第25話 焦土に咲く花、新しい世界の夜明け
深い微睡みの底から浮上するように――
レオンハルトはゆっくりと重い瞼を開いた。
視界に最初に飛び込んできたのは、白い天幕の天井と、そこから透けて見える柔らかな陽光だった。
鼻腔をくすぐるのは、薬草の清潔な香りと、温かいスープの匂い。
「……ここは」
掠れた声を出して身をよじると、ベッドの傍らで微かな寝息が聞こえた。
フィリアだった。
彼女はレオンの手を両手でしっかりと握りしめたまま、ベッドの縁に突っ伏して眠っていた。その目元には色濃い隈があり、彼女がどれほど不眠不休で自分を看病してくれていたのかが痛いほど伝わってきた。
レオンは、空いている方の手でそっと彼女の銀糸の髪を撫でた。
その感触の温もりに、生きているという実感がじわじわと胸に広がる。
己の内側に意識を向けると、常に魂を焦がすように燃え盛っていた『戦神アレースの加護』の荒々しい奔流は消え失せていた。代わりに、胸の奥底で小さな種火のような温かい光だけが静かに瞬いている。
世界を脅かした破壊神は消滅し、神殺しとしての役目は終わったのだ。
「……ん……。レオン、様……?」
髪を撫でる手に気づいたのか、フィリアがゆっくりと顔を上げた。
焦点の合わない瞳がレオンの顔を捉え、数秒の空白の後、彼女の大きな瞳からボロボロと大粒の涙が溢れ出した。
「レオン様ッ……! ああ、神様、ありがとうございます……っ!」
フィリアはレオンの胸に顔を埋め、子供のように声を上げて泣きじゃくった。
レオンは痛む体を少しだけ起こし、彼女の細い背中を優しく抱きしめ返した。
「心配をかけたね、フィリア。……君のおかげで、戻ってくることができたよ」
その日の午後、レオンはフィリアの肩を借りながら天幕の外へ出た。
そこは、グラン・メリアの王都へと続く街道の丘の上だった。
ラトニアから派遣された騎士団と医療隊が、ここに前線基地を設営し、数日間にわたって眠り続けていたレオンを保護してくれていたのだという。
丘の上から見下ろす旧祖国の景色は、一変していた。
すべてを飲み込んだ黒い霧も、おぞましい魔獣の姿も、空を覆っていた絶望の球体もない。
そこにあるのは、見渡す限りの真っ白な「灰の海」だった。
白亜の城壁も、華やかな大通りも、人々の生活の息吹も、神の炎によってすべてが浄化され、均一な灰の平原へと還っていた。
「……何もない、か」
「はい。生存者は、一人も発見されませんでした。ラトニアの調査隊が王都の跡地まで向かいましたが、悪意や呪いの類は完全に消え去っていると報告がありました」
フィリアの言葉に、レオンは静かに目を伏せた。
彼を追い出し、石を投げた民衆。
保身に走った騎士たち。
そして、世界を道連れにしようとしたイザベラ。
彼らが遺したものは、あまりにも空虚なこの灰の海だけだ。
憎しみも怒りも、今はもうない。
ただ、どうしようもないほどの寂しさと、命の儚さに対する祈りだけが、レオンの胸に去来していた。
「少し、歩いてもいいかな」
「はい。私が支えます」
二人は、丘を下り、真っ白な灰の平原をゆっくりと歩き始めた。
風が吹くたびに細かい灰が雪のように舞い上がり、二人の頬を撫でていく。
死臭に満ちていた風は、今はただ清浄で、冷たい土の匂いだけを運んできた。
やがて、二人は決戦の中心地――
かつての王都の大広場であった場所に行き着いた。
そこには、奇妙な光景が広がっていた。
レオンが「万剣顕現」で空へと放った数万の聖剣。
光となって消えたかと思われていたそれらの剣が、錆を落とし、鈍い銀色を取り戻した状態で、灰の海に墓標のように静かに突き刺さっていたのだ。
まるで、この地で理不尽に命を散らした何十万という人々の、声なき魂の列のようだった。
「みんな、帰ってきたんだな……」
レオンは、立ち並ぶ剣の合間を縫うように歩き、その中心へと向かった。
そこには、戦いの最中に神気に耐えきれず折れ飛んだ、レオンの「愛用の鉄剣」が、半ば灰に埋もれるようにして刺さっていた。
彼がグラン・メリアを追放された日から、ラトニアでフィリアを守るために共に戦い抜いた、安物だが誇り高き相棒だった。
レオンが折れた剣の柄にそっと手を伸ばそうとした、その時だ。
「レオン様、見てください……!」
フィリアがハッとして、鉄剣の足元を指差した。
見渡す限りの死の灰。
その均一な白の世界の中で、たった一つだけ、異なる色彩がそこにあった。
折れた鉄剣の刃が作る小さな日陰。
そこに、淡い緑色の双葉が顔を出し、透き通るような純白の小さな花を咲かせていたのだ。
神の呪いに焼かれ、すべてが死に絶えたはずの焦土。
その真っ只中で、名もなき花が、小さな、しかし確かな命の息吹を上げていた。
「……ああ」
レオンの瞳から、自然と涙がこぼれ落ちた。
それは、悲しみの涙ではなかった。
彼が守りたかったものが、彼が命を賭して繋ぎ止めた世界が、間違っていなかったという証だった。
命は、終わらない。
どれほどの絶望に焼かれようとも、大地は再び芽吹き、新しい明日を紡ぎ始めるのだ。
レオンは灰の海に膝をつき、その小さな花に触れないように、そっと両手で包み込むような仕草をした。
「……フィリア。俺は破壊神から――いや、あれが「イザベラ」だった時から、この国を、人々を救えなかった。破壊神は倒したが、後には一面の灰しかない」
彼は立ち上がり、フィリアの瞳を真っ直ぐに見つめた。
「でも、違った。まだここは、こういう『小さな命』が、当たり前に明日を迎えられる世界だ。……今日咲いた花が、明日も咲いていられる。そんなささやかな日常はまだ残っていた」
黄金の光を失った彼の瞳には――
かつてないほど穏やかで、力強い輝きが宿っていた。
「グラン・メリアは滅びた。聖王国も、この戦いで大きな傷を負った。世界には、まだ癒えぬ悲しみや、魔物、争いの火種がたくさん残っているだろう。……だから、俺は旅に出ようと思う。特定の主君に仕える剣としてではなく、傷ついた世界を巡り、人々の明日を手伝う、ただの一人の人間として」
それは、英雄としての華々しい帰還の放棄であり、同時に、果てしない苦労を伴う「終わりなき旅」への決意だった。
フィリアは、驚く様子はなかった。
彼がそういう優しく不器用な男であることを知っていたからだ。
彼女は微笑むと、自分の胸元にあったラトニア王家の紋章が入ったブローチを外し、レオンの手のひらにそっと乗せた。
「私も、王宮には戻りません。兄上や姉上にお手紙を書きました。王女としての責務は二人に託し、私はあなたの側で生きると――」
「フィリア……? しかし、それでは君に辛い思いを」
「辛くなどありません」
フィリアは、レオンの手を強く握り返した。
「私の居場所は、豪奢な王城の中ではありません。あなたが歩む道の隣こそが、私の帰る場所なのです。……共に参りましょう、レオン様。この新しい世界が、どんな花を咲かせるのか、私に一番近くで見せてください」
彼女の揺るぎない笑顔に、レオンは言葉を失い、やがて降参したように破顔した。
「……君には敵わないな。分かった、俺の背中は、これからも君に預けるよ」
東の空から、まばゆい朝陽が昇り始めた。
光は白い灰の海を黄金色に染め上げ、突き刺さった数万の剣の欠片を温かく照らし出していく。
焦土に咲く一輪の花を後に残し、レオンハルトとフィリアは歩き出した。
彼らの足跡は、灰の平原に真っ直ぐな道を作っていく。
その道がどこへ続くのか、今は誰も知らない。
しかし、二人の繋いだ手と、彼らを包む柔らかな風だけが、新しい世界の夜明けが希望に満ちていることを、確かに物語っていた。
―END―




