第22話 亡国の荒野を征く、二人の騎行
ラトニアの国境を越えた瞬間、世界から「色」が消えた。
数日前まで、そこには初夏の風に揺れる黄金色の麦畑と、人々の生活の息吹があったはずだった。
しかし、目の前に広がるグラン・メリアの領土は、まるで数百年もの間、死の呪いに晒され続けたかのような、荒廃した灰色の世界へと変貌していた。
空はどんよりとした紫黒色の雲に覆われ、太陽の光は一切届かない。
その代わりに、天高く浮かぶ巨大な「漆黒の球体」から、粘り気のある黒い雫が絶え間なく降り注いでいた。
「……これは、雨じゃない。神の、あるいはイザベラの悪意が形になったものだ」
レオンハルトは愛馬の足並みを緩めることなく、低く呟いた。
彼らが纏っているのは、ラトニア王家に伝わる聖なる守護の加護を付与された旅装だが、それでもなお、肌を刺すような冷気が防具の隙間から侵入してくる。
「レオン様、大丈夫です。私の光が、あなたを守りますから」
レオンの背後で、彼の腰に細い腕を回しているフィリアが、静かに祈りを捧げた。
彼女の全身から溢れ出す柔らかな白銀の光が、二人と一頭を包み込む「繭」となり、周囲のどす黒い瘴気を弾き飛ばしていく。
もしフィリアのこの力がなければ、屈強なレオンとて、数時間と持たずに精神を汚染され、発狂していただろう。
二人は、王都へと続く街道をひた走った。
道中、いくつもの村を通り過ぎたが、そこに「生きた人間」の姿はなかった。
ある村では、家々が内側から爆発したように破壊され、食卓には冷え切った食事がそのまま残されていた。
別の村では、住人たちが互いに殺し合ったかのような凄惨な跡があり、遺体はすべて黒い霧に溶けて、影のような不気味な「シミ」となって地面にこびりついている。
「ひどい……。あんなに熱心に神に祈り、明日を信じていた人たちが、どうしてこんな……」
フィリアが悲しみに声を震わせ、レオンの背中に顔を埋めた。
レオンは何も答えられなかった。
彼がこの国にいた頃――
命を懸けて守ってきたのは、まさにこの人々だったのだ。
自分を裏切り、石を投げた者たちであっても、彼らには彼らの生活があり、守るべき家族がいた。
自分が追放されることで、全ては丸く収まったと思っていた。
それが、一人の女の身勝手な執着のために、魂ごと食い潰された。
「……あそこにいるのは」
レオンが不意に馬を止めた。
街道の先、黒い霧の中から、よろよろと立ち上がる影があった。
それはグラン・メリアの国境守備隊に所属していた騎士の成れの果てだった。
甲冑は腐食し、肉体は黒い液体へと置換されているが、その手には今も錆びついた剣が握られている。
「……レオ……ン……。タス、ケ……テ……」
異形の口から漏れたのは、助けを求める掠れた声だった。
だが、その瞳には知性はなく、ただ破壊神の命令に従うだけの人形と化している。
「レオン様、いけません! あれはもう、救える魂ではないのです!」
フィリアの叫びと同時に、影の騎士が獣のような咆哮を上げて飛びかかってきた。
レオンは腰の鉄剣を抜くと、一閃のもとにその影を両断した。
手応えはない。
影は悲鳴さえ上げず、ただ真っ黒な水となって地面に吸い込まれていった。
「分かっている、フィリア。救う方法は、元凶を絶つことだけだ」
レオンの瞳に、黄金の神気が微かに宿る。
悲しみは、今や冷徹な殺意へと昇華されていた。
彼らは再び馬を走らせた。
一刻も早く、あの空に浮かぶ絶望の核へと辿り着かなければならない。
進むにつれ、周囲の風景はさらに異様さを増していった。
大地には巨大な亀裂が走り、そこから破壊神の「血管」のような太い蔦が這い出し、空へと伸びている。
そこにあったはずの美しい森は、葉の一枚一枚が鋭利な刃物へと変質し、風が吹くたびに不気味な金属音を立てていた。
もはやここは、人が住むための世界ではない。
破壊神が、この大陸を自分の「肉体」へと作り変えようとしているのだ。
数時間の強行軍の末、ついに二人の視界に、かつての王都グラン・メリアの城壁が見えてきた。
だが、そこにあるのは白亜の城壁ではなかった。
城壁はドロドロに溶け、巨大な黒いドーム状の「肉の檻」に覆われている。
そして、その頭上には、月を隠すほどに膨れ上がった暗黒の球体が、まるで巨大な「目」のように地上を見下ろしていた。
「……着いたぞ。ここが、世界の終わりと始まりの場所だ」
レオンは馬を降り、フィリアを優しく地面に下ろした。
彼らの目の前、大広場があった場所には、凄まじい光景が広がっていた。
何万、何十万という人々の遺体こそ消えていたが、そこには主を失った無数の「剣」が、地面に突き刺さっていたのだ。
騎士たちの長剣、兵士たちの槍、民兵たちが手にした粗末な短剣。
それらが、見渡す限りの広場を埋め尽くす墓標のように、整然と、しかし不気味に並んでいる。
虐殺の瞬間に、持ち主たちが最期に握りしめていた「生への執着」と「無念」が、その剣の一本一本に宿っているかのように、錆びついた刀身がかすかに震えている。
上空の黒球――
破壊神・イザベラが、侵入者の気配を察したように大きく脈動した。
ドクン、という鼓動が、大地を揺らし、レオンの鼓膜を叩く。
同時に、黒い球体の表面から、数千本もの「黒い触手」が、鞭のようにしなりながら二人に向かって一斉に振り下ろされた。
「レオン様ッ!」
フィリアが杖を掲げ、全力を込めて光の障壁を展開する。
凄まじい衝撃が二人を襲い、障壁に無数の亀裂が入る。
このままでは持たない。
神の暴力は、あまりにも一方的で強大だった。
だが、レオンハルトは逃げなかった。
彼は手にしていた予備の鉄剣を地面へと突き立てる。
「……聞こえるか、グラン・メリアの同胞たちよ」
レオンの声に、戦神アレースの神気が混ざり――
「お前たちの命を奪い、魂を弄んだあの『邪神』は、俺が必ず討つ。……だから、その無念を俺に託せ。お前たちの『生きた証』を、今一度、世界を救うための力に変えさせてくれ!」
周囲の空間を黄金色に染め上げていく。




