「レオナ、エレナ、反対か?」
「私は構わん。むしろ、魔法国家の防衛体制は一度この目で見ておきたい」
「私も反対はしません。それに――イーティア王家とは、幼い頃に何度か交流があります。多少のツテもあるかと」
「よし、決まりだな」
俺はパンと手を叩いた。
「進路、イーティア王国。目的、温泉。ついでに観光」
「魔人の脅威とか、王国の政情とか、そういう建前は一切ないんですね」
「建前は苦手なんだ」
「本音がそのまま出ちゃってるだけですね」
フィリアの正論が、朝の街道に虚しく響いた。
こうして俺たちは、魔法王国イーティアを目指すことになった。
――後に、その選択が、また新たな地獄の始まりだったと知るのは、もう少し先の話である。




