11、奇跡に理論も理屈も理由も必要ない 《雲乃》
バックミラーに映るメビウスの顔が引きつっている。その隣に座るヒカルはずっと「ちょっと待って待って!」なんてずっと叫び続けている。
「私のフェラーリはアンティークだからね。自動運転機能じゃないんだよ。いやぁ、助かったねぇ」
青の魔女が運転する赤い跳ね馬はとんでもないスピードで、ラプラスによって速度制限の掛けられた周囲の自動車を追い抜いていく。
魔女が握るハンドルの前のスピードメーターが時速300キロ超を示しているのが視界の隅に入ったけれども「そんなはずがない」と、現実逃避して見ないフリをした。
「くそっ、これなら空を飛んだほうがマシだったぜ!」
なんて、メビウスが後悔を大声で吐露する。
けれども魔女の隣の助手席に座る私は、この暴力的なスピードの機体を鼻歌交じりに容易く制御してみせる彼女のその生き生きとした表情に魅入ってしまっていた。洋館で凛とした無機質な美しさを纏っていた彼女が、ハンドルを握って無邪気な少女のような顔を見せるそのギャップに魅了されてしまっているのかもしれない。
オリンポスを駆け抜ける赤い跳ね馬は第一層のポセイドンをあっという間に抜けて第二層目のヘスティアに差し掛かった。
そこで。
「あ、雨?」
フロントガラスに落ちた一粒の水滴に気付いた。オリンポスの雨はナノマシンの雨だ。オリンポスの緊急メンテナンスのために散布されているのだろうか。
その私の声に反応したのは魔女だった。明らかに不機嫌そうに舌打ちをして車のブレーキを踏んだ。猛スピードで駆けていた車体が完全に停止するのに随分と距離を要したけれども、なんとか安全に停止した。その停止した地点ではしっかりと雨が降っていた。
降りしきるその雨の中、止まった車の前に立っている一人の人影が目に入った。
アリサは「少し待っていて」と車を降りる。けれども、彼女は雨に濡れない。頭上三十センチくらいのところで雨は弾かれて、まるで撥水加工された傘の上を滑る水滴のように彼女の周囲を流れていく。
「久しぶりね」
そう魔女が声をかけるとその人影が顔をあげた。それは、メビウスと同世代くらいの男の人だった。
「ふん、柏木アリサ。随分と派手にやっているな」
男は苛立たしげに吐き捨てる。
後部座席から息をのむ音がしてバックミラーを覗き込むと、メビウスが目を見開いて目の前の光景に釘付けになっていた。
「ねえ、もしかしてあの男の人のこと、知ってるの?」
「知っているか、だって? むしろお前は知らないのか?」メビウスは頭を抱えるようにして答える。「あの男は量子コンピュータ虹玉の開発者にしてラプラスシステムの発案者、菱比良桃爽の息子にして世界最大の超巨大建造都市であるこの東京オリンポスの現管理者、菱比良桜爽だよ」
「……え?」
それは確かに私が知らないのは少し……どころか、かなり恥ずかしいことだったかもしれない。
「ヒカルは知ってた?」
彼女はなぜか照れたような表情で「いやぁ」と、ふるふる首を横に振る。
「だよねぇ」
世の一般的な高校生にとって、自分の住まう都市の管理者なんてものは日々の生活において重要な項目には含まれないものである。けれども、そんな偉い人がなぜこんな場所に現れたのだろうか。どうやら魔女アリサと面識があるようだけれども、それとなにか関係があるのだろうか。
「うーん、さっきまで魔法は使ってなかったんだけど。私、なにか悪いことでもしたかしら?」
と、彼女は白々しく言う。明らかに目の前の男、菱比良桜爽を挑発するような口ぶり。
「アホか。魔法を使っていなくてもお前の乗る車両は明らかに速度超過だったじゃないか。しかもこんなド派手な車を乗り回しやがって。目立って仕方がない。今回はなにを企んでいるんだ?」
「企んでいるだなんて。私はちょっと困っていた人を助けてただけよ。人助けをしていただけなのにそんな言い草は悲しくなるわ」
なんて、アリサは全然悲しくなさそうに言う。
雨はより一層強くなる。
「ねえ、この雨、不快なんだけど」
「ふん。お前の前に立つのに丸腰じゃリスペクトに欠けるだろう?」
ふたりはそのまま黙り込んだ。緊張感は増していく。ぼたぼたと雨音だけが耳障りなくらいに続いている。
その沈黙に耐えかねて先に動き出したのはメビウスだった。
「おい、桜爽!」
彼は車を飛び出す。けれども、メビウスはそこから一歩も動けなかった。
「ちょっと黙ってて」
メビウスのほうなんて振り向きもせずにアリサは人差し指をこちらに向けていた。どうやら魔法を行使していたらしく、私たちの乗る車には雨粒が当たらなくなっていた。なんらかの障壁のようなものを張ったのだろう。その見えない壁に阻まれて、メビウスは動けなかったのだ。
メビウスの拳がなにもない中空を叩く。拳はそのまま雨との境界線で止まっていた。
彼の焦燥は理解できる。だって、目の前にいるのはラプラスシステムの発案者の息子にして現東京オリンポスの管理者。アイリスの居場所についての最大のヒントを握っている可能性の高い相手なのだから。そもそも、アイリスを連れていったのは日本人の科学者だと言っていた。ならば、彼の父親こそがアイリスを連れていた張本人なんじゃないだろうか。それを、メビウスはすべて知っていて目の前に現れた桜爽に声を上げた、と考えるのが自然だろう。だから、彼は東京オリンポスの管理者である彼を一目見ただけで判別できたのだ。
そんな彼を、私たちを。置き去りにするようにして状況は一変する。
雨音の隙間からパチパチと音がし始める。見ると、周囲のあちこちで火花のような光が跳ねている。
次の瞬間。
雷光のような光の筋がいくつも同時に発生し、それがアリサに襲い掛かった。数多の轟音が重なり、私は思わず両手で耳を塞いでしまう。その光はやがて炎になってアリサの周囲を焼き、さらには何も無い虚空から刀剣や槍の武具が無数に出現し、それらが一直線にアリサへと向かっていく。
けれどもそれを魔女アリサは無表情のまま眺めているだけだった。それらすべての事象はアリサに届くことなく、彼女の周囲数十センチのところで消失していった。それはまるでフィクションの中の魔法合戦のようだった。現実の出来事のようには思えず、神話の戦いが眼前で繰り広げられている、としか見えなかった。
ただ、この場で魔法のような攻撃を繰り出しているのはなぜか魔女であるアリサではなく、人間であるはずのオリンポス管理者である桜爽側のように見える。
そのチグハグさに脳は混乱する。いったいなにがどうなっているのか。
「これは……なにが起きてるの?」
ヒカルがぽつりと呟く。
「見ればわかるだろう、桜爽の攻撃だよ。アイツと魔女との間にどんな因縁があるのかは知らないが、ヤツが攻撃を仕掛けて、魔女がそれを受け止めている……いや、アレは無視しているだけか」
と、メビウスがヒカルに答える。
「え? でも、桜爽さんって、魔女とか魔法使いじゃなくて人間でしょう? なんであんな魔法みたいに色々なものを出してるわけ?」
「そりゃ、この雨だろ」
「雨?」
「ああ、オリンポスの雨は完全にコントロールされた自己増殖型のナノマシンなんだろう? オリンポスの修復用としていろいろな機能を搭載した万能型のナノマシン。そして、桜爽はこのオリンポスの管理者。ということは、奴はそれを自由に利用できる」
「あ……」
と、思わず声を漏らしてしまったのは私だった。
「そういうことさ。奴は雨、ナノマシンを利用して、まるで魔法のような奇跡ごっこを起こして見せている、というわけさ」
今や魔法はほぼ解明され、科学にも取り込まれた。日常にもそれは溶け込んでいるのだという。とはいえ、原理のわからない私にはこれまで実感がなかったのだけれども、まさに桜爽がやっていることこそ、魔法の“科学での再現”そのものなのだろう。
彼はナノマシンを利用しているので生身で魔法を行使するアリサのように本物の魔法というわけではないのだろうけれども、それでも疑似的な魔法としてはなんの遜色もない。
だって、こうして傍目から見るぶんにはちゃんと奇跡のような魔法に見えるのだから。
けれども、そんな疑似魔法と本物の魔女アリサとの決着は、あまりにもあっけなくついてしまった。
数十秒ほどの桜爽の攻撃が止み、再び場には雨音だけの静寂が訪れる。
「ふん、さすがにかつて最悪の魔女と謳われただけのことはあるな。この程度の攻撃ではびくともしないか。だが、魔法の研究は今も続いている。以前よりも進歩した。もはやその完全な解明まであと一歩といったところか。魔法とは目に見えないプラナという物質を体内に取り込み、それを変換して出力する技術のことだ。ならば、力の源であるプラナの供給源を断てばお前の魔法も弱体化するはず……」
「ごちゃごちゃと煩い」
と、アリサは桜爽の言葉をぶった切り、右手を伸ばし、パチン、と指を鳴らした。
その直後。
次に視界に入ったのは雨が一切消え去った光景だった。
「え?」
さっきまで雨が降りしきっていたはずのこの場には、雨粒一滴さえ残っていない。それどころかアリサの前に立ちはだかっていた桜爽の姿までもが消えてしまっていた。
「魔法は奇跡よ。奇跡に理論も理屈も理由も必要ないわ」
そう言って、アリサは髪をかき上げる。そんな彼女の背後からメビウスが訊ねた。
「……桜爽はどうしたんだ? 殺したのか?」
「まさか。そもそも彼、この場に来てさえもなかったわよ」
けだるげに魔女は答える。
「やはりそうか」
そんな、最低限のやり取りで話していく二人についていけない自分に少し、腹が立つ。
「ねえ、どういうこと?」
現状が全く理解できない私は二人に訊ねる。答えたのはメビウスだった。
「さっきまで目の前にいたのは桜爽じゃなく、ナノマシンによる投影だったってことだよ。あの万能型のナノマシンなら、なんだってできる。わざわざ本人が現場に出向かなくったって、そこに居るように見せかけるなんて、容易なことってわけさ」
「……なるほど」
説明されればなんてこともないことだった。ただの科学。けれども、なにも知らなかった私からすれば限りなく魔法に近いような科学。そして、それをいともたやすく跳ね除けてしまった本物の魔法、その使い手である魔女アリサの存在はもはや私の理解の範疇から外れてしまっていて。
『ふん、化け物め』
と、どこかからのスピーカーから流れ聞こえてきた桜爽の言葉がなぜかスッと腑に落ちていく。
「化け物だなんて、失礼しちゃうわね」
そうぽつりと呟いたアリサは唇を尖らせて、なんだか少し拗ねているように見えた。




