第29話 聖都の夜明けと終わらない旅
地平線を覆う白銀の山脈を越え、レオンハルトとフィリアの二人は、ついに聖王国の王都へと辿り着いた。
往時、清廉な白亜の街並みと強固な結界に守護されていた気高き都。
しかし、数ヶ月前の結界崩壊と、それに伴う魔獣の容赦なき襲撃によって、現在の王都は往日の面影を失い、見る影もなく荒廃していた。
崩落した尖塔、凍てついた大通りが、激戦の傷痕を物語っている。
だが、そこにあったのは絶望だけではなかった。
カン、カン、と冷たい大気を震わせて、小気味よい槌音が響き渡る。
驚くべきことに、二人がこれまでの旅路で救ってきた数々の村々から噂が広がり、少しずつ人々がこの聖都へと集まり始めていたのだ。
「英雄と聖女がこちらへ向かっている」という噂は民の心を動かし、絶望に沈んでいた王都に、復興のための力強い活気をもたらしていた。
「レオン様、見てください。皆さん、前を向いていらっしゃいます」
「ああ。僕たちが繋いできた火は、消えていなかったんだな」
レオンハルトは隣を歩くフィリアの、少し大人びた横顔を見て微笑んだ。
二人は再会の喜びを噛み締める間もなく、すぐさま聖都の復興作業へと身を投じた。
* * *
建物の再建を進める上で最大の障壁となっていたのは、崩壊した王宮の地下や外郭に巣食う、残存した強力な氷の魔獣たちだった。
とりわけ、凍気を放ち鋼鉄の爪を持つ『氷爪の凶獣・ガルム』の群れは、復興組織の手を焼かせていた。
レオンハルトは、使い込まれた無骨な鉄剣を構え、単身でその群れの中心へと切り込んだ。
かつて世界を震撼させた戦神の加護は、すでにその身にはない。
黄金の神気も、天を割るような魔力の奔流も消失している。
しかし、彼の剣は「神殺し」という前人未到の経験を経て、肉体の限界を完全に超越した、一国の軍勢に匹敵するほどの絶対的な練度に達していた。
ガルムの巨体が、音もなくレオンハルトの死角へと跳ぶ。
だが、レオンハルトの空間把握能力は、大気のわずかな振動から敵の軌道を完璧に割り出していた。
無駄な力みは一切ない。
彼は右足の踏み込みから生じるエネルギーを、骨盤、背骨、そして肩へと流れるように連動させ、最小限の予備動作で剣を突き出した。
ガキィン!
と、結晶化した爪を正面から叩き折る鋭い衝撃音が響く。
レオンハルトは剣先を微塵もぶれさせることなく、そのまま刃筋を滑らせて魔獣の喉元を正確に一閃した。肉を切る手応えすら置き去りにするような、洗練の極致たる速度。
息を合わせるように迫る別の個体に対しても、正中線を垂直に保ったまま、脱力からの爆発的な加速で懐へ滑り込み、胸部の魔力核を一突きで粉砕していく。
神の光を失ってもなお、彼の振るう鉄剣は、あらゆる理不尽を切り伏せる「人の技の到達点」そのものだった。
一方、フィリアもまた、その美しく研ぎ澄まされた癒しの力で人々を救っていた。
彼女が枯れ果てた聖都の広場の泉に立ち、両手をそっとかざすと、清らかな白銀の魔力が渦巻いた。
「……目覚めなさい、清浄なる水の息吹よ」
凍りついていた地脈が解け、こんこんと清らかな水が溢れ出し、泉を満たしていく。
肉体の傷を癒やし、乾いた大地を潤す彼女の慈愛に満ちた姿は、先代聖女を失い、深い暗闇の中にいた人々の心に、消えることのない希望の灯をともしていった。
* * *
数日間にわたる懸命な奉仕を終えた、最後の夜。
二人は復興が始まったばかりの、まだ少し隙間風の吹く宿屋の厨房を借り、この長い旅のひとつの区切りとなる食事の用意を始めた。
今夜の献立は、「銀マスのソテー・焦がしバターソース」と、「厚切りスモークベーコンとジャガイモのラクレット風」だ。
まず、聖王国の清冽な川で獲れた、丸々と脂の乗った銀マスを三枚におろす。
十分に熱した鉄のフライパンにバターを滑らせ、皮目から静かに落とした。
パチパチ、チリチリという軽快な音と共に、香ばしい皮の焼ける匂いが狭い調理場に立ち込める。
身を裏返し、レオンハルトはたっぷりの追いバターと、摘みたての新鮮な香草を投入した。
ジュワァァと激しく泡立つバターが白身を優しく包み込み、スプーンで何度も回しかける(アロゼ)ことで、銀マスの身は艶やかな黄金色へと染まっていく。
隣のコンロでは、聖都の地下倉庫から奇跡的に傷なしで見つかった、最高級のスモークベーコンが火にかけられていた。
惜しげもなく厚切りにされた肉に熱が通ると、ジワジワと透明な上質の脂が溢れ出す。
その旨味が、傍らで転がされているホクホクとした下茹で済みのジャガイモの芯まで、じっくりと染み込んでいく。
仕上げに、暖炉の直火で表面を限界まで炙り、ふつふつと泡を立てて今にも崩れそうになった濃厚な丸ごとチーズを、その上から滝のように豪快に流しかけた。
「さあ、フィリア。一緒に食べよう」
差し出された大皿の上で、熱々のチーズがグツグツと音を立て、焦げたバターの芳醇な乳香と、燻製肉の濃厚な薫香が交じり合い、食欲を激しく、暴力的なまでに刺激する。
フィリアがフォークを手に取り、とろとろのチーズをたっぷりと絡めたジャガイモを、ハフハフと息を吹きかけながら口へと運んだ。
「――っ、……言葉に、なりませんわ……っ!」
咀嚼した瞬間、彼女の白い頬が鮮やかなピンク色へと染まった。
口いっぱいに広がるのは、山羊の乳の圧倒的なコクと、カリッと焼かれたベーコンの力強い塩気。
そして、それらを受け止めるジャガイモの素朴な甘み。
「レオン様の料理は……凍てついたこの世界で一番の、最高の『温かな魔法』です」
フィリアはうっとりと目を細め、続いて銀マスのソテーにナイフを入れた。
パリッとした小気味よい音の後に現れたのは、驚くほどふっくらとジューシーな白い身だ。
焦がしバターのナッツのようなコクと香草の爽やかな風味が、彼女の心の一番深いところまで優しく解かしていくようだった。
「それはよかった。僕たちの旅も、無駄じゃなかったな」
レオンハルトは満足げに微笑み、自身の分の皿を手に取った。
* * *
翌朝、王都の代表や復興に携わる騎士たちから、「新たな聖女、そして救国の英雄として、どうかこの都に留まってほしい」と、涙を流しながら懇願された。
しかし、二人はお互いに視線を交わし、静かに、だが確固たる意志を込めて首を振った。
「お気持ちは嬉しいですが、私たちはここに留まるわけにはいかないのです」
フィリアが鈴を転がすような声で、穏やかに微笑む。
「世界には、まだ傷ついた土地がたくさんあります。私たちは、この世界に咲いたばかりの『小さな命』たちが、明日も無事に咲いていられるよう、それを手助けする旅を続けたいのです」
東の空から、眩いばかりの朝日が昇り、果てしない雪原を鮮やかな黄金色へと照らし出していく。
レオンハルトは愛馬の背にフィリアを乗せ、手綱を引いて、再び新しい街道へと歩み出した。
背後に残された聖都には、もうかつてのような絶望の影は微塵もない。
民は皆、笑顔で二人の背中を見送っていた。二人が歩んだ後には、必ず希望という名の美しい花が芽吹いていくことを、誰もが確信していたからだ。
神の加護を失い、泥まみれになりながらも戦い抜いた元英雄。
そして、組織を捨て、ただ一人の男を愛し抜いた元聖女。
二人の旅路は、新しい世界の輝かしい夜明けと共に、どこまでも、どこまでも続いていくのだった。




