9、虹色の瞳をもつ少女 《メビウス》
あれがどれくらい前のことなのか、はっきりとは覚えていない。
もうずいぶんと昔のことだ。
けれども、その記憶は今も鮮明に俺の魂に刻まれている。
幾星霜を経ようとも、那由他ほどの時が過ぎようとも、きっと俺はあの日のことを忘れはしないだろう。
明日を生き抜くことさえできるかどうかも不明瞭な地獄で出会った、虹色の瞳をもつ少女。
彼女の言葉は、いつだって俺の心を満たした。
きみはとても優しいね。
きみはとても強いね。
きみはいつも真っ直ぐだね。
きみはきっと大丈夫だよ。
きっと彼女も怖いはずなのに。それでも気丈に俺を励ましてくれた。
俺の右隣にいた七歳くらいの男の子の頭が、誕生日に鳴るクラッカーのように気軽に爆ぜたときにだって、俺の手を握って『きみはきっと助かるから』なんて、震えながら笑ってみせた。
日々は地獄だったけれども、彼女が隣にいてくれたのは、俺にとっては幸運だった。彼女がいなければ、きっと俺はとうの昔に諦めてしまっていたのだろう。
紛争地域では多産が当たり前で、そのぶん子供の命の価値はひどく軽い。七人も八人もいる兄弟の中で、ひとりやふたり欠けたって、誰もなにも思わない。まだ言葉も話せないような子供を、ヤギ一頭と交換した親を見たこともある。もはや子供の命なんて、貨幣と同じような感覚なのだろう。出産でさえも、生活の糧を得るための労働のようなもの。そこに、生命の神秘だとか奇跡を実感する心の余裕なんて、ない。
だから、俺は九歳の時に家を出た。
どうせ、ここにいたって俺の命の価値は無に等しい。けれども、国境を超えればなにかが変わるんじゃないか、と思ったんだ。違う国へと行けば世界は変わるはずだ、無価値な俺の命にも、なんらかの価値が。価値じゃなくとも、せめて意味が与えられるのだ、と。
無知な子供の無邪気なユメ。
外に出たところで、そこにも同じように人間の社会が広がっているのだから、そう大差はないというのに。そこが地獄から冥界に変わるくらいの差異でしかないだろう。
けれどもまあ、九歳の男の子がたったひとりで国境を超えられるはずもなかったんだけどな。
そもそも、国の広ささえもよくわかっていなかった俺は、二つ隣の町に着いたところで力尽きた。
子供は、無力だ。
朦朧としながら倒れ込んだ路地裏で、野良犬が生暖かい鼻息を吹きかけてきた。俺が死んでいるかどうかを確認しに来たのだろう。死んでいたのならば、そのままはらわたを貪るつもりだったのだと思う。
――ああ、ここでぼくはコイツらに喰われてしまうのか。
それはそれでいいかもしれないな、なんて思ってしまった。
どうせ無意味な命だけれども、ここでこうしてこの犬たちの餌となり、彼らの寿命を少しでも永らえさせるのならば、俺の命にも少しは価値があったと思えるのかもしれない。
熱い鼻息が耳にかかる。ぴちゃり、とその唾液が顔に落ちたのが感覚でわかった。
それとは別に、頬を伝う別の熱い水滴。
――でもやっぱり。しにたくない。
無意味で無価値な命にも意味が与えられる食物連鎖なのだとだとしても。やっぱり俺は生きて、その命の意味や価値を示したかった。死んでからその命に意味が生まれるだなんて、それじゃあまるで、初めから死ぬためにこの世に生まれてきたみたいじゃないか。
違う、俺にだって生きて果たすべき使命があるんだろう?
そうでないのなら、こんなひどい世界に俺を堕とさないでほしかった。
ひゅう。
と、空気の抜ける音。
もはや自分でも自分が呼吸をしているのかわからなくなってきたところで、野犬はその口を大きく開き、軽く僕の頭に嚙みついた。もう、死んでしまったと思ったのだろう。
まあ、実際にもう死んでしまっているようなものだけれど。
死体は動かないし、今のぼくは動けない。そこにどれほどの差異があるというのか。もはや、ぼくイコール死体と言っても過言ではないだろう。
「こらっ! やめなさい!」
けれども、突然路地裏に響いたその大きな声に、野犬はピクリと動きを止めたかと思うと、そのままどこかに去って行った。
「だいじょうぶ?」
と、声の主がぼくに駆け寄ってくる。けれども、顔を上げる気力も体力もない僕は、その足元しか見えない。大人ではない、子供の細くて小さい足。声変わりはしていないけれども、たぶん女の子の声だ。
その子は、小さな体でぼくを仰向けにしてくれる。
そうしてようやく僕はその声の主の顔を見ることが出来た。
髪は短く、服は随分と薄汚れている。
いや、まあそんなのはぼくも人のことは言えない格好ではあるけれども。紛争地域の路地裏にいる子供が小綺麗な格好をしていたら、むしろそっちのほうが不自然だ。こわい。
彼女の頬にも、黒っぽい泥が付いている。戦時下ではそれが自然だ。
けれどもそんな汚れた顔には場違いのような、とても美しい宝石みたいな双眸がそこに輝いていた。
虹色の虹彩。
そのこの世のものとは思えないほどに美しいモノに、ぼくはどうしようもなく見惚れてしまう。
こんなにも美しいものが、こんな地獄に存在するなんて。
こんな場所にはとても不似合いで。けれども、それと同時にこんな場所にあるからこそ、余計に輝いて見えた。
すりガラスのように不透明になってしまったぼくの心が、あっというまに透明になってしまったのだと、実感できるくらいに鮮烈な光。
それが、ぼくとアイリスとの出会いだった。
もうずいぶんと昔の話。どれくらい昔のことか、計算できないくらいに前の話。けれども、ぜったいに忘れることのできないぼくたちの邂逅。
そして、永遠に続く苦しみの始まり。
ぼくたちが出会って約三年。
未だ内戦は続いていたものの、その規模はだいぶ小さくなってきていた。戦闘行為は各地で勃発的に起こる程度で、基本的には火種がくすぶっている状態が恒常的に潜んでいるだけ、といった感じ。
いつ大規模な戦闘が起こるかもしれない、という不穏な空気感が常に国中を覆っているけれども、ぼくたちの暮らす町では割と平穏な日々が続いていたこともあってか、それなりに賑わいつつあった。片田舎の町だったのが幸いしたのかもしれない。
虹色の虹彩を持つ少女、アイリス。
彼女と出会って、ぼくの日々は転機を迎えた。人生が上向いた、というべきか。まあ、ぼくはただ彼女に気に入られただけなのだけれど、けれどもそのおかげで、今ぼくはこの町でも裕福な人の家に住まわせてもらっている。
出会ったばかりの頃は互いにみすぼらしい格好で路地裏に潜む日々を過ごしていたのだけれども、ある日、彼女には特別な力があるということに気付いた。
アイリスは、いつも少し先の未来を予言した。
明日はいつもより少し良いものが食べられるはず、今日は町中でちょっとしたいざこざがあるから大人しくしていよう、露店商のオジサンはもう先が長くないから今のうちに挨拶しておこう。
なんて。
それらすべての言葉が現実となった。
「ねえ、もしかしてアイリスは未来が見えるの?」
そう単純に訊ねると、
「うーん、未来というか、前にも見たことがあるっていうか……まあ、ちょっとした予感のようなものだよ」
と、曖昧に言って頬をぽりぽりと掻くだけだった。
ある日、彼女は目の前を通りがけた恰幅のいいおじさんに声を掛けた。
「もうすぐ雨が降るからはやく帰ったほうがいいよ」
いきなり声を掛けられたそのおじさんは、怪訝そうにアイリスの顔をじっと見た後に、なにも言わずにそのまま早足で去っていった。そしてやっぱり、彼女の言葉は的中し、しばらくして雨が降り始めた。
「どうしてあのおじさんに雨が降ることを教えたの?」
「んー、ちょっとね」
なんて、彼女がおおきくあくびをしたそのときだった。
「ああ、やっと見つけた!」
と、大きな声が路地裏に響いた。
見ると、さっきアイリスが雨が降るよ、と教えてあげたおじさんが息を切らしながらそこに立っていた。傘もささずに全身ずぶ濡れになりながら。
「いやあ、さっきは助かったよ。妻へのプレゼントが雨でダメになるところだった」
そう言って、おじさんはアイリスの前まで駆けてきた。
「よかったね、おじさん」
アイリスは雨の中だというのに、夏の花のように微笑んで返す。
「それにしてもどうして雨が降るってわかったんだい? あのときにはまだ雲も出ていなかったというのに」
「なんとなく、だよ。そんな気がしたの」
「ふうん。まあ、なんでもいいか。とにかく、キミは俺の救世主だ。とても縁起がいい。ウチの子にならないか?」
「おじさんのウチに?」
「ああ、妻にも君の話をしたら『その子は間違いなく神の子よ、必ずウチにもてなして』と言われてね。見たところ、キミはこの路地裏で過ごしているようだし、キミさえよければ、ウチの養子として迎え入れたいんだよ。幸い……というか、私たちには子供がいなくてね。ちょうど養子を迎え入れようか、なんて相談していたところなんだ」
おじさんのその提案に、僕は思わず「えっ?」なんてバカみたいに素っ頓狂な声を出してしまった。見た感じ、このおじさんはとても裕福そうだ。こんな人に養子に迎えられたのならば、この先ずっと生活に困ることはないだろう。
彼女は、こうなることを見越してこのおじさんに雨が降ることを教えたのだろうか。
これまでに見てきた彼女の『予言』は、大まかなものが多かった。雨が降ることを教えることによって、自らが養子に迎えられるようになるというこの結果まですべてが見えていたのだとするのならば、彼女の『予言』の精度はとても高精度なものだということになる。
その事実に、僕は全身粟立った。
いったい彼女は、どこまで視えているというのだろうか、と。
もしも、彼女が生まれてから自分が死んでしまうその時まで見えてしまっているのだとしたら――彼女はなにを思いながら日々を過ごしているのだろうか。結末を知っている人生に、彼女はなにを見出すのだろうか。それとも、そんな思いさえももう超越してしまっているのか。
息を飲むぼくに「じゃあ、この子も一緒に」と、アイリスは肩を叩いた。
「「え?」」
驚嘆は、ぼくとおじさんの声が重なって、奇妙にハモるかたちとなった。
声が重なったぼくとおじさんは、思わず顔を見合わす。ぼくは目を見開き、おじさんは怪訝そうに顔をしかめている。
「この子もかい?」
おじさんは僕に人差し指を向ける。失礼極まりないような気もしないでもないけれども、おじさんはアイリスだけを連れて帰るつもりだっただろうし、ぼくなんてまったく眼中になかったはずだ。その力を見せたアイリスはともかく、こんな得体も知れないような子供も一緒に連れて帰りたいとは思わないだろう。ぼくがおじさんの立場だったとしても、同じように眉を顰めたと思う。
「ええ、そうよ。わたし、彼と一緒じゃなきゃイヤ。だって、もうずっと隣で過ごしてきたんだもの。今さら別々になんて暮らせないよ、もうわたしたちは姉弟みたいなものだもの。それともおじさんは、姉弟を引き離すようなひどい人なの?」
「うっ……いや……」
そういうわけじゃないけれども、とおじさんは言い澱む。
おじさんが尻込みするのもわかる。けれども、彼女の言葉はぼくにとっても喜ばしいものだった。ぼくだってアイリスとは離れ離れにはなりたくない。かつて、ボロ雑巾のように路上で息絶えかけていたぼくを救ってくれた、見惚れるほどに美しい虹色の虹彩を持つ、命の恩人。
ぼくはまだ、そんな彼女に恩を返せていない。それなりに長く彼女と路地裏を拠点に生き抜いてきていたけれども、いつだって彼女には助けられっぱなしだった。
このまま離れ離れにされてしまえば、もうこのさき一生、彼女に会えなくなって、ずっと恩を返せないままになってしまう。
それは嫌だ。
ずっと彼女に助けられながらも、それでもいずれは彼女と対等の立場になれるはずだと信じていた。そのためにも、まずは彼女からの借りをしっかり返せるようになりたかった。そうして彼女と対等に並び立てるようになれたら、そのときにぼくはようやく――
「……うむ、わかったよ」
と、おじさんは意を決したように頷いた。
「ホントに?」
思わず訊ねたのは、アイリスではなくぼくの方だった。
「ああ、子供二人を養うくらいの甲斐性はあるつもりだよ。まあ、双子が生まれたと思うことにするさ。妻も、納得してくれると思うよ。納得してくれなくても、納得してくれるように説得してみせるさ」
そう言って、おじさんは分厚い胸板を右手でどんと叩いた。その力強さが、とても頼もしく見えた。
こうしてぼくとアイリスは町の裕福な家に迎え入れられることとなったのだ。
「はぁ⁉ なに考えてるの? そういう大事なことはきちんと相談しなさい! いつだってあなたは勝手に決めるんだから! この間だってねぇ……」
と、家に着くなりおじさんは奥さんに問い詰められて、あっというまに小さくなってしまった。さっきまでの頼もしさは鳴りを潜めたというか、もはや頼もしさの欠片もなくなってしまっている。
そんな、縮こまったおじさんに対する不満をぶつけ終えた奥さんは、くるりと振り返った。それに思わず肩がぴくりと跳ねた。
けれども、振り返った奥さんの表情は穏やかだった。
「はじめまして。これからよろしくね、お二人さん」
「え? ぼくもいいんですか?」
「もちろん! 二人とも仲がいいんでしょう? 子供たちの仲がいいのは良いことじゃない」
そう言って、奥さんは上品な笑みを浮かべた。
「でも……」
と、おじさんのほうに目を向ける。おじさんはかなりしょぼくれてしまっていた。奥さんはぼくの視線に気付くと、ああ、と笑う。
「大丈夫大丈夫、私が怒ったのはあの人が私になんの相談もなく勝手に物事を決めてしまったことで、あなた達ふたりを受け入れることに関してはなんの問題もないから。むしろウェルカムよ」
「でも、おじさんにふたり一緒がいいと頼みこんだのは私のほうです。それからすぐにこうしてここにやってきたので、相談する時間もなかったです。だから、あんまりおじさんを叱らないであげてください」
と、アイリスが奥さんに頼み込む。
「ああ、確かにそうか。相談する間もなかったのなら仕方ないか」奥さんはふむふむ、と頷く。それからアイリスの頭を撫でた。「ありがとう。あなたはとても優しいのね」
そう言ってから、奥さんは振り返っておじさんにごめんね、と謝る。その謝罪を受けて、おじさんの表情はパッと晴れやかになる。
まだこのふたりと出会ってから、ほんの数分しか経っていないけれども、そのやり取りを見て、きっとこのふたりは善い人たちなのだろう、と感じ取れた。お調子者の陽気なおじさんと、しっかり者で優しい奥さん。この家に拾われるのならば、きっとこの先には幸せな未来が待っているはずだ、と思えた。
このふたりに拾われれば、この先安泰だとわかっていたから、アイリスはこの家に拾われるように仕向けたのだろうか。
それからの日々は、これまでの路地裏生活からは考えられないほどに幸福な日々だった。
まず、日々の食事に困ることがない。普通の家庭ではそれが普通なのかもしれないけれども、紛争地帯の貧困地域で生まれ育ち、親もまともではなかったぼくは、幼い頃からまともに朝昼晩三食出されたことは一度たりともなかった。そこから逃げ出して流れ着いたこの町でも、路地裏暮らしで食料調達そのものが難しかった。アイリスと出会ってからはそれも少しはマシになったものの、それでも毎日安定して食べられるほどの食糧は手に入らなかった。
だから、毎日きちんと三食用意される、という家庭が本当に存在するのだと知って感動したのだ。
それから、両親がきちんと自分にかまってくれる、ということがこんなにも心が満たされるものなのか、と知った。もちろん、ぼくらは養子なのでおじさんと奥さんとは血の繋がりなんて一切ない赤の他人なのだけれども、それでもふたりはぼくらをきちんと自分の子として接してくれた。些細でくだらない話も自分のことのように楽しそうに聞いてくれて、少しヤンチャをすれば、きちんと叱ってくれた。
そして、ふたりはぼくたちを学校へと通わせてくれた。
「今まで行ったことがないのだとしても、学校には行きなさい。僕たちが通わせる。人は、学ぶことによってその生に意味を見出すことができるのだから。学校では勉強だけでなく、他にもいろいろと学ぶことができるんだ。それを経験してきなさい」
と。
最初は学校なんて、と思っていたけれども、そこは思っていた以上に楽しい場所だった。
自分たちと同じくらいの年頃の子供たちがこれだけ大勢集まって、同じ黒板に向かっている、という環境がまず新鮮だった。実親には当然通わせてもらえていなかったし、路地裏生活をしていたときもほとんどアイリスと二人きりだったから。
それに、勉強というものも、思っていたよりもずっと楽しいものだった。
自分の知らないこと、自分の知らない法則がこの世界にはいくつも存在し、それらが存在することによって世界が成り立っているのだ、と知識を得れば得るほどにぼくの知らなかった世界の見えにくかった部分がどんどんとライトアップされていくような気がした。
そして、そんな日々の中でもアイリスは相変わらずだった。
もちろん身綺麗にはなったし、身綺麗になったぶん、もともと持っているその虹色の虹彩がより映えて、宝石が研磨されるようにその容姿は輝きを増した。けれども、彼女の性格は変わらず、以前と同じようにぼくと接してくれたし、以前と同じように、ちょこちょこと予言を披露した。
「もうすぐ雨が降るよ」
「大きな事故が起きるから外には出ないほうがいいよ」
「今日は地震が起きるから安全な場所にいましょう」
それらの予言をやはり、アイリスは一つも漏らさずにすべて的中させた。
最初は半信半疑だったおじさんたちも、その的中率の高さに舌を巻いた。たしかに彼女を養子にしたのは、初めて出会ったときに雨が降ることを的中させたことがきっかけだったけれども、それはあくまで偶然で、その幸運を大事にしようとしたからだった。
アイリスが本当に未来を見ていたのだとは思っていなかった。
だから、彼女が本当に未来を見ていたのだと知って、おじさんと奥さんは驚いた――驚いたけれども、それはむしろ神からの啓示だと受け取った。アイリスが自分たちのもとへと来たのには、なんらかの意味があり、それを導くことこそが自分たちの使命なのだ、と
そうしてアイリスは神の子として瞬く間に町中にその名を広めていくこととなった。
――そして、それが幸福の終わりの始まりだった。
彼女の噂を聞きつけた人々が町中から集まるようになり、それがやがて国中の人々となり、世界中の人々となっていった。
アイリスはそれらすべての人に未来を視たわけではない。むしろ、視ないことのほうが多かった。彼女は気紛れで、どんな未来なのかを語る規則性はないように思えた。不意にぽろっと溢すような言葉が、未来を的中させていった。
だから、基本的にはどんなに遠方から人が訪ねてきても、アイリスと直接会わせるということはなかった。一日に一回、窓から顔を出すだけ。外には出ない。時折アイリスが溢した予言を、おじさんが表に出て、そこに集まった人々に公表する。そしてそれを、そこに集まった人々がありがたがる、といった異様な光景が当たり前となっていた。
まるで、聖地巡礼をする信者たちとその教祖みたいだ。
まあ、ある意味新興宗教のようなものなのだろう。アイリス自身に教祖である自覚がないだけ。一日に一度窓から顔を出すだけの虹色の虹彩を持った少女、というミステリアスさも、またそれに拍車をかけたのだと思う。
もちろん、そんな状況になってしまえば、学校どころの話ではない。アイリスは学校へと行かなくなり、ぼくと彼女とが接する時間も減っていった。
「ねえ、こんな現状でいいの?」ある日、ぼくはアイリスに訊ねた。「これじゃあ、路地裏にいた頃と変わらないじゃないか。いや、自由がないぶん、むしろ悪い」
路地裏で過ごしていた頃は、日々の食糧確保にも難儀していたけれども、それでもなんとか生きていけていたし、なにより自由だった。彼女は未来が見えながらも、それでもこんな不自由な今を選んだというのだろうか。
「そうかもしれないね。でも、私はこの未来しか知らないから」
「この未来しか?」
その言葉の意味を測りかねて、思わずオウム返しで訊いてしまう。
「そう、まあ運命ってやつなのかな」
「未来がわかるのなら、そんなものはいくらだって変えられるだろう?」
そうじゃなきゃ、未来が見える意味がないじゃないか。
「そうだね、たとえば少し先の悲劇が見えたのなら、その悲劇を回避するように動けばいい。でも、変えられない大きな流れというものも存在するんだよ」
「変えられない? そんなこと、あるわけないじゃないか」
悲劇を回避できたのなら、それは未来が変わったということだろう。けれども、彼女は首を横に振る。
「もちろん、細かな出来事は変わることもある。けれどもたとえば、地震が起きることを知れたとして、その地震を止められるはずもないでしょう? 地震が起きると知ったうえで、出来うる限り備えることしかできない。それと同じこと。地震じゃなくたっていい。飛行機が墜落すると知ったところで、それを止める術は私には無い。私みたいな小娘の言葉なんて、誰も信じないでしょう? 全知はイコールで全能ではないのよ」
「それじゃあ、こうしてキミが自由を失うことは避けようのないことだっていうのか?」
「まさか。今のこの不自由なんてそう大したものじゃない。ただ……」
「ただ?」
「……ただ、この先に待つ不自由は避けようがない」
「この先に待つ不自由?」
これよりもさらに不自由な未来があるというのか? そんなもの、信じたくもないのだけれど。
「そう。でもそれも仕方がないことなのかな、とは思っている。きっとこれは必要なことなんだ、って。だって、人類はたしかに進歩していると思えるもの。まあ、あまりにゆっくりなペースだけれども。それでもたしかに前に進んでいる。そしていずれは私もその役割を終えるのだと思う」
彼女の言葉は、抽象的でよくわからない。けれどもきっと、それが彼女にとってハッピーでないことくらいはわかる。
「まあでも、大丈夫だよ」
「なにが大丈夫なの?」
そう訊ねた彼女の瞳が、いつもよりも一層輝きを増したように見えた。
「キミがどんなに不自由でも、どんなに孤独になっても、隣にぼくがいるからさ」
それはただ、彼女を励ますために口にした気休めなんかじゃなかった。彼女と初めて出会ったあの瞬間から、今までずっとぼくたちは一緒にいたんだから。共に困難を乗り越え、共に路地裏を生き抜き、今もこうして共にいる。ならば、今さら離れ離れになんてなれるものか。これから先もずっと一緒にいて、彼女の不安も孤独も、支えてみせる。
「……なるほど、それはいいね」
と、彼女は微笑んだ。
「だからさ、あんまり悲しそうな顔をするなよ」
最近は外に出られていなかったせいか、浮かない表情が多かったから、ついそんなふうに言ってしまう。
「うん、そうだね。ありがとう」
わからないことだらけだけれども、それでもその感謝の言葉が彼女の本心かどうかくらいは、彼女のその表情、微かな瞳の揺らぎでわかるつもりだ。
きっと、アイリスは本心からその言葉を告げている。
――けれども、その誓いが果たされることはなかった。
それからしばらく経ったある日のことだった。ぼくたちの前に、ひとりの男が現れたのだ。偉そうに、何人もの黒服の男たちを従えて。
「やあ、キミがアイリスだね」
と、男はぼくたちの部屋の前に立って、いびつな笑みを浮かべた。なぜ、ここにこの男がいるのか理解ができなかった。おじさんと奥さんはアイリスが有名になってからは家のセキュリティも厳重にして、他人は決して家の中には上げなかったというのに。
「お前たち誰だよ」
そう言って睨みつけるものの、男たちはぼくのことなんて見向きもしない。ただアイリスのほうだけを見ている。アイリスは、その視線に答えるように無言で立ちあがった。
「ちょっと待ってよ、アイリス! この男たちと一緒に行くつもりか?」
振り返ったアイリスは、小さく頷いた。その顔には、なにかを諦めたような笑みが浮かんでいた。
「そうだね、今回はここまで、だね」
そう寂しそうに呟いた。
「今回は、ってなんだよ! 次回があるのか⁉ いつもそうだよ、いつだってアイリスはぼくにはわからないことを言う! ぼくたちはこれからもこの先も、ずっと一緒にいられるんだって信じてたのに!」
「だいじょうぶ、また会えるから」
「またっていつだよ! そんな曖昧な約束なんていらない! ぼくは――」
と、気が付けば、ぼくは彼女の手を引いていた。
思えばそれは、ぼくが初めて彼女の手にしっかりと触れた瞬間だった。それまでずっと一緒に隣にいたけれども、彼女の体温を感じるほどに強く触れたことはなかったのだと、そのときに初めて気付いた。
そして次の瞬間、後頭部に強い衝撃を覚え、気が付くと僕はベッドに横たわっていた。ベッドから状態を起こすと、すぐにおじさんと奥さんが駆け寄ってきた。
「ああ、よかった。目を覚ましたか!」
と、ふたりは涙を流しながらぼくを抱きしめたけれども、そこにアイリスの姿はなかった。




