第8話 運命の求婚
陽光が、霧の晴れた森を穏やかに照らしていた。
先ほどまでの死闘が嘘のように、風は優しく木の葉を揺らしている。ミスト・エンペラーが消滅した跡には、ただ清浄な空気だけが漂っていた。
レオンハルトは、返り血と泥に汚れた顔を乱暴に袖で拭うと、足元に転がっていた旅の荷物を拾い上げた。
(……さて、これ以上――ここにいる理由はないな)
彼は一度も振り返らず、街道の先へ歩き出そうとした。
助けた相手が王女であろうと、今の彼には関係なかった。
むしろ、高貴な身分であればあるほど、関わればロクなことにならない――その教訓は、グラン・メリアでの生活で、嫌というほど彼の身に刻み込まれている。
「お待ちください!」
背後から、鈴の音を転がしたような、だが力強い声が響いた。
レオンハルトが足を止め、億劫そうに振り返る。
そこには、泥だらけの地面を厭わずに駆け寄ってくる、ラトニア王国の第三王女・フィリアの姿があった。
彼女のドレスの裾は汚れ、端正な顔立ちにも煤がついている。
だが、その瞳だけは、真夏の太陽のように眩しくレオンハルトを射抜いていた。
「礼には及びません。……ただの、通りすがりの旅人ですから」
レオンハルトは努めて冷淡に突き放そうとした。
深入りすれば、また「聖剣を使え」と言われる。また「私の所有物になれ」と囁かれる。そんな未来が、容易に想像できた。
しかし、フィリアの反応は、彼の予想を大きく裏切るものだった。
彼女はレオンハルトの前に立つと、彼の泥にまみれた右手を、躊躇なく両手で包み込んだのだ。
「……ッ!」
レオンハルトが絶句する。
彼の指先は、戦いと旅の過酷さでマメだらけになり、爪の間には黒い土が入り込んでいる。グラン・メリアの令嬢たちなら、顔を顰めて近づくことさえしなかったであろう、汚れた「戦士の手」だ。
「なんて……なんて、温かくて、強い手なのでしょう」
フィリアの瞳から、一筋の涙がこぼれ落ちた。
それは恐怖から解放された安堵の涙ではなく、目の前の青年の歩んできた「道のり」に対する、深い慈しみから来るものだった。
「あなたは……どれほどの悪意にさらされ、どれほどの孤独を抱えて、この剣を振るってこられたのですか? この手は、ただ人を救うためだけに、これほどまでに傷ついている……」
「……何を、言っているんですか」
レオンハルトの声が、わずかに震えた。
自分の力を恐れる者はいた。
利用しようとする者は山ほどいた。
だが、自分の「傷」に気づき、そこに涙を流してくれた者など、これまでの人生で一人もいなかった。
「レオン様。私は、あなたを見て、確信いたしました」
フィリアは、レオンハルトの手を握ったまま、その場に静かに膝をついた。
一国の王女が、身分の知れぬ旅人の前で跪く。その異様な光景に、周囲の騎士たちが騒然となった。
「フィリア様!? 何をなさるのですか!」
「お立ちください! いくら命の恩人とはいえ、それではあまりに……!」
「黙りなさい!」
フィリアの毅然とした一喝が、騎士たちを黙らせる。
彼女はレオンハルトをじっと見上げた。その眼差しには、打算も、所有欲も、傲慢さも微塵もなかった。
そこにあるのは、純粋な敬愛と、一目惚れという言葉では片付けられないほどの魂の共鳴だった。
「私の国、ラトニアは小さな国です。グラン・メリアのような栄華も、強大な軍事力もありません。ですが、私は知っています。本当の強さとは、力そのものではなく、その力を振るう者の『心』にあることを」
フィリアは、深く息を吸い込み、レオンハルトの瞳の奥を覗き込んだ。
「レオン様。私は……あなたに、恋をいたしました」
「……え?」
レオンハルトの思考が停止した。
「どうか、私の夫になってはいただけませんか。私の隣で、共にこの国を守り、共に生きてほしいのです。あなたのその優しさが、二度と誰にも踏みにじられないよう、私が、私の命を懸けてあなたを愛し、守り抜くと誓います」
静寂が、森を包み込んだ。
レオンハルトは、目の前の光景が信じられなかった。
泥まみれで、家も名誉も捨てた自分。誰からも忌み嫌われ、追い出された自分。
そんな自分を、これほどまでに真っ直ぐに、ありのままに見つめ、愛を語る女性が現れるなんて。
彼の脳裏に、かつて自分を辱めたイザベラやカシウスの顔が浮かんだ。
しかし、それは瞬時に霧散していった。
もう、どうでもよくなったのだ。
あんな腐り果てた国のために、自分の心を削る必要など、どこにもなかったのだ。
「……俺で、いいんですか。何も持たない、ただの剣士ですよ」
「あなたこそが、私の探し求めていた、世界で唯一の『聖剣』です。刀身にではなく、その魂に光を宿した、私の騎士様」
フィリアが愛おしげに微笑む。
その笑顔を見た瞬間、レオンハルトの心の中にあった最後の氷が、春の陽光を浴びたように融けていった。
「……分かりました。この剣が、あなたの……そして、あなたの愛する国を守る盾となるなら。喜んで、お受けします」
レオンハルトが優しく、フィリアの手を引いて立ち上がらせた。
騎士たちが歓喜の声を上げる中、二人は並んで歩き出す。泥だらけの二人が、太陽の光に包まれて歩く姿は、どんな絵画よりも美しく、神々しかった。
* * *
――その頃、大国グラン・メリアの王都は、地獄と化していた。
「いやぁぁっ! 誰か、誰か助けて!」
イザベラが、煤に汚れたドレスを翻しながら、燃え盛る王宮を逃げ惑っていた。
レオンハルトがいなくなったことで抑止力を失った国に、再び魔獣の群れが襲来。それだけでなく、レオンハルトの「所有権」を巡って争っていた貴族たちが、責任の擦り付け合いから私兵を動かし、内乱が勃発したのだ。
「レオンハルト! どこなの!? 早く私のところへ来なさい! 助けなさい!」
彼女は、空に向かって絶叫する。
だが、その声が彼に届くことは、二度となかった。
彼女が欲したのは、彼という人間ではなく、彼がもたらす「利権」と「虚栄心」だけだった。その報いを、彼女は今、反乱の起きた王国と共に支払わされていた。
一方、ラトニア王国の国境を越えるレオンハルトの背中には、もう迷いはなかった。
新しい国。
新しい名前。
そして、自分を真に愛してくれる女性。
泥まみれの英雄は、今、真の聖剣をその胸に抱き、新しい物語の幕を開けるのだった。




