10、未来予測係数 《雲乃》
「おじさんと奥さんからは、アイリスは日本人の科学者に連れていかれたんだ、と聞かされた。彼女の力は特別で、それを調べることで、解明することができれば世界のためになるんだ、と。けれどもまあ、結局彼女は金で売られたんだよ。まだ幼かった当時はすぐには理解できなかったけれども、その後のおじさんと奥さんの言動でなんとなくわかるようになった。そんなことをするような悪い人たちには見えなかったけれども、そんな人たちでさえ目がくらむ大金を提示された、ということなんだろうな」
そこまで語り終えると、メビウスはようやく一息ついた。その顔には少し、寂しげな色と共にかつての記憶を懐かしむような表情が浮かんでいた。
「そのアイリスを探してここまでやってきた、というわけさ。ま、少し時間がかかりすぎてはしまったけどな」
たしかに、彼が少年だった頃の話なのだから、それから今、となると随分と時間がかかった印象だ。けれども紛争の絶えない地域だったと言うし、そんなところで大人になるまで生き抜いていくのも大変だっただろう。
今、こうして彼が翻訳機も無しに流暢に私と日本語で会話できている時点で、彼がアイリスを思い、この日本という国をどれだけ学習してきたのかもわかる。
そして、彼の語った話から読み取れることもあった。
彼が探しているというアイリスという女性は未来視の力を持っていて、日本の科学者に連れていかれたという。そして、この日本にはラプラスシステムという世界に誇る超高精度の未来予測システムが構築されている。
東京オリンポスの完成が今から約二十年前。そして、建設が始まったのは今から約三十年前。建設が決まったのはラプラスシステムの完成から約十年後だった。つまり、ラプラスシステムが完成したのは今から約四十年前。メビウスの年齢はまだ訊いてはいなかったけれども、見た目からは四十代か五十代だと感じていた。実年齢がそれくらいだとするのなら、だいたい彼の話の辻褄とは合っているだろう。
つまり、ラプラスシステムの完成には彼女、アイリスの存在が関与しているに違いない。おそらくは、連れていかれた彼女の未来視を研究し、解明したことによってラプラスシステムの完成に至ったのだろう。
メビウスの話を聞き終えた魔女アリサは、長く閉じていた目を開いた。それを見て、メビウスは自嘲気味に口を開く。
「ほらな。べつに特別でもなんでもない、いたって平凡な、どうってこともない話だっただろう?」
けれども、そんなメビウスの言葉を聞いたアリサは鼻で笑う。
「ええ、そうね。紛争地での悲劇はいまさら語るまでもないし、家族のように過ごした者と引き裂かれる物語もこれまで飽きるほど目にしてきた。この世界にありふれた、普遍的でどうってこともない平凡な物語よね。でも……私、そんな物語が好きよ。ありふれた、普遍的で平凡な物語だからこそ、多くの人が愛する物語になる、なんてこともあるし。そしてなにより、私の好みの愛の物語だしね」なんて、彼女は今日出会って見た中でいちばん生き生きとした笑顔を見せる。「で、貴方はその未来を視る愛しのアイリスを探すためにここに来た、と」
「……なんでもかんでも愛に結び付けるのは安直だとは思うんだが」
少し不服そうにメビウスは顔をしかめる。
「あら、愛は偉大よ。最近じゃアンドロイドのAIの不調の原因が愛だった、なんてこともあったしね。愛はありとあらゆる犠牲も厭わなくなるほどに人を狂わせるもの」
と、そう言って、魔女は不意に私を見る。
「彼女、未来が視えるんでしょう?」
ほとんど会話の蚊帳の外だった自分にいきなり焦点が合って、ビックリしてしまう。しかも、私が未来視を持っていることまで言い当ててしまうというオマケで余計に驚いてしまう。
「え、や、あの、まあ、そうですけど……あの、どうしてそれを?」
なんて、あまりに唐突なフリに、圧倒的な挙動不審に陥ってしまった。けれども、アリサはそんな私からすぐに目を切ってメビウスと向き合う。
「そんな彼女と一緒に行動しているということはつまり、そういうことでしょう? そしてさらには私に協力まで仰いで。貴方、本当になりふり構っていられないのね」
「……で、どうなんだ? 俺に語れることはもうない。あとは貴女の判断次第だ。協力が望めないなら仕方がない、諦めるさ。魔女なんて、気まぐれなものだ。最初から当てにはしていない。協力を得られるのならラッキー、くらいのつもりでここまで来ただけだしな」
そう言って、メビウスは両腕を組む。あとはどうとでもなれ、とでも言いたげに魔女を睨みつける。私とヒカルはメビウスの要求にアリサがどう答えるのか、ただただ彼女の表情から目が離せないでいる。
けれども、彼女はあまりにもあっさりと、平然と、当然のようにけろりと答える。
「いいわよ」
なんて。まるで朝食の前の「いただきます」くらいの軽やかさで。
「え?」
と、驚く声はメビウス。当然だろう。こんなにも簡単に魔女が協力を承諾するなんて、普通は思わない。契約の代償に魂を奪われたり、成功報酬と引き換えに命を求められても不思議ではない。というか、そっちのほうこそが魔女のイメージとして妥当な気もする。
「いま、なんと?」
再確認するようにメビウスは訊ねる。
「だからいいって言ったの。貴方に協力するわ」
「本当に?」
「本当よ」
「本気?」
「本気だけど」
「マ……」
「マジよマジ。なに? しつこくない?」
「いや、あっさりし過ぎててあまりにも現実味がないというか……」
「じゃあ拒否すればよかったの?」
「そういうわけじゃないけど」
「じゃあいいじゃない。はい、決まり。これ以上ゴタゴタ言うとコウモリに変えるわよ」
その最後の物騒な一言が決定打となった。気まぐれとはいえ彼女が手伝ってくれるというのなら、その気が変わらないうちに手伝ってもらったほうがいいに決まっている。
「わかったよ、よろしく頼む」
メビウスは魔女の前に手を伸ばす。
けれども彼女は、その手を掴まない。
「あー、私には直接触らないほうがいいわよ」と、アリサは再び邪悪な笑みを浮かべる。「私、少し身に纏う魔力量が膨大過ぎるみたいで。魔力っていうのは、あまりに濃度が濃いと普通の人間の身体には有毒らしくてね。で、私の場合はそれが致死量に至るほどらしいのよね。だから……まあ端的に言うとね、私の身体に直接触れた人間は死んでしまうのよ。それが、私が死を司る魔女と呼ばれた所以のひとつね」
サラッと衝撃的な事実を語る魔女に、メビウスの表情が強張る。
「あ……わかった、握手はよそう」
「ええ、それが賢明ね」
そうして魔女とメビウスとの協力関係が成立したところで。
唐突にどこからかサイレン音が聞こえてきた。
「この音はなに?」
ヒカルがきょろきょろと周囲を見渡す。
「さあ。私の家の中からじゃないと思うけど」
と、アリサは窓を開ける。すると、サイレン音がよりはっきりと聞こえてきた。どうやら東京オリンポス圏全域に鳴っているらしかった。
そしてサイレン音の後にアナウンスが鳴り響く。
『東京オリンポス内でラプラスシステムの未来予測係数の大幅な乱れが感知されました。東京オリンポスは現在、全機能の四十%をカットし、メンテナンスモードに入ります。ご迷惑をおかけしますが、ご理解とご協力をお願いいたします。東京オリンポス内で未来予測係数の大幅な乱れが……』
そのアナウンスはこれまでこの東京オリンポスで暮らしてきて初めて耳にするものだった。
「えっと、どういうことかな?」
思わず訊ねた言葉に答えたのはメビウスだった。
「文言の通りだろ、ラプラスシステムの未来予測に乱れが生じた、だから原因を調べるってことじゃないのか」
「でも、未来予測係数の乱れって……」
「ま、そうだろうな。さっきお前がその子を助けたときの影響なんじゃないか」
やはりそうなのか。もしかして、自分はとんでもないことをやらかしてしまったんじゃないだろうか。未来を変えるというのはそれだけ影響が大きいことなのだと、今更ながらにその行動のリスクを思い知る。
けれども、だからといって今から何かできることがあるわけでもない。
魔女の協力は取り付けたし、メビウスも満足しただろう。少しイレギュラーなこともあったけれども、当初の目的であった魔女との接触も果たした。あとは魔女とメビウスと別れて家に帰って、元の日常に戻るだけ。
それで今日の出来事は印象的な一日だった、と思い出になって記憶の片隅に徐々に追いやられていき、私のいつもの平凡な日々が帰ってくるのだ。
と、思っていたのに。
不意に携帯端末に届いた通知に「は?」なんて自分でも驚くほど素っ頓狂な声が漏れてしまう。
「どうしたの?」
ヒカルが首を傾げる。
「いや、その……東京オリンポス内の公共交通機関がすべて停止だって。一般の車両も徐行モードで速度制限がかけられているらしい」
「げ、マジか」
私たちはこの下町までバスでやってきた。つまり、公共交通機関が止まってしまえば、帰る手段が無くなってしまう。親には何も言わずに家を出たし、今日中に帰れないとなると心配させるに違いない。
どうしたものか、と頭を抱えていると。
「あら、なら私が送りましょうか?」
と、魔女アリサが提案した。
「え? いいんですか?」
「ええ、今日は久しぶりの来客で楽しかったしね。それくらいはしてあげる」
それは願ってもない提案だった。下町から私たちの家のある第四層までは歩いていくとなると一日ではとてもたどり着けないかもしれなかったから。
「でも、どうやって? もしかして魔法を使って……とか?」
「いいからいいから、玄関を出て外で待ってて。すぐに準備してくるから」
随分と声を弾ませながら彼女は家の奥に入り込んでいく。私としても送ってもらえるのは助かるので、彼女のその言葉に甘えさせてもらいたいのだけれども。
玄関を出て待つ私たちは上空の天蓋、オリンポスを眺めながら魔女を待つ。
「どうやって送ってくれるのかな?」
「魔女といえばやっぱり箒でしょ。空を飛ぶんだよ、きっと。楽しみー」
「よしてくれ。俺は空なんか飛びたくねえよ」
なんて、他愛もない会話を交わしていると、唐突にその会話を遮る、猛獣の咆哮のような低い轟音が響いた。
その大きな音に、思わず肩が跳ねた私の目の前に現れたのは、深紅の光沢が美しい、しなやかで艶やかな流線型のボディを搭載した車だった。車の種類だとかに詳しくはない私だけれども、そんな私でも、目の前のこの車が普通のものではない、高級車だというのは感じ取れる。
「えっと……これは何の魔法ですかね?」
半分呆けながら訊ねる私を、アリサは一笑に付す。
「ははっ、なに言ってるのよ。魔法なんかじゃなくて、イタリアの跳ね馬よ。さ、乗って乗って。本当はもっとイケてるのもあるんだけど、そっちは二人乗りだしね。これで我慢して」
そう促されるがままに私とヒカルはその車に乗り込む。
隣でメビウスが「は……フェラーリかよ」とあきれたように呟くのが聞こえた。




