7、青の魔女 《雲乃》
かつて、高級住宅街として名をはせた下町の一角、その最奥。そこに、ひときわ大きくて豪奢な洋館が姿を現した。広大な敷地を囲う塀。正門と思しき鉄門の前から、敷地内の屋敷が見える。そこには二階建ての豪邸が建っていた。
まだ昼も過ぎたばかりで東京の今日の天気の設定は晴れのはずなのに、屋敷の周りはなぜか薄暗く、ずいぶんと湿度が高く感じられた。肺を満たす空気はやたらとねっとりしている。
「ここが……」
思わず漏れた声に。
「さすがに雰囲気あるね」
と、ヒカルが応える。メビウスは黙したままだった。
「どうする?」
「うーん、やっぱりここまで来たんだから、せっかくなら会ってみたいよね。会えなくても、せめてその姿くらいは見てみたいなー」
「でもやっぱりザ・ブックが言っていたことは気になるよね」
史上最悪の魔女。
かつて、世界中を混乱に陥れたというその異名は、やはり安易な接触を躊躇させるに十分な抑止力を持っている。とはいえそんなことで怯むような性格ではないヒカルは目を輝かせながら、重厚な鉄門のすぐ隣に設置された、この荘厳な邸宅には似つかわしくないインターホンに手を伸ばした。
「え、お……おい」
あまりに平然としたその態度に、さすがにメビウスも慌てて彼女の肩をつかもうとする。さすがに私も手を伸ばしたけれども、その瞬間。
重そうな金属音とともに鉄門がゆっくりと開く。
ヒカルと、メビウスとも顔を見合わす、それからヒカルの手元に目を向ける。その手の人差し指はインターホンの五センチほど手前で止まってる。
「……いま、インターホン押した?」
ヒカルはふるふると首を横に振る。
「だよね? 扉、今勝手に開いた?」
「だね」
「だな」
そのまま私たち三人は鉄門の中を覗き込む。門から邸宅まで続く道はまるで蜜の香りのように私たちを誘っているように見える。
「ねえ、行ってみようよ」
無邪気に好奇心に従う彼女のその行動力は尊敬に値するけれども、今、この瞬間の選択としてそれが正しいのかはわからない。だって、こんなのアニメや映画の中じゃ完全に罠の中に飛び込んでいく、やられ役のシチュエーションじゃないか。ホラー映画なら、五秒で惨殺されるモブキャラだ。
「でも……」
なんて、戸惑う私の声を遮るように。
「よし、行こう」
と、メビウスは歩き出す。
「あ、ズルい! アタシが先に行こうとしたのに」
その背中にヒカルが続いて歩き出す。正直、こんな不気味な魔女の館に足を踏み入れるのは気が進まなかったのだけれども、ここでひとり取り残されるのはもっと嫌だ。
「ちょっと置いてかないでよ!」
少し出遅れた私は、軽い駆け足で彼女たちのあとを追いかけた。
玄関扉の前に立つと、よりその邸宅の豪華さが伝わってくる。柱や扉に施された装飾の細やかさ、美しさに見惚れてしまいそうになる。その玄関扉が、誰も触れていないのに勝手に開く。ゆっくりと、こちらの緊張感を煽るように、焦らすように。
そうして開ききった扉の中は、まるで高級なホテルの内装のように厳かな空間が広がっていた。床に敷かれたカーペットは豪奢でありながら品があり、大きな柱時計は大樹のようにその場に溶け込んでいながらも、その空間全体を見守っているかのようだった。天井は高く、吹き抜けになっていて、外からの明かりが差し込む。
そして、広間の奥に見える螺旋階段。
その中ほどに立つ一人の女性が目に入った。腰にまで届きそうなほどに長く、艶やかな黒髪。儚げな白い肌。涼しげで知性を感じさせる眼元に、少し歪な口元。それは、同性の私から見ても、思わず息をのむほど美しい人だった。
青いドレスのようなワンピースも当たり前のように平然と着こなしていて、溜息がこぼれそう。
「あらあら、来客なんて珍しい」
と、弦楽器のように多層的で魔的な響きの声が。
彼女が──
「魔女……?」
思わず零れたその失言に、慌てて口に手を当てる。けれども、そんなものなど意にも介さず彼女はそっと微笑んだ。もともと美しいと思っていたその顔はより魅力を増す。
けれども、同時に背筋が冷たくなり、全身粟立つ。
ああ、きっと彼女こそが魔女だ、と確信を持つ。
現実離れしたようなその美しさに、その身に纏う空気に、本能が告げる。彼女は普通ではない、異常なものである、と。
そもそも、彼女は歴史の教科書にも載っているほどの魔女だ。今から数十年も前に世界中を混乱に陥れた魔女。つまり、その容姿が明らかにおかしいのだ。本来ならば数十年も前に名をはせた彼女は、老婆の姿であっても不思議ではないはずだ。
けれども、こうして目の前にいる彼女の姿はどう見たって老婆ではない。三十代……二十代……いや、十代くらいにだって見えてしまうかもしれない。
「ええ、そうよ。私が魔女だけど」
と、彼女は話しながら螺旋階段を下りる。それと同時に私たちが入ってきた玄関扉がひとりでに閉まる。
バタン、というその音に、思わず私たちは振り返ってしまう。
「なにかご用?」
再び声がして、また振り返ると、階段を下りきった魔女が私たちの目の前に立ち、熱がこもっているのかどうかもわからないような、生温い空気感の笑みを浮かべていた。けれども、そんな笑みを浮かべていても、彼女の容貌はぞっとするほどに美しかった。
すぐ隣でメビウスが唾を飲み込む音がする。私は呼吸も忘れてしまっている。
「あの、アタシ、本物の魔女が見てみたくて、ここまで来ました!」
そして、いつも通りのヒカル。そんな彼女が心強くもあるし、心配にもなる。そんなふうに無遠慮に話して魔女の機嫌を損ねたりしないだろうか。
けれども、そんなヒカルを見て魔女は小さく手を合わせる。
「まあ、ならあなたたちはお客さん、ということね。いらっしゃい。ようこそ、魔女の館へ。歓迎するわよ。奥へどうぞ、お茶を出すわ」
そう言って、魔女は奥の部屋へと消えていった。それに躊躇もなくヒカルはついていく。私とメビウスはそのヒカルに続いて奥の部屋へと入る。そこには想像通りの高級そうなテーブルとソファが置かれていて、少し待っていると魔女がその部屋のさらに奥、キッチンからティーセットを乗せたトレーを手にして戻ってきた。
「さあ、遠慮せずにソファに掛けて」
と、魔女は促す。とくにそれを拒否する理由もないので、大人しく従う。相手は魔女だとはいえ、この現代においていきなり初対面の相手を魔法でカエルに変えたりするような無法者ではないだろう……と、信じたい。
魔女は私たちの前にひとつずつティーカップを置いていく。カップの中にはとても香りのいい紅茶が注がれている。それを私たちに配り終えた彼女は最後にテーブルの中央に八個入りのチョコレートのボックスを置いて、自らは少し離れたところに置かれた椅子に腰かけた。
「で、どうしてこんなへんぴな場所に住んでいる私なんかに会いに来ようなんて考えたのかしら?」
それは、いきなり自分のところへと押しかけてきた初対面の来客に対しては当然の疑問だろう。けれども同時に、彼女のその言葉は私たちを値踏みしているようにも聞こえた。私たちをどう取り扱おうか、と確かめるように。
ここで回答を誤れば、ただでは済まない。そう感じさせるほどの彼女の圧は、けれどもヒカルにはまったく伝わっていなかったみたいだった。
「はいはい!」と、ヒカルは元気よく右手を上げる。「魔女に会いたいって言いだしたのはアタシです! アタシ、小さなころから魔法少女に憧れてて……」
そこから彼女の魔女に対する愛はとめどなく語られ続け、それを魔女も相槌をはさみながら、微笑を浮かべて聞いていた。
「ずいぶんと熱狂的なファンもいたものね」
なんて、ようやくヒカルが語り終えた後に出た魔女の言葉は少し、緊張感が薄れていたように聞こえた。
「なんにしても、ここはなかなかお客さんが来ないから。こうして普通の会話というものを交わす機会がなくて、退屈なのよ。あなたみたいに元気な子がこうしてくれるのはとても嬉しいわ」
そう言って、魔女は手に持っていたティーカップに残っていた紅茶を飲み干す。
「でも……」
と、彼女が発した言葉の音の温度感が明らかに変化したのがわかった。彼女がテーブルに置かれたソーサーの上にティーカップを置く音が、やけに甲高く響いた。瞬く間に場に緊張が走る。さすがのヒカルも、その変化は感じ取ったようでその表情に緊張の色が浮かぶ。
「……私はかつて、死を司る最悪の青の魔女として人間たちからは忌み嫌われたのだけれど、それについては知っていたかしら?」
そう言った魔女の顔には、さっきまでとは明らかに質の違う邪悪な笑みが張り付いていた。
「……はい、まあ。ここに来る前に中央図書館で調べてきたから」
私がそう返すと、魔女は続ける。
「そう、私が最悪の魔女と知って、それでも来た、と。随分と豪胆ね。それともただのバカなのかしら。まあ、どっちだっていいけれど」
そう言って、魔女は右手をそっと差し伸ばす。私たちは身構え、緊張は高まる。その右手には、仄かに青く滲む光が見える。
室内には沈黙が満ちる。
聞こえてくるのは私たちの呼吸音だけ。
その静謐に、溺れているのかと錯覚してしまうほどに息苦しくなる。
その緊張の糸を切ったのは、魔女のほうだった。
伸ばしたその右手の力がふっと抜けたかと思うと同時に、邪悪な笑みを浮かべていたその表情が、無邪気に笑う少女のような顔に変わった。
「ははっ。そんなに緊張しないで、冗談よ。なんにも危害は与えないわ」なんて、楽しげに言う。「ホント、最悪の魔女だなんて、失礼な異名よね」
それは私たちを騙そうとする演技なんかにはとても見えなくて。本当にただ雑談を交わす友人のような距離感で、こちらの緊張感もあっという間に溶けていく。
「私、人間のことは嫌いじゃないわよ。だって、生まれた時から人間社会の中で生きてきたんだもの。人間の生み出すエンタテイメントで私だって楽しませてもらってきたのよ。ほら、見てよ」
そう言って、彼女が天井に人差し指を向ける。
「あそこにはスクリーンが収納されてるの。夜中に観るポップコーンムービーは最高の娯楽でしょう?」
たしかに、ポップコーンムービーを夜中に観るのは最高に贅沢な時間だと思う。とくに、バカみたいに街中が爆発しまくる映画がいい。妙なところで彼女と気が合うと知れて、親近感がわいてくる。
そうして魔女との会話が弾み、ひと段落したところで、それまでずっと沈黙を続けていたメビウスがようやく口を開いた。




