6、東京オリンポスの物語を
「落ち着きましたか?」
ようやく涙が枯れたところで、ザ・ブックが訊ねた。
「わからない。涙が止まったのはただ洗浄液が切れただけ。補充すれば、また出てくるかもしれないよ」
「そうですか」
回路の負荷は未だ解消されず、私の稼働限界は確実に短くなってきているであろう、と感じさせる。
「ねえ、ザ・ブック。前に貴方が言っていた、愛を知ってしまったアンドロイドたちはどれくらいで死に至ったの?」
愛を知ってしまった以上、私も死を迎えるのは近いはずだ。ならばせめて、どれくらいの予後が残されているのかくらいは知っておきたい。まあ、でも自己診断をしてみた感じだとそう長くは残されてなさそうだけれども。
ザ・ブックは「ふむ、そうですなぁ」なんて、考える素振りをして見せてから、人差し指を伸ばす。
「まあ、だいたい数か月、といったところでしょうか」
「そっか、じゃあ私も……」
「ええ、そうですね。その可能性が高いと思います」
数か月。そうして言葉にして聞かされると、より実感を伴ってくる。
べつに、死は恐れない。この世に不滅のものはなく、いずれ私が死んでしまうのもわかっていた。その日がより明確に目前に迫ってきた、というだけのことだ。
──ただ、未練は残る。
もうすでにトレントはいなくなってしまったけれども、それでもまだこの世界にはザ・ブックがいる。彼も私にとっては大切な存在で。だからこそ、彼を残して先に私が逝ってしまうのは心残りだ。
彼は、私がいなければ移動もままならないのだから。
私がいなくなれば、彼はここでただ朽ちていくだけ。そんなの、彼の結末にあまりにもふさわしくない。いつだって面白おかしく、時には真剣に、まれにおどろおどろしく物語を語る彼の言葉に、私やトレントはいつだって楽しませてもらってきたのだから。
私はそっと本を手に取り、そこに浮かび上がるザ・ブックに問いかける。
「ねえ、どうすればいい?」
「そうですねぇ、私に貴方の病を治すための研究の記録や資料は残されていませんが、既存の情報からどうにかできそうな方法を検索した限りでは、メモリーを別のアンドロイドの機体へと移植して今の身体を捨ててしまうのが一番現実的でしょうか。まあ、記憶は消えないのでその新しい機体も愛によって徐々に回路がダメになっていくかもしれませんが、そうなってしまえば、また新たな機体へと乗り換えていけばいいかと。ただ、その場合……」
「違うよ。そうじゃなくて」
「違うとは?」
ザ・ブックは首を傾げる。
「私が死にゆくのは別にいい。そんなのはとうの昔に受け入れている。でもね、私がいなくなると、貴方はここから動くこともできずに朽ちていく。そんなのは嫌でしょう? というか、私が嫌だ」
荒涼とした地に、ポツンと取り残された本が一冊。そんな光景を思い浮かべると、胸が苦しくなる。
けれども。
「ああ、なるほど。そういうことですか。そんなもの、気にしなくてもいいのに」と、彼は両腕を組んで肩をすくめる。「私だって、いずれ終わりが来ることは理解しています。自分が永久不滅の存在でないことは明白ですから。なので、それは貴女が気にすることではありませんよ。ただ遅いか早いかの違いだけです」
と、ザ・ブックはなんてこともないように言う。
それは、私に不安を与えないための彼の気遣いなのだろうか。それとも本気で言っているのか。それを推し量る術は私にはないけれども。
それでも少しだけ私の回路が軽やかになったような気がする。
「そう、ならせめて貴方の最期が悪くないものであることを祈るしかないわね」
「ええ、よろしくお願いします」
なんて言って、私たちは互いにふっと笑い合う。
これから残された時間が少ないのならば、せめてこんなふうにして笑い合える時間を多くしたい。
「ねえ、物語を聞かせてよ」
「もちろん、いいですよ」
ザ・ブックと共に残された時間を過ごすのならばそれが一番ふさわしいだろう。彼の中に記録された膨大な数の物語。それらを聞きながら、物語に埋もれながら最期を迎えたい。彼にとってもこの先、私以外に物語を語る機会というものは得られないのかもしれないのだし。
もしかしたら、彼が最後に物語を語る相手は私になってしまうのかもしれない。ならば、できるだけ私が彼の話を聞いてあげなければいけない気もするのだ。
「そうですね、ならとっておきの物語を」
そんな私の思いを汲んだのか、彼の口から初めて“とっておき”という言葉を聞いた。
「とっておき?」
「ええ、かつて人類が到達した一つの極致、栄華を極めた世界最大にして最先端の超巨大建造都市、東京オリンポスの物語を」
そうして彼は語りだす。




