第6話 国境の霧
大国グラン・メリアの国境を越える山道は、峻険で、どこまでも孤独だった。
レオンハルトは、一歩一歩、湿った土を噛み締めるように歩を進めていた。
背負っているのは、王宮に置いてきた豪華な装備ではなく、旅の道具を詰め込んだ古びた革袋と、村の鍛冶屋で安く買い叩いた無骨な鉄剣のみ。
夜は焚き火で暖を取り、硬い干し肉を齧る。「救国の英雄」に相応しくない野宿の生活だったが、彼の表情は驚くほど穏やかだった。
(……空気が、美味いな)
誰の視線も気にしなくていい。
自分の言葉を曲解され、一挙手一投足を毒に浸したような噂に変えられることもない。レオンハルトは、戦神から与えられた強大な加護を、意識的に体の奥底へと押し込めていた。
聖剣の力を宿す彼の魂は、放っておけば周囲の空気を震わせるほどの神聖な波動を放ってしまう。それを極限まで練り込み、薄めることで、彼は今、どこにでもいる「食い詰めた浪人騎士」にしか見えないはずだった。
やがて、街道は深い森へと差し掛かった。
そこは、大国グラン・メリアと小国ラトニアを分かつ境界の地。
この辺りは年中、深い霧に包まれていることで知られていたが、今日の霧は格別に濃かった。視界は数メートル先も見えないほどに白く染まり、湿り気を帯びた冷気が肌を刺す。
「……妙だな。ただの霧じゃない」
レオンハルトは立ち止まり、微かに鼻を突く「魔力」の匂いを嗅ぎ取った。
それは、あの日戦ったベヒーモスのものとは違う、もっと狡猾で、悪意に満ちた捕食者の気配だった。
その時――。
霧の向こう側から、空気を引き裂くような鋭い悲鳴が届いた。
「嫌……っ! 来ないで!」
続いて、重厚な金属同士が激突する音と、獣の低い唸り声。
レオンハルトの身体が、思考よりも先に反応した。彼は背負っていた荷物を街道の脇へ放り投げ、霧の中へと駆け出した。
(関わってはいけない。……俺は、誰かのために戦って――痛い目を見てきたじゃないか)
頭の片隅で、冷静な自分が警鐘を鳴らす。
ここで力を使えば、また「英雄」として祭り上げられ、あるいは「化け物」として忌避されるかもしれない。
穏やかな旅路は、ここで終わりを告げるだろう。
しかし、彼の足は止まらなかった。
泥を塗られ、裏切られ、絶望の底に突き落とされても、彼の魂に刻まれた「弱きを救う」という誓いだけは、誰にも奪い去ることはできなかったのだ。
霧を抜けた先は、小さな広場になっていた。
そこには、複数の豪華な馬車と、それを取り囲んで必死に防戦する兵士たちの姿があった。彼らが身に纏っているのは、グラン・メリアのそれとは違う、深紅の外套――隣国ラトニアの王家直属の衛兵たちだった。
彼らが相対しているのは、霧の中から現れた異形の集団だった。
身長三メートルはあろうかという巨大なカマキリのような魔物、『ミスト・スライサー』。その鎌は、衛兵たちの強靭な盾を紙のように切り裂き、次々と血飛沫を上げさせていた。
「フィリア様! 中へ! 決して外に出ないでください!」
深手を負った隊長らしき男が、中央の最も豪華な馬車を庇いながら叫ぶ。
しかし、絶望はすぐそこに迫っていた。
霧の中から、さらに巨大な個体が姿を現したのだ。それは他の個体とは一線を画す、禍々しい紫色の魔力を全身から放っていた。
ギィィィィィィィィッ!!
不快な擦過音と共に、巨大な鎌が振り下ろされる。
隊長の剣は呆気なく折れ、彼は吹き飛ばされた。
馬車を守る者は、もう誰もいない。
魔物の鎌が、馬車の扉を無理やり引き剥がそうとしたその瞬間――。
ヒュン、という短い風切り音がした。
「……そこまでだ」
魔物と馬車の間に、いつの間にか一人の男が立っていた。
煤けた革鎧に、手入れの行き届いていない鉄剣を抜いた、冴えない旅人。
魔物は、突然現れた「弱そうな獲物」に苛立ち――
標的をレオンハルトへと変えた。
「おい、逃げろ……! 一般人が勝てる相手じゃない!」
地面に倒れた隊長が血を吐きながら叫ぶ。
だが、レオンハルトは動じない。彼は安物の鉄剣を正眼に構え、深く、静かに息を吸い込んだ。
抑え込んでいた剣気を、ほんの少しだけ――
一割にも満たない程度、剣に込める。
その瞬間、彼の周囲の霧が、目に見えない衝撃波によって一気に吹き飛ばされた。
レオンハルトの全身から、黄金色の粒子が微かに立ち上る。
安物の鉄剣が、主の意思に呼応するように、白銀の輝きを帯び始める。
「この国で、同じ失敗をするつもりはなかった。……だがっ!」
レオンハルトは一歩踏み出した。
その足取りは軽く、それでいて山脈のような重厚さを伴っていた。
「見捨てて通り過ぎるほど、俺はまだ、大人になりきれていないらしい」
魔物が咆哮を上げ、高速の鎌を振り下ろす。
しかし、レオンハルトの踏み込みはそれよりも速い。
白銀の閃光が、霧に包まれた森を一瞬だけ、真昼のように照らし出した。




