第24話 執着の終焉、神の核を貫く者
どれほどの時間が経過しただろうか。
亡国グラン・メリアの空は、昼夜の区別さえ失われていた。
上空に浮かぶ暗黒の巨星は、レオンハルトが放った「聖剣の雨」によってその表面を削り取られ総量を大幅に減らしながらも、より禍々しい「人と悪魔を融合した姿」へと変貌を遂げていた。
漆黒の液体は、空中で女性の像を形作っていた。
それはイザベラの姿を残酷に引き伸ばし、無数の苦悶する顔が肌の表面で蠢く、高さ10メートルに及ぶ絶望の化身。その胸部の中央に、脈動する赤黒い「神の核」が埋め込まれている。
「レオン……。どうして、わかってくれないの……」
大気を震わせる声が、レオンの鼓膜を直接叩く。
それはイザベラの声であり、同時に悪魔レヴィアタンの呪詛だった。
レオンは地面に膝をつき、肩で荒い息をついていた。
全身の皮膚からは血が滲み、戦神の加護を維持し続ける肉体は、内部から焼き切れる寸前だった。
隣で杖を支えにするフィリアもまた、顔色を失い、その指先は生命力の枯渇による震えが止まらない。
すでに死闘は数時間に及んでいた。
「私はあなたを愛しているだけ。この汚れた世界をすべて消し去って、私とあなた、二人きりの静かな闇を作ってあげるって言っているのよ……!」
――異形の中に残るイザベラの記憶。
名門ヴァロア家に生まれ、常に他者を見下し、取り巻きと共に弱者を踏みにじる日々。世界は自分の思い通りに動くものだと、疑いもせずに生きてきた。
その空虚な世界で、ただ一人、思い通りにならなかった存在――レオン。
彼女にとって下級貴族の少年は、最初から「人間」ではなかった。
自分の空洞を埋めるために手に入れたい“所有物”。
どれだけ痛めつけても、邪険に扱っても、なお自分を愛し、跪き続ける下僕でなければならない。
レオンという“神の加護を受けた特別な存在”から無条件の愛を注がれることでしか、彼女の肥大した自尊心は保てなくなっていた。
そして、イザベラには他者を思いやる心がなかった。
それがこの女の悪の本質。
彼女は、凡庸な悪人だった。
どこにでもいる様な、平凡な悪――
それが公爵家の権力と悪魔の力を得て増長された。
「……それが、君の愛か、イザベラ」
「ええ、そうよ。私の前に跪きなさい。そうすれば、あなたの命だけは許してあげる。もう戦神の力は残っていないのでしょう? 到底、勝ち目はないわ。命は惜しいでしょう? だから、地面に両手をついて忠誠を誓いなさい」」
レオンは怒りに震える足で、一歩、大地を踏みしめた。
「断る!」
周囲には、先ほど降り注いだ「聖剣の雨」の残骸――
無数の光の破片が漂っている。
「お前は、自分を過大評価し過ぎている。俺はお前のことなど“なんとも思っていない”。それなのに付きまとわれても迷惑なだけだ。相手の気持ちに配慮せず、自分の心が満たされることだけを求め、挙げ句の果てに大勢を殺し、世界そのものを壊そうとしている。……そんな奴に縋って生き延びたいとは思わない!」
「ええい! 黙りなさいッ!!」
破壊神イザベラの腕が振り下ろされる。
その一撃は大地を割り、衝撃波だけで周囲の瓦礫を塵へと変えた。
レオンは紙一重でそれを回避するが、衝撃で吹き飛ばされる。
宙を舞うレオンの体を、柔らかな白銀の光が受け止めた。
「レオン様、まだ……終わらせません」
フィリアだった。
彼女は最後の力でレオンの体を受け止め、そのまま強く抱きしめた。
レオンも、すでに力を使い果たしている。
このままでは、二人ともイザベラの暴力に蹂躙されるしかない。
絶体絶命の状況――
それなのに、二人の胸には不思議な温かさと共に、力が湧き上がってきた。
「……このまま、君と死ぬのも悪くない。そう思ったのだがな」
「私も、もう終わりだと……でも、あなたと一緒なら、そう思えてしまって」
二人がそう呟いた瞬間、レオンの剣が再び黄金の輝きを取り戻した。
それはレオンの力だけではない。
聖女の祈りが、彼の背を押す温かな風となって寄り添っていた。
「……ありがとう、フィリア。――さあ、イザベラ。決着をつけよう」
レオンは折れた剣を天へと掲げる。
フィリアの白銀の光と、英雄の黄金の意志。
それらが一つに溶け合い、レオンの手元で、美しくも恐ろしい輝きを放つ一振りの「聖剣」へと姿を変えた。
「これで……最後だ!」
レオンハルトの全身から、それまでとは次元の違う神気が溢れ出した。
彼の姿は、もはや黄金の流星。
破壊の神が放つ黒い波動、怨嗟の叫び、空間を削り取る暗黒の魔法。そのすべてを、レオンはただの一振りで断ち切り、一直線に「破壊神の核」へと肉薄する。
「やめて……来ないで! 私に跪きなさい、レオン!!」
イザベラの貌が恐怖に歪む。
だが、レオンの瞳に迷いはなかった。
彼は巨神の胸元へと着地すると、全霊の神気を込めて聖剣を突き出した。
「さよならだ、イザベラ。……せめて次の世では、一人の人間として、誰かを愛せるように」
――『神殺し(ディバイン・スレイヤー)』。
聖剣の先端が、赤黒い核を貫いた。
一瞬の静寂。
次の瞬間、核から溢れ出したのは、世界のすべてを塗り潰すほどの純白の閃光だった。
ガァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァンッ!!
巨神の肉体が内側から爆散する。
漆黒の液体は光に焼かれ、呪詛の叫びは聖歌のような清らかな響きへと浄化されていく。
爆発の中心で、レオンは確かに見た。
怪物としての姿を失い、元の姿に戻ったイザベラ。
彼女が何を言おうとしたが、それは光の中に消えていった。
暗黒の球体は、ガラス細工が砕けるように崩壊した。
空を覆っていた漆黒の雲が、中心から大きく裂けていく。
そこから差し込んだのは、冷たい絶望の影ではなく、数ヶ月ぶりにこの大地を照らす、本物の暁の光だった。
ドサリ、とレオンが灰の積もった地面に倒れ込んだ。
聖剣は役目を終えて光の粒となり、彼の右手には何も残っていない。
視界が白く霞む中、レオンは自分の名前を呼ぶ、愛しい女性の声を聞いた。
「レオン様! レオン様!!」
駆け寄ってくるフィリアの姿を捉えた瞬間、レオンの意識は深い――
安らかな闇の中へと沈んでいった。
グラン・メリアの王都。
かつて栄華を極め、そして地獄へと堕ちたその場所は、今、聖剣の光によってすべてが焼き払われ、真っ白な灰に覆われた静寂の地となっていた。
空には、皮肉なほどに美しい朝日が昇り始めている。
執着の終わり。
それは、世界が再び「明日」という時間を取り戻した瞬間だった。




