5、最悪の光景 《雲乃》
東京オリンポスの最下層、第一層“ポセイドン”よりもさらに下。下町の第四区画で私たちはバスを降りた。
ここはかつて、東京オリンポスが建設される以前には高級住宅街として名をはせた場所らしかった。周囲に立つ住宅は確かに立派なものが多く、その面影を残しているように見えた。けれどもそんな場所も、よくよく観察してみると端々の細部なんかはずいぶんと寂れて見える。
そんな下町で、ザ・ブックから教えてもらった魔女の館の住所と向かう。バスから降りて、徒歩で約二十分の距離。
少し歩くけれども、下町の雰囲気を感じながら歩くのも悪くないだろう。
ちょっとした小旅行気分で私たちは、洗練された未来都市然とした東京オリンポスとはまた違った、情緒あふれる街並みの風を感じながら歩く。気持ち、オリンポスの街中とはまた匂いが違うような気がする。基本的には同じ日本という国の中、しかも場所的には東京オリンポスの真下なのだけれども、それでもいたるところに違うところがあることに気付く。
オリンポス内にいると常に視界のどこかに入り込んでくる広告や、危険に対する注意が全くポップアップされないのだ。それはすなわち、この下町が未来予測システムの完全な影響下に置かれていないことを意味する。
この下町とオリンポスとの最大の違いはやはり、ラプラスシステムによる未来予測システムの有無だろう。
もちろん未来予測システムは日本中で活用されてはいるものの、その効果を最大限発揮できるのはやはり、システム完成後に建造され、最初期からシステムを織り込むことを前提に設計された東京オリンポス内だ。
つまり、この下町では未来予測システムは十全に機能しない。それが、オリンポスと比べて下町のほうが治安が良くない理由の一つでもある。
「おっと、危ない」
ヒカルがぴょん、と跳ねる。
見ると、彼女はどうやら足元の割れたタイルを飛び越えたみたいだった。
「よく気付いたね、今の。オリンポスだったら警告で事前に教えてくれてただろうに」
「いや、そもそもオリンポス内ならこんな割れたタイルはあり得ない」
「確かに」
なんて、私たちは笑い合う。
そう、オリンポス内ではこんなふうに傷んだ道路、歩道なんてものはあり得ないのだ。
オリンポス建造にあたって、一番の問題とされたのがその老朽化をどう抑えるのか、だった。標高一万メートルにも及ぶ超巨大建造都市。その巨大さゆえに、どうしたって建造に十年単位の時間がかかる。そうなると、最初に建造された部分と最新の建造部分ではどうしたってその劣化具合に差異が出る。最新部分を建設し続けながら、同時に古い部分を修復しなければいけなくなる。
それを解決したのが、自己増殖機能を搭載したナノマシンの登場だった。
そのナノマシンを完全に制御しながら、定期的に建造中の東京オリンポスへと散布する。ナノマシンはオリンポスの劣化や損傷した部分を確認すると自らの機能を駆使して自動修復する。それもまた、ラプラスシステムを可能とした量子コンピュータ《虹玉》の大きな成果の一つと言えるだろう。
そして、その自己増殖するナノマシンは今でも定期的に『雨』として散布され、東京オリンポスという世界最大の超巨大建造都市のメンテナンスに役立っている。それが、天候さえも完全にコントロールできるようになった今の時代でもオリンポスに雨が降る理由だ。
つまり、東京オリンポスでは劣化したり損壊したりしたような通路や建物なんてものは存在しないのだ。もしも存在するとしても、即座に修復されるまでのごくわずかな時間だけ。オリンポス内で損傷した個所を見つけると幸運が訪れる、なんて都市伝説が流行するくらいには珍しいものだ。
そんな、流れ星を見つけたに等しい幸運が、この場ではそこかしこにある。私たちの興奮が徐々にヒートアップしていくのは必然だろう。ヒカルの足取りは軽やかに、ステップを踏むように前へ前へと進んでいく。
そんな彼女の背中を追いかけようと右足を踏み出そうとして、息が止まる。
襲い掛かる浮遊感と、首筋を何かがすり抜けるような気配。
――あ、来る。
確信の飛来と同時に眼前に広がる、既視感のある未知の光景。
それは、今とそう変わらない景色。
ヒカルが歩き、私がそれに続く。私が見るのは彼女の背中。けれどもそれがリアルタイムの視野でないことは、身体の感覚で理解できる。私は今、未来を見ている。ほんのわずか先の光景なのだろう。
ステップを踏むように進むヒカルが、少し広い十字路に出ようとしたその瞬間だった。
それはなんの前触れもなく唐突に。
思わず肩が跳ねるほどの轟音が耳を突く。
その音と共に目の前にあったはずのヒカルの姿は消え、そこには代わりに大きくひしゃげた巨大な看板があった。
心臓はこれまでに体感したことのない速度で早鐘を打ち続けている。
呼吸は早く、浅く、酸素をうまく体内に取り入れられていないのがわかる。視界は徐々に狭くなる。
キュッと狭くなったその視界が捉えるのは、ひしゃげた看板の下に広がる赤い池。その周囲に散るのは数多の肉片。
それは、かつてヒカルだったものの成れの果て。
「……ぁ……はぁ」
声は、声にならずに掠れた空気が漏れ出るだけ。
全身の震えは止まらない。
震えが止まらないままに、その光景は過ぎ去っていく。
後に残ったのは、網膜に焼き付いた最悪の光景と、それと重なるように私の前を無邪気に歩くヒカルの姿。
それは、これまで見てきた中でもっとも酷い未来だった。
これまでに何度も見てきた未来視は、いずれも平凡なものだった。ただいつもの通学路を歩くだけの光景、ヒカルとじゃれ合うだけの光景、推しのアイドルが引退すると知ってショックを受ける光景。特別なものも、せいぜいがテストの内容を先に知れる、という程度のもの。
だから、大きく未来を変えるような行動なんてとったことはなかった。
とる必要性がなかった、と言うべきか。なにもない平凡な一日を過ごせればよかった私は、見た通りの未来をただそのままなぞるだけでよかった。それだけで、私は幸せに過ごせていた。それだけ、オリンポスが平和な場所だったのだろう。
けれども、今は違う。
ここはオリンポスではなく、このままなにもしなければ親友を失ってしまう。
なのに、声は出ない。今すぐに彼女を呼び止めなければ。わかっている。それでも声が出ないのは、未来を変えてしまうことへの恐怖からか。
人の生死を自分一人の判断で変えてしまってもいいものなのだろうか。
それは、あまりに大きな決断で、自分にはあまりにも荷が重すぎる。けれども、刻一刻とその瞬間は迫ってくる。
彼女の死のリミット、十字路はすぐそこに見える。
もはや、迷っている暇はなかった。このまま放っておけば確実に悲劇的な結末を迎えてしまうのだから。誰かが死ぬのと、助かるのと。どっちがいいのかなんて、そもそも考えるまでもないことだろう。
そんなの、絶対に助かるほうがいいに決まっている。
全身は震えて、未だ声は出せなかった。だから、思い切って足を踏み出すことにした。するとあとは勝手に体が動いた。
ヒカルの腕をつかみ、その体を私のもとへと引き寄せていた。
その直後、古びた看板が轟音と共に地面に叩きつけられ、土煙を上げていた。
「びっくりした! 助かったよ、ありがとう」
彼女は目を丸くして振り返り、私の顔をまじまじと覗き込んだ。
けれども私は何も言えない。
「今の、視えてたの?」
その彼女の言葉に、私は小さく何度も頷くことしかできなかった。
「まさか、君は未来が見えるのか……⁉」
と、突如耳に入ってきた声に驚いて、その声の聞こえてきた方向へと目を向ける。そこには、白髪交じりの髪を撫でつけた一人の男の姿があった。




