第5話 崩壊の序曲
英雄が去った後の王都は、驚くほど静かな朝を迎えた。
レオンハルトが使っていた騎士団宿舎の簡素な部屋は、主を失い、冷え切っていた。毛布は几帳面に畳まれ、机の上には支給された備品が一つ残らず揃えて置かれている。まるで、最初からそこに誰もいなかったかのような、潔すぎる去り際だった。
「逃げただと……? あの卑怯者が、我らの裁きから逃亡したというのか!」
王宮の会議室では、宰相の怒号が響いていた。
彼らにとって、レオンハルトは「力を持っているが御しやすい駒」であるはずだった。適度に泥を塗り、誇りを傷つけ、自分たちの庇護なしでは生きていけぬように調教する――。
その計画が、レオンハルトの「身分を捨てる」という予想外に大胆な一手によって、根底から覆されたのだ。
「……しかし宰相閣下、問題はそれだけではありません。彼が持っていた『聖剣』の加護……あれは彼個人の能力でした。彼がいなくなった今、我が国の軍事的な抑止力は大幅に低下しています」
一人の老官吏が震える声で指摘したが、宰相は机を叩いてそれを遮った。
「黙れ! あのような下級貴族上がり、代わりなどいくらでもいる! カシウス副団長率いる近衛騎士団がいれば、国防に支障などない!」
だが、その「代わり」がいると信じている貴族たちの足元では、すでに別の毒が回り始めていた。
「……誰のせいかしら。あの方が、あんなに絶望して去ってしまったのは」
ヴァロア公爵家の豪華なサロン。
そこに集まった令嬢たちの間に、これまでの「共謀者」としての連帯感は微塵もなかった。
中心に座るイザベラが、冷え切った紅茶のカップをソーサーに叩きつける。
「ロゼッタ。あなたが、彼に『暴行された』なんて下手な芝居をしたからじゃない? あの方は潔癖すぎるの。あんな嘘をつかれたら、戻ってくる場所がなくなることくらい分からなかったの?」
名指しされた伯爵令嬢ロゼッタが、顔を真っ赤にして反論する。
「なんですって!? それを言うなら、イザベラ様こそ! あの方をゴミ捨て場の警備に回すよう裏で手を引いたのはどなた? あんな屈辱を与えれば、誇り高い騎士が耐えられるはずないわ!」
「私は、彼を弱らせて私に縋らせようとしただけよ! それを、あなたたちが寄ってたかって余計な泥を塗るから……!」
「ふん、自分が一番あの方を愛されているような言い草ですこと。結局、あなたの『所有欲』が彼を追い出したのよ!」
罵声が飛び交う。
彼女たちの歪んだ愛情は、ターゲットを失った瞬間に、隣にいるライバルへの剥き出しの憎悪へと転換された。
この日を境に、ヴァロア公爵家を中心とした派閥は分裂。
令嬢たちの親である有力貴族たちもまた、娘たちの諍いに引きずり込まれる形で、予算の配分や領地の境界線を巡る「内ゲバ」を激化させていった。
国を救った英雄を追い出すために使われた知略は、今や国そのものを引き裂くための凶器となっていた。
そして、英雄不在の代償は、予想よりも早く「物理的な脅威」として現れた。
「報告します! 北の街道に『オーク・ジェネラル』率いる一団が出現! 商隊が襲われ、守備隊が全滅しました!」
報せを受けた騎士団の詰め所に、緊張が走る。
レオンハルトであれば、報せを聞くや否や単身で駆けつけ、聖剣の一振りで霧散させていた程度の相手だ。
「……カシウス副団長、出陣の準備を!」
部下に促され、カシウスは苦虫を噛み潰したような顔で立ち上がった。
「分かっている……。あんな豚共、近衛の精鋭がいれば造作もないことだ」
カシウスは、レオンハルトを「運よく加護を授かっただけの田舎者」と侮っていた。自分たちの洗練された剣技と魔法武具があれば、聖剣などなくても遅れは取らないと信じていたのだ。
だが、戦場は残酷だった。
王国の切り札だった魔法武具は、先の戦闘で大幅に在庫を減らしていた。
しかも、北の街道で彼らを待ち受けていたのは、以前よりも遥かに凶暴化した魔物たちだった。
魔物の活性化はベヒーモスだけに起きた現象ではない。
「ひ、怯むな! 突撃しろ!」
カシウスが叫ぶが、近衛騎士たちの動きは鈍い。
彼らの多くは、実戦経験よりも式典での行進や、社交界での立ち振る舞いに長けた貴族の子弟だ。
「ギィィィィッ!」
オーク・ジェネラルの巨大な棍棒が、最高級の魔法銀で作られたカシウスの盾を、紙細工のようにひしゃげさせた。
「ぐあぁっ!?」
腕に走る激痛。
盾を捨てて後退するカシウスの目に映ったのは、魔物たちの暴力に晒され、悲鳴を上げて逃げ惑う部下たちの無様な姿だった。
「な、なぜだ……! 我が騎士団の装備は最高級のはず……あんな貧乏貴族の剣に劣るはずが……!」
彼らは理解していなかった。
道具の良し悪しではなく、死線を越えて民を守ろうとする「意志」と、それを支える圧倒的な「個の力」こそが、グラン・メリアの平和を支えていたということを。
結局、カシウスたちは多大な負傷者を出しながら――
命からがら王都へ逃げ帰った。
魔物の群れは近隣の村を蹂躙し、避難してきた民衆が王都の門に押し寄せた。
「英雄様はどこだ! レオンハルト様がいれば、こんなことにはならなかったはずだ!」
「騎士団は何をしている! あの方は一人でベヒーモスを倒したのに、お前たちは何十人で一匹のオークも倒せないのか!」
民衆の怒声が、昼夜を問わず王宮の外で響き渡る。
昨日までレオンハルトに石を投げていた者たちまでが、今や自分たちの身を守るために、自分たちが追い出した英雄の名を叫んでいた。
王宮の窓から、混乱する街を見下ろすイザベラの顔には、もはや余裕の色はない。
「……どこなの、レオンハルト。早く戻ってきて、私を、この国を助けなさいよ……。そうすれば、少しは許してあげてもいいのに……」
彼女はまだ、自分が何をしたのかを理解していない。
英雄は、もういない。
彼が捨てたのは勲章だけでなく、この愚かな国を愛そうとした自分自身の心そのものだったのだ。
大国の崩壊は、外からの侵略ではなく、内側からの腐敗と、たった一人の「希望」を自ら手放した傲慢さによって始まり、そして急速に進んでいった。




