第28話 銀嶺の砦と黄金の火
聖王国の王都を目指し、ひたすらに北上を続ける二人の前に、天を突くような巨大な氷壁が立ちはだかった。
それは「銀嶺の防壁」――
往時、容赦なく吹き付ける北風と魔境の脅威から、聖都を護る絶対の盾として機能していた大絶壁である。
しかし、大陸の平穏を支えていた聖女ローゼメアリーが斃れ、その結界が霧散した際、この防壁を守護していた高潔な騎士団の大半は、壁を越えて雪崩れ込んできた魔獣の群れとの凄絶な死闘の末、悉く散っていた。
今や防壁の各所には不気味な亀裂が走り、ただ凍てつく風の唸り声だけが、かつての栄華の終わりを告げる挽歌のように響いている。
レオンハルトとフィリアが吹雪を突いて辿り着いたのは、その防壁の要所に位置する、石造りの古い砦だった。
すでに正規の防衛戦力は絶滅していたが、そこには周辺の開拓村から命からがら逃げ延びてきた数十人の人々が、身を寄せ合うようにして隠れていた。
だが、彼らに安息の時間は残されていなかった。
砦の周囲は、周囲の寒気を吸い上げて生み出された数体の魔獣――『アイス・ゴーレム』によって、完全に包囲されていたのだ。
「……あれは、魔力の核を中心に、周囲の氷や岩を強制結合させた自律型の魔像だ」
レオンハルトは外套を払い、腰の鉄剣――
幾多の死線を共に潜り抜けてきた、折れずの相棒を引き抜いた。
「フィリア、難民たちの避難経路を確保してくれ。僕が前線を押し上げる」
「はい、レオン様。どうか、ご無事で……!」
* * *
吹雪の混ざる大気を切り裂き、レオンハルトは単身、氷の巨像たちの懐へと飛び込んだ。
彼が振るう刃には、かつて世界を救った瞬間に見せた、神々しい聖剣の輝きは宿っていない。戦神の黄金のオーラもない。
しかし、その無骨な鉄剣が描く軌道には、あの破壊神イザベラを討伐した際、彼女の強大な肉体を力尽くで削り取った時の「圧倒的な質量の感覚」が完全に再現されていた。
加護というシステムを必要としない。
彼の身体操作は、一振りの剣に己の体重、踏み込みの衝撃、そして大気の抵抗さえもエネルギーとして集約させる域に達していた。
一体のアイス・ゴーレムが、家屋の柱ほどもある巨大な氷の拳を、レオンハルトの脳頭めがけて振り下ろす。
ドゴォン!
と、空間を爆裂させるような衝撃音が響き、石畳が粉砕された。
だが、レオンハルトの姿はそこにはない。
彼は骨盤をわずかに傾けるスウェーだけで拳の直撃を紙一重で回避し、巨像の懐、装甲の隙間へと滑り込んでいた。
* * *
ゴーレムの胸部中央。
半透明の氷の奥で、禍々しく明滅する「魔力の核」が露出している。
レオンハルトは両手で握った鉄剣の切っ先を、その一点へと正確に固定した。
――足裏から伝わる大地の反発を、膝、腰、背骨へと連動させ、すべての運動エネルギーを剣先という「極小の点」へと集中させる。
「ハッ……!」
鋭い呼気と共に放たれた一突きは、硬質な結晶の結合線を完璧に捉えていた。
パキィィィンッ!!
金属質な破壊音が響き渡り、魔力の核が一撃のもとに粉砕される。
動力を失った巨像は、自らの質量を支えきれずに激しい音を立てて崩壊し、ただの物言わぬ氷塊へと還っていった。
「グルゥオオオッ!」
残る数体のゴーレムが、侵入者を圧殺せんと同時に襲いかかる。
しかし、神の領域へと至ったレオンハルトの洗練された剣技の前には、それらの猛攻も鈍重な磁器の動きに過ぎなかった。
円の軌道を描くような流麗な足さばきで死角へと回り込み、関節の結合部を寸分の狂いもなく斬り裂いていく。
数分と持たず、砦を包囲していたすべての巨像は、冷たい雪原へと沈黙した。
「もう大丈夫です。怪我をされている方は、こちらへ見せてください」
戦闘の終結を見届けるや否や、フィリアが砦の広場へと真っ直ぐに駆け寄っていた。
恐怖に震え、神の救いを諦めかけていた生存者たちの前に、彼女はそっと両手を掲げる。
紡がれるのは、どこまでも清らかな、白銀の光。
先代聖女亡き後、この国の民の心は凍りついていた。
だが、フィリアの放つ慈愛に満ちた魔力は、人々の凍傷や裂傷を優しく塞ぐだけでなく、絶望に沈んでいた彼らの魂の奥底に、消えることのない温かな「希望の灯火」を再燃させていった。
人々の瞳に、失われていた生気がみるみるうちに戻っていく。
* * *
その夜、レオンハルトは砦の古びた調理場を借り、二人で食べるための夕食の準備に取り掛かっていた。
今夜の献立は、「塩漬け豚と冬野菜の豪快ポトフ」、そしてデザートには「薪火で焼いたとろとろの焼きリンゴ」だ。
まず、使い込まれた厚手の鉄鍋を火にかけ、大きく角切りにした塩漬けの豚バラ肉をじっくりと炒めていく。
ジュワジュワと、熱によって溶け出した上質な脂が鍋の底で香ばしく色づき、燻製のような深い塩気と、肉の焦げる芳醇な匂いが調理場を満たしていく。
そこに、雪の下で寒さに耐えながら甘みを極限まで蓄えた大きな人参とカブ、さらに倉庫の隅に残されていた乾燥豆を贅沢に放り込んだ。
数種類の乾燥ハーブと、澄んだ湧き水を注ぎ込み、暖炉の強い薪火でコトコトと長時間煮込む。
肉の滋味深い塩気が野菜本来の濃密な甘みを極限まで引き出し、鍋の中には、とろりとした黄金色の極上スープが完成した。
「フィリア、できたよ。冷えた体を温めてくれ」
差し出された木皿の上には、スプーンが容易く通るほどホロホロに煮込まれた豚肉が鎮座し、立ち上る熱い湯気が鼻腔を激しく刺激する。
フィリアがスープをすくい、そっと口に含む。
「――っ、美味しい……! 豚肉の脂のコクが、お野菜の優しい旨味と一緒に、体中に染み渡っていきます……っ」
彼女は頬を上気させ、噛む必要すらないほど口の中で柔らかく解けていく豚肉の食感に、心底幸せそうな吐息を漏らした。
だが、今夜のご馳走はこれだけでは終わらない。
レオンハルトは食事が始まる前、暖炉の熾火と灰の隙間に、ある仕掛けを施していた。芯をくり抜き、そこにたっぷりのバターと砂糖、そして微量の香草を詰め込んだリンゴを、灰の熱でじっくりと蒸し焼きにしていたのだ。
灰の中から取り出されたリンゴは、果皮が熱でシワ寄り、内側から溢れ出た蜜がパチパチと音を立てて泡立っていた。
レオンハルトがそれをナイフで二つに割ると、閉じ込められていた熱い果汁がドッと溢れ出し、バターの芳醇な乳香とリンゴの甘酸っぱい香りが、爆発的に広がった。
「まぁ……っ!」
熱気の湯気に視界を潤ませながら、フィリアが熱々の果肉をハフハフと口に運ぶ。
「甘くて……ほんのり酸っぱくて、本当にとろとろですわ……。最高のご馳走です、レオン様」
とろけるような甘さと、焦げた砂糖のほろ苦さが絶妙に絡み合い、極寒の地での疲れが瞬時に溶けていく。
彼女は何度も頷きながら、心底愛おしそうに目を細めて焼きリンゴを味わった。
「美味しくできてよかった。……明日は、いよいよ聖都だね」
レオンハルトの言葉に、フィリアはスプーンを置き、その真っ直ぐな瞳で見つめ返した。
「はい。どんな困難が待っていようとも、共に参りましょう、レオン様」
暖炉の黄金の火に照らされた二人の顔には、往時のどんな神の加護よりも力強い、自らの足で新しい明日を歩み続ける者だけの、確かな覚悟が美しく宿っていた。




